文化
第2章 文化の発生と変容

文化の反応形態・文化相対主義


 文化の反応形態


 ここで文化の反応形態について考えてみたい。特定の文化に加えられた刺激に対する反応という形で、文化のプロセスの一部を考えてみる。情報として認知された刺激の入力は、その後一連の受容プロセスを経ることになるが、最終の反応だけを見ると、大きく、感情反応、知性反応、社会反応の3つの形態となって表出される。  くくりを「阪神ファン」という小さなものに仮定してみた場合、「試合に負けた」という情報は、「くやしい」という感情と、「これで、3連戦1勝1敗だ。明日が勝負だ」と考えさせる知的、「同じファン仲間と飲みに行く」というような社会的反応などを引き起こす。この社会的反応が感情的反応と強固に結びつくと、道頓堀に飛び込んだり、巨人ファンとけんかをしたりするような行動につながる。社会病理と呼ばれる現象の一部にはこのような反応があるのかもしれない。
 深層文化への刺激は、表層文化へのそれよりも感情的反応を引き起こしやすいので、社会的反応がいっそうヒステリックなものとなる。宗教のように、本来内向きのものが表層文化の外向きの力で押し出されたとき、受け手の文化側の反応は、常に劇的なものとなる。当然、拒否する方向において強固であるばかりではなく、許容する方向性においても同様なものになる。
反応

 スポーツ観戦が、敵味方による集団暴行や殺人にまで発展してしまう例が、特定の文化集団に見られる。それを文化の反応形態だけで説明するのは行き過ぎかもしれないが、少なくともある集団の文化の反応が、社会病理にまで進んでしまう事があるとは言えるのだろう。

 文化相対主義


 文化人類学や社会学で好んで使われる言葉に「文化相対主義」がある。この言葉をさかのぼると、哲学の相対主義と絶対主義論争にまで及んでしまうが、ここでは立ち入らない。簡単に文化相対主義をおさらいしよう。ある文化が最も進んでおり、他の文化はその発展途上にあるという考え方がある。この「ある文化」が、往々にして「自国、自民族の文化」となると、自文化絶対主義になってしまう。各国がそれを唱えれば当然争いの元となる。この反省から、各文化の価値はそれぞれ同じで、どれが進んでいるとか、劣るとか言うことは無い、という文化相対主義の考え方が生まれた。
 これは生物学において、かつては人類以外の動物は進化の発展段階の途上にあり人類よりも劣るものと考えられていたのだが、系統樹で示されるように、各動物はそれぞれの系統のもっとも進化の進んだ状態にあるとの考え方に変わっていったことにならっている。サルは人間への進化の途上なのではなく、サルの系統樹のもっとも進化したところにいる生き物なのである。したがって、サルと人間とは生物として同じ価値を持つ生き物である。文化も同じであって、ある文化が他の文化より優れているわけではなく、その価値は相対的に同じである。
 文化相対主義は、西洋優位の価値観からの脱却を促し、平等な視野を世界的に広げることに貢献した。したがって、大いに賞賛されねばならないのであるが、新たな問題もまた確実に生み出した。「絶対の真理」にまつわる絶対、相対主義の哲学論争や、その中で指摘された相対主義の自己矛盾性などはひとまずおいておくとしても、文化相対主義にも課題は残っている。ひとつは個々の文化を尊重するのはよいのだが、お互いの文化における価値観がまったく異なる場合、それは文化間の摩擦を引き起こす可能性を含んでいる。いわゆる「文明の衝突」問題である。むろん、この考え方自体が、相対主義の誤った解釈によるとする論もあるが、そのことは現実問題の解決にはあまり役立っていない。


 もうひとつが、あまり論じられないことであるが、「進歩」との関係である。文化相対主義の考えから外れてしまうのであるが、本当に文化間格差はないのであろうか、という疑問である。人類はこれまで大きく二つの文明を経験してきている。一つが農業革命であり、もうひとつが産業革命である。産業革命は18世紀末にイギリスに起こり、19世紀にはフランス、アメリカ、ドイツ、日本などが続いた。19世紀末から20世紀初めにこの技術革新を経過した国々が、主に現在の先進工業国の地位を確立し、遅れた国が発展途上国として、南北格差などを生み出している。こうしてみると、文明のような表層文化の領域は明らかに、進化(現在までの方向性を仮にそう呼ぶとして)の程度の違いがでてくる。これは、表層文化の機構や体制などシステムの話であって、それぞれの文化の価値の問題ではないことは自明ではあるが、文化はそれらシステムをも含むのであれば、両者の関係をどう考えればよいのであろうか?文化を表層文化と深層文化に分けて考えることの意味は、このようなところにもある。

 それでもなお、文化の価値観の相違において、避けられない問題がある。例として適当なのかどうかわからないが、食人(カニバリズム)や生け贄などがあろう。明らかにある価値観を持って行われている習慣は尊重されねばならない。しかし、これらの習慣が、現代人にとって生理的な嫌悪感を生じさせるのも事実である。幸いなことに、これらの習慣はすでに過去のものとなったので、このことが議論されることはないであろう。ただこのような問題の提起は今後のためにも必要であろう。これ以上は立ち入らないが、文化のように複雑で変化し続ける事柄を論じる場合には、ひとつの前提ですべてを論じきることに無理があることを強調しておきたい。その意味でも、くくりによって対象を選択することは、それなりの意味があると思う。
 女性への教育を拒否する文化は、未だ世界に実在している。それでも、文化は尊重されるべきなのか、普遍的価値観を持ち出して正すべきなのか。とうぜん、この例では後者であると日本人なら答えるだろう。だが、鯨を食べないのが普遍的価値観であるという話には、どうしても首を振りたくなる。では、犬を食べる文化はどうであろうか?ペットとして人間によって作られた種でもある犬を食べることの是非は、嫌悪感とむすびつくものとなる。

 最近では文化相対主義も雲行きが怪しくなっている。なぜなら、文化相対主義によれば、相手の文化を真に理解するには、その文化の一員とならなければ理解できないとする。すでにある文化の構成員が、他の文化の構成員に簡単になれるものであろうか?また、仮になれたとして、今度はすでに新文化集団の一員なのだから、以前の文化を正しく理解できないということになる。これはどう考えても矛盾しているだろう。相対主義の矛盾性ともつながる話になる。つまりは、基本の考え方のどこかに問題があると言うことになる。自文化絶対主義と文化相対主義の狭間で人間は、頭を抱えながら生きているのがいまの世界である。