文化

はじめに


 「文化と文明」なる一文をものにしようと考えて、筆を執り始めたのはかなり前のことで、パソコンには当時の残骸がかなり残っている。ファイルの作成日を見ると、2002年(平成14年)であるから、10年以上も昔になる。すでに書き上げた「日本人の気質」を書く上での前提と、この国いや世界の将来への見通し(ずいぶんと張り切っていたものだ)を書くつもりであったのだが、むしろ本体が先にできあがってしまった。昔のものでありながら、書きたかった内容が、10年以上たったいまも変わらないというのは、大きなテーマの本質や現状はそう変わらないと言うことなのだろうか。

 当時の序章なるものの一部を引いてみよう。



 『序章 この国でおきていること

  いったいこの国、いや我々はどこに行こうとしているのであろうか?かつて中学時代の同級生が、「この国にいると、もはや生命の危険さえも覚える。いずれ海外に脱出するしかない」と言った。中にはすでに海外にいて、「このままこちらに住んで、日本にはもどらない」と言う者もいる。
 たしかにいま我々は、怒りや不信の感情よりもさらに奥深いところで、漠然とした不安と焦燥感にかられている。それは戦前の日本人が、戦争前夜や敗戦を意識しだした頃の気持ちと通じるものがあるのかもしれない。あるいは、毛沢東の文化大革命が嵐のごとく吹き荒れ、日本でも毛語録を掲げて熱に浮かされたようになっている人々を見たとき、いいしれない恐怖を覚えたのと同じかもしれない。
 だがそれら対象をもつ恐れと異なり、いま感じている不安はこの国の文化の崩壊、すなわちそれは文化を構成する我々自身の崩壊、自我や自己の崩壊に他ならないのだが、にまつわりつくものであろう。身にまとったものが剥ぎ取られ、肉体はおろか精神までもが徐々に削り取られていく、それでいて痛みも感ぜずやせ細っていく自分を、薄れ行く意識がなすすべもなく自覚しているような、そんな奇妙な感覚にとらわれているのは私だけであろうか。』



 書き出しでこれである。精神の高揚というか、興奮度合いがわかろうというもの。興奮しすぎて結局頓挫したのかもしれないのだが。「文化と文明」といいながら、それらの概念の解説と言うよりは、概念が戦後の日本人にいかなる影響を及ぼしているのか、その大前提を解説したがっているというのがよく見て取れるのだが。

 個人的に考えている「文化と文明」の概念については、すでにかなりの部分を「日本人の気質」で述べている。したがって、ここでも重複する部分がかなりあることはあらかじめお断りしておきたい。それらにくわえて、いま世界で起きているさまざまな紛争や衝突の裏にある文化と文明の相克をとりあげたい。さらにはいまグローバル化という名のアメリカ文明が全世界を席巻しようとしており、それがまた衝突の原因ともなっている。だが「文明」は文明である限り、滅ばないものはない。アメリカ文明も例外ではあり得ない。としたならば、我々は次の文明をいかに切り開いていくべきなのか、そんな事もこの一文から考えてほしいと思う。

 「はじめに」がやけに堅苦しく、重たくなってしまった。本文は逆に「木に登った豚が空を飛ぶ」位の簡単な解説に努めてみたい。図工などは通信簿で5だったのだが、こうなるとイラストを書く才能が無いのが悔やまれてならない。

2015.07