文化
第3章 日本文化

気質と日本文化


 気質と日本文化


 日本人の気質と日本文化の関係において、どうしても触れておきたい項目が二つある。ひとつは「両価性」で、もう一つは「くくりと撞着」である。

 両価性


 気質構造が二重化しているためであろうか、日本は両価性文化の社会であると言えよう。心理学で言う両価性とは、愛憎表裏一体でわかるように、ひとつのターゲットに対して相反する感情を同時に持つことを言う。同じような意味であるが、相反するような特徴が文化の中で共存している事を述べている。時には衝突を起こすのだが、不思議なことに日常では問題も起こさずに共存しているのである。

両価性


 図からもわかるように、そもそも孤高武士型と集団農耕型という、かなり両極に位置するようなタイプの人間が混在している。そのうえで、例えば創造的ではあるが流行に走ることが無かったり、保守的な言動にも依らず流行に流されるなど、相反する特徴が複雑に絡み合って共存しているのが日本文化である。これは日本文化の非常に大きな特徴といえる。つかみ所の無い日本人とは、このように相反するものがさしたる衝突も無く共存していることから、そう見えるのかもしれない。
 来日した外国人の観光スポットにまで成った渋谷のスクランブル交差点。それぞれ異なる方向への歩みなのに、混乱も衝突も無く人が流れていく。これを当たり前にしか思わなかった日本人は、日本文化が両価性文化である事すら気づかなかったのかもしれない。
「日本人の気質 第1章日本人の気質とは −特徴的な日本人気質とは:両価性文化」参照。

 くくりと撞着


 くくりについては、第2章で説明した。本来は組織などの集団だけでは無く、概念などにも用いられるのであるが、本稿においては、文化や文明というくくり、すなわち、そのような集団を指すものとしてとらえて置けば、さして問題は無いだろう。
 詳しくは、「日本人の気質 第4章 くくりと撞着」を参照。

くくり

 日本人の気質を解説するうえでとりわけ重要な概念として取り上げたのが、「くくりと撞着」である。撞着(どうちゃく)とは、「執着する」と置き換えても大きくははずれないだろう。くくりが組織であれば、その組織の一員として組織に埋没するほど執着することを撞着と言い換えたのである。ちなみに「自家撞着」というのは自己矛盾という意味であるが、撞着はそのようにくくりとの関係性が矛盾したり、一体化したりとさまざまな問題を生み出すことを前提として使用している。
 図は、そのような集団農耕型のくくりへの撞着が、○○村と呼ばれるような閉鎖的で強固なくくりを生み出すことを示している。

○○村


 日本人の社会とりわけ集団農耕型が支配する社会においては、くくりへの撞着が進みすぎて、さまざまな問題を起こしてしまう。日本人が「集団的傾向を持ついや持たない」という議論は、実はこのくくりへの撞着傾向が強い集団農耕型気質の事であるとわかれば、簡単に説明がつく事も多い。また、両気質の撞着するくくりが異なることを理解できれば、なぜ孤高武士型が理想的なのかも理解できよう。

くくりと気質


 集団農耕型によるくくりへの撞着が行き過ぎた文化は、外来崇拝のような極端な特徴を生み出してしまう。真に成熟したおとなの文化は、調和のとれた気質からしか生まれてこないのだが。
「日本人の気質 第5章 くくりへの病的撞着がもたらす社会病理」参照。


 サムライ文化


 文化に関する話なので、ここでサムライ(侍・武士)文化についても触れてみたい。サムライ文化とは、孤高武士型気質の日本人が確立したひとつの生き様、行動様式のあり方とも言える。理想像としてのサムライについてはすでに述べたが、明治時代以前は武士道教育という形で、その実践が行われていた。しかし、西洋近代化という外来文明の受容において、大切な価値観・美意識などのサムライ文化を捨ててしまったのは、明治維新の大失敗と言わざるを得ないであろう。それが、その後の昭和における欧米列強の物まねをする集団農耕型の暴走を許す遠因ともなったのだから。

サムライ


 サムライ文化を成立させている孤高武士型気質で、特に集団農耕型と大きく異なる特徴(特長でもある)が三つある。自律心、精神力、行動力である。よく戦前の精神重視が無謀な戦争に駆り立てたと言うが、ここでの精神力とは異なるものである。ストレス耐性や自律するために必要な強い心(心的エネルギー)こそが、サムライの精神力である。物質に対抗する精神などという二項対立発想は、それ自体が集団農耕型のものである。
 自分で実践は出来ないが、サムライの行為・行動を好ましいものとする日本人の気質が、独特の日本文化を形成している。日本人の感性が変わらない限り、サムライ文化も滅びることは無いであろう。いや滅びて欲しくない。


 日本人の『神ながらの道』


 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、日本の「神道には哲学はない。体系的な倫理も、抽象的な教理もない」と述べている。宮本武蔵は、「神仏は畏敬するものにて頼むものにあらず」と言った。ここに、日本人の精神基盤の大元を成す自然観、神や超越的、絶対的存在の感じ方がよく現れていると思う。

 これこそが日本文化の基底に横たわるものである。それを「神ながらの道(神道)」と呼ぶことにすす。日本文化の基盤を成す感性を生み出したそのものである。一般にいわれる「宗教」とは別の次元の話である。図だけあげて、ここではこれ以上深く立ち入らないでおこう。いずれ別の機会に取り上げてみたいので。
「日本人の気質 第10章 新しい時代へ −超越的自然観(神ながらの道)とは」参照。

神