文化
第1章 文化とは、文明とは

文化の階層構造・文化と文明


 文化の階層構造



 「文化」と「文明」の違いとは何か?100を超える説があるそうなので、それをすべて見ている余裕もないのだが、共通項もいくらかあるようだ。関係性として、下部構造としての「文化」と上部構造としての「文明」がある。また、文化には精神的なものも含まれるが、文明は技術的な色彩が濃い。このあたりは、それほど異論はないだろう。

 ホフステード(hofstede)は、文化とは集団構成員に共通のものだが、多くの場合目には見えず、無形ではあるが、ある集団や組織や国を他に対して特徴づけるものであると定義している。彼の見解では、文化は2つの主要要素から成り立っている。1つは中枢にある目に見えない価値観、もう1つは表層にあってある程度目に見える有形の要素で、一般に慣習と呼ばれるものである。
 文化を構成する主要な要素:中枢を構築する不可視の「精神的な価値観」
 文化の表層を形成している:ある程度目に見える「人々・組織の慣習」


 また両者の包含関係として、辞書の解説のように「文明の中に文化がある」という説も多いのだが、ここでは、文明を表層文化すなわち文化の一部として捉えることにする。
 細かいところや、その内容はさておき、文化もまた階層構造をなすものだという事は大方の賛同をなすものであるから、文化の階層構造について、次のような概念でとらえておきたい。

文化構造


 人間がヒトである限り生み出された文化は、人類として共通のものをその根底に有するであろう。それを「人類の普遍的心理層」としておきたい。生物学的基盤と言ってもよいのかもしれないが、少し広くなりすぎるだろう。その上に、最も深層の部分から最も表層的な部分まで、階層的に連なるのが文化である。

 深層文化の層


 固有の精神文化(思想、哲学、宗教、道徳、芸術等)を成立させている民族特有の思考パターンや、感情、感性の嗜好性などである。人間の感性で、特有なプロセスやその現象は、集団の深層文化の層にあたる。ここには各集団、たとえば民族に固有の心情や感性のあり方が含まれる。精神分析学的な、その集団にある共同の無意識といったようなものを想定してもよいであろう。表層文化の層ほどには目立たないが、深層文化の層も明らかにそれぞれの集団に固有の特徴を備えている。そしてここでは、ひとつの心情の元に集まろうとするような、排他的統合(内向き)の力が働く傾向をもつ。この文化の内向きの力によって制度や習慣といったものが保持されやすくなる。

 集団が持つ共同体意識とは、感性への共鳴や共感などがもとになって、内向きの力がまとまりを与えるのであろう。共同体意識が生まれるうえで、外部からの圧力が必ずしも必要とされないのは、そのためである。

 表層文化の層


 表層文化の層とは、まさに文化の表面を覆うもので、物質文化と呼ばれる構築物、機械、交通手段など物質的文化的所産と、精神文化の言語や知識、制度、宗教などの形をとって表現される部分が相当する。この層がもっとも文化というものを論じる舞台になりやすい。無論これらは深層文化と強く結びついているのであるが、流行に代表されるように、非常に変化しやすいものである。いわば、拡散しようとする外向きの力を代表している。物理学では、物質には拡散していずれ崩壊してしまう大きな力と、現状の形を維持しようとする内向きの小さな力がともに働いているという。文化も物質と同様に、内向きと外向きの両方の力の方向性を持つと考えることができる。これについては後述する。

 文化と文明


 ここでまた文化と文明の問題に立ち入らなければならない。

 文明と文化の定義は世の中に数多くあるが、ここでは通常の文明の概念を離れて、階層的構造での文明の位置について触れてみたい。文明の定義としては、辞書にある「特に、宗教・道徳・学問・芸術などの精神的な文化に対して、技術・機械の発達や社会制度の整備などによる経済的・物質的文化をさす」としておきたい。すると、階層的には当然表層文化に属することになるが、その中でも特に象徴明示的な部分を占める。両者の関係を図示したのが、次の図である。

関係


 表層文化は拡大傾向を持つが、文明はさらに普遍性を求めて、他の文化の深層部分までその影響を及ぼそうとする傾向を持つ。時にこれが、文明と固有文化との対立を生む。

 比較文化論でおちいるひとつのわなが、この階層構造ではないだろうか?精神医学、臨床心理など、臨床の実場面における体験を持つ多くの日本人臨床家は、西洋の理論がそのまま日本の患者に当てはまらないという経験を持つ。そこから、西洋の理論による日本文化論ではなく、日本独自の理論による日本文化論を論じることになる。そこまでは良い。問題は、そのあと両者を統合する普遍性のある論を、西洋の普遍的理論の上で構築してしまう過ちを犯しやすいことである。西洋の普遍的論理は、いかに人類普遍といっても西洋のものである。階層で言えば、西洋の深層文化を述べているに過ぎない。したがって、日本においても、表層文化としての日本文化論にあわせて、深層文化のそれも作るべきである。そのうえで、両者を持ち寄って、初めて真の人間に普遍的な文化・文明論が出来上がるのではないだろうか?

 文化と文明の方向性


 文明と文化とは、同一のものでありながら、その指向する方向性は全く異なる。文明は、均一的な同質化と侵略的な拡大を求め、他の文化へも広がっていこうとする。それに対して文化は、逆の方向性を持つ。より土着化し細分化し、分裂しようとする。その分裂は、必ずしも文化の基盤たる集団の共通感性が損なわれる場合ばかりではなく、他のより強固に撞着するくくりによって、引き裂かれることもある。

 たとえば本来同じ文化を持つ集団が、表層文化の一つである宗教によって分断されてしまうことがある。これを宗教文化の違いにより、異なる文化の集団ととらえるのか、そうではなくあくまで一つの文化集団としてとらえるのかは、なかなか難しい問題である。しかし、特定の宗教という文明によって浸食された文化は、その集団の内部、さらに構成員の精神構造にまで影響を及ぼすことになり、そうなれば結局は異なる文化集団になってしまう。さらに文化の持つ細分化の方向性が、それをより強固にしてしまうことになる。

 文化というひとつのものが、異なる方向性を併せ持つと言うことはあまり知られていない。だがこれこそ、世界で起きているさまざまな衝突のひとつの原因となっている。政治や経済政策においても、この事を理解していれば、もう少し柔軟で実効性のある政策がとられるのだが。

指向性

 文明と文化の違い、とりわけその方向性(ベクトル)が正反対であることに留意できれば、人類の歴史を見る上でも新鮮な視点を持つことが出来るが、この方向性についての活発な議論は少ないように見える。

 文明は必ず滅びる


 高度に発達した文化を持ち、国家などの枠組みを持つなどの条件をそなえたものが文明である、というのがこれまで一般的な解釈であった。従って四大文明などと言われるように、文化はたくさんあっても文明は限られる事になる。この考え方に与しないのは、国家などの権力・武力による統治の範囲が他の文化集団にまで及んでいることが、それほど本質的なものであろうかという疑問があるからに他ならない。文化というものを扱うときには、むしろそのような力によるものを排除することこそ、より本質が見えてくるのでは無いだろうか。また、世界最大の統治領域を誇ったモンゴル帝国をモンゴル文明と素直に認める論がほとんど見あたら無いのはなぜなのだろうか?自分たちの価値観に合うものだけを認めるのは、まさに自文化優先主義であろう。文明の問題点は、第4章で詳しく述べることにして、ここでは文明は必ず滅びるものである事を強調しておきたい。

 文化と文明の関係において重要なのは、その方向性、志向性だと述べた。また、表層文化である文明とは、科学技術などを中心とする、常に進化している技術とその基になる考え方、たとえば、西洋近代科学技術と自由・民主主義のようなものである。とするならば、「考え方」はさておき、「技術(テクノロジー)」は常に進化を遂げてとどまることはない。もしそれが止まるという事は、人類の進歩が停止することであり、それは多分人類の滅亡ということなのであろう。それゆえに、技術を中心とする表層文化たる文明は、必ず滅びて、次の新しい文明へと進化していく。それが人類の歴史でもあった。文明がいかに滅びようとも、それを生み出した文化は滅びることはない。文明が滅ぶたびにその担い手が死んでいたならば、人類はとうに全滅していたであろう。

 文明の興亡ということで、文明が衰退あるいは滅びる理由としてはさまざまなものがある。そのひとつに、進歩が生み出す文明の交代という考え方を入れておくのは無駄ではあるまい。

 いま、グローバル化と呼ばれるものの正体は、西洋近代科学文明の亜流としてのアメリカ文明に他ならない。ならばこれも、いつかは必ず滅びるときがくる。そのような意識を日本人が持てるかどうか、日本文化つまりは日本人の命運はそこにある。

 文化集団と国家


 文化とは、ある集団が特定の地域において社会共同体を営むとき、共通に持つ慣習や行動、さらにはその精神に関わる信念や志向、感性などの共通したくくりである。
 部族なり民族なりの文化集団が形成されるのとは別に、文明的な環境や政治・軍事的影響などにより、国家なるものが成立する。この国家の枠組みに囲われた構成員が、複数の文化集団からなり、かつ同一集団としての同化を拒むとき、民族紛争が生じてくる。同化できない最大の理由は、習慣や価値観の違いもあるが、何よりも意識の上での差別感であろう。無意識下であっても、この差別感は同化を拒み、それが価値観や文化の違いをさらに意識させることになる。これは、文化の持つ分化指向を考えるとき、宿命的なものともいえよう。

文化と国


 日本においては、日本人(日本民族)という文化集団と日本国というくくりの間に大きな亀裂が無いために、国家と日本人を同列で論じられる事も多い。しかしその理論を他の民族や国家にも当てはめようとすると、とたんに理論が破綻してしまう。よく理解しておく必要があろう。

文化と日本国


 国家とそれを構成する文化集団との関係は、文化と文明の方向性の関係とよく似ている。国家という枠組み(くくり)は、文明と同様、常に外へ外へと拡大しようとする指向性を持つのに対して、文化集団はより純化し、独自化して分裂していく指向性を持つ。この相反する方向性を同時に持つがゆえに、様々な問題もまた生じてくる。国家のくくりが、本来一つの文化集団を分断している場合などには、さらに混迷の度合いを深めてしまう事になる。だからこそ、くくりという概念が重要な意味を持つのである。

 ところで、図中に「同化せざる民」という単語があるが、これついては第5章で説明したい。