文化
第4章 現代世界の文明

西欧文明と西欧近代科学文明


 イスラム文明


 専門家に言わせると、「イスラム」は間違いで正しくは、「イスラーム」であるという。他国の言語を正しく日本語表記することなど元々無理がある話で、どうしても正確に表記したいのであれば、それぞれの言語をそのまま表記すべきであろう。したがって、本稿では「イスラム」とそのまま表記して使う事にする。むろん「イスラーム」とすべて置き換えても一向に構わないのだが。
 あえて、このような話から節を始めたのも、イスラム文明なるものに対するゆがみが、日本社会にもかなりあるように感じるからである。つまり、反イスラムか親イスラムかの二者択一的な論議が多すぎるうえ、そうで無ければ、文化相対主義的な話ばかりになってしまい、論議がかみ合っていないように思える。

 正直にいえば個人的には「イスラム文明」なるものは、すでに歴史的なもの、あるいは書物のなかの概念であり、現代社会において世界に影響を与えている文明のくくりとしてはとらえていない。むろん中東における紛争やイスラム過激派による数々のテロ行為等が、世界に影響を与えていないというのではない。大きな影響を与えていることを誰よりも認めるものである。しかし、それがイスラム文明というくくりによって成立し、今なおその文明が世界に影響を及ぼしているのだろうかと、考えてしまうのである。
 なぜそのように思えるのかと言えば、最大の理由は歴史的にはいざしらず、現在のイスラム文明には、制度や技術としての新しい要素があまりにも少なすぎると感じられるからである。イスラムの国家の制度が、イスラム教という宗教に基づく独自の国家体制、社会体制を構築していることは理解している。だが、人類にとってそれが将来の新しい国家制度の範とは考えづらい。イスラム教文化に基づくさまざまな文明の要素を否定はしない。法よりも宗教が上位にあったり、社会の制度が宗教に基づいて構築され、風俗や習慣までもが多大の影響を受けている。それらをイスラム文明としてとらえることは、充分に可能である。ただ、そのようにとらえてしまうと、たちまち他の西欧文明とどちらが良いのか、どちらが正しいのかという議論に陥ってしまうだろう。

 現在世界に最も影響を与え続けている文明のひとつとして、イスラム文明をあげることに反対はしない。だが、イスラム文化を文明としてとらえすぎるとき、大きな齟齬が生まれてくると思う。いまのイスラム文明は二つの大きな問題を抱えている。ひとつは、イスラム文化の国々の多くが、経済的には発展途上国の段階にあると言う事。自由主義に基づく市場・資本主義体制が正しいかどうかは別として、世界の経済は大部分がその枠の中で動いている。それはイスラム文化の国々も例外では無い。とするならば、経済がより発展したとき、彼らの社会の風習等文化的要素もまた変化していくであろう。

 もうひとつは、中東産油国などに見られる、政治(社会統治)体制の問題がある。自由や民主主義を求めてアラブの春がおきた。その失敗がその後の中東の混乱の要素の一つともなった。それでもなお、独裁的な統治体制が、イスラム教の教えを利用して強化されている現状に、果たして多くの民衆がいつまで従うであろうか?つまり、イスラム文明における政治体制は、決して将来も継続がみこまれる制度とは考えづらいのだ。

 こうしてみると、イスラム文化は残ってもイスラム文明の多くの要素は、いずれ無くなるか、変化していくことになるだろう。イスラム文化が、現状のままのイスラム文明を選択し続けるとは考えられないというのが、個人的な意見である。同時に、その変革が世界に大きな影響を及ぼすであろう事も、疑う余地は無いだろう。とすれば、悪影響を以下に最小化していくか、それが世界の課題でもある。

 イスラム教対キリスト教の構図とは、文明の衝突ではなく、イスラム文化における西欧・アメリカ文明との葛藤なのだろう。それにしても、イスラム文化圏の人々は、なぜ皆同じように見えるのであろうか?外見的な姿だけの話では無い。イスラム教の教義に忠実である様は、西欧的に見れば没個性的な行動に見えてしまう。イスラム文化は、日本文化と異なり、外来の他文明を受容する事においてあまり柔軟では無いと言うことであろうか。それでもトルコの世俗主義もあるから、やはり社会体制の問題もおおきいのかもしれない。
 世界全体のイスラム文明圏としてとらえることは、少し無理があると思う。イスラム文化を持つさまざまな国や民族の集団としてとらえないと、世界への影響も正しく認識できないだろう。

 情報文明


 情報文明が語られてからすでにかなりの時間がすぎている。しかし、気が付くとすでに人類は「情報文明」のただ中にいて、その事すら意識しなくなっている。文明の科学技術要素が生み出した、コンピュータとネットワークは、誕生当時には想像も出来なかったスピードで発展、進化を遂げて「情報文明」を成立させてしまった。

 経済において、実体経済とは異なる金融市場が作られて、その規模が実体経済よりもはるかに大きくなってしまった。同じように、情報文明が、単なる機械化による省力化を飛び越えて、生み出される膨大なデータや情報が、新たな「情報世界」を生み出すまでになっている。
 しかも、この動きは加速度的に増加しており、いつとどまるのか先が読めなくなっている。それは、核同様に、この情報技術という科学技術を人類が制御出来ないことを意味しているのかも知れない。

 始まった新しい技術文明


 情報文明の情報技術は、コンピュータとネットワークと呼ばれていた時代から、いまやロボットやAI時代に入っている。他にも遺伝子や染色体のゲノム文明や、生物学を土台に飛躍したバイオ文明などが、すでに人類の視野に入っている。さらに将来、宇宙文明、海洋文明なども花開く可能性が高い。

 これら新文明の特徴は、その予測の難しさ、とりわけ人間そのものや人間社会に与える影響の大きさをはかりかねているところにある。ここでは、深く立ち入らずにそれを指摘するに留めておきたい。

 日本文明


 ハンチントンも、日本文明とは他に仲間を持たない孤立した文明であると述べている。日本特殊論は日本人からだけでは無く、海外からも寄せられているのだが、日本の特殊性が、そのあまりにも長い文化の継続性にある事を指摘する論は少ない。
 文明を都市型国家の存在や農耕技術でとらえるならば、日本文明は影が薄く、中華文明の周辺に存在した派生文明であると言われることも多い。だが、文明の主要要素としての社会体制や技術でいえば、日本は別の文明である。
 日本文化は認めても、世界に多大な影響を及ぼす日本文明としてとらえる人はほとんどいないだろう。では日本文明とはなにかといえば、縄文文明である。それから見ていくことにしよう。

 縄文文明


 縄文時代は、ひとつの文化としてもこれまで正当な評価を受けてこなかった。だが、いまでは縄文文明として世界的に認知され始めている。最大の特長は、1万年以上も続いた持続性である。
 縄文文明は1万年以上も続いた持続性を持つ優れた社会機構を持った文明である。それ故に、長い間弥生文化すなわち農耕主体のあたらしい弥生技術の受け入れを拒んできた。だがやがて弥生文化を受容すると、縄文文化は弥生文化に取って代わられることになった。その大きな理由のひとつが、両文化の自然搾取の度合いであろう。言い換えれば、余剰生産性である。農耕文化においては、自然を酷使して最大の収穫を得る。それが、余剰生産となり、富を生み出すことにつながる。その結果、富の偏在や力による搾取などが発生して、次第に平等の社会から、権力を持つ一握りの人々とそれ以外の人々とにわかれていき、ついには中央集権的な国家にまで進んでいく。余剰生産が無ければ、強力な中央集権も国家も生まれてはいないだろう。

 ではなぜ、縄文文明は、この余剰生産物を持てなかったのであろうか?いや、持たなかったのであろう。それこそが、自然に対する感性の違いであり、長く弥生文化の受け入れを拒み続けた理由でもある。自然に過度の負担を掛けたり、人間の欲望のために自然を破壊することを「快」としなかったのが縄文人なのである。このことはまた、自然界の大きな変動が無い限り、持続可能な社会を形成して1万年以上にも及ぶ長期間の持続社会を持つことが出来た理由でもある。

 インカ帝国が高度な文明であっても、わずかな数のスペイン人にやぶれさってしまった。それは「銃」という科学技術の違いによる。このような人類史を見るとき、日本が長い間他国によって侵略支配されなかったのも、常に最新の科学・技術を取り入れることを厭わなかったことが大きいのだろう。その意味で、弥生文化の受容が過剰受容の嚆矢となったことはいなめないが、その後は新しい技術を積極的に受容するようになり、同時に長い目で見れば日本の安全に寄与したとも言えるだろう。近代の植民地時代においても、アジアでなぜ日本だけが西欧近代化に成功したのかといえば、地政学的な幸運だけでは無く、外来文明の持つ技術を速やかに受け入れる素地が日本文化に備わっていたからである。さらに1万年以上に及ぶ縄文文化が、代えがたい強固な芯となるものを日本文化や日本人の中に構築したからに他ならない。

 現在の日本文明


 人類史における異端の存在とも言える縄文文明は、行きずまりを見せる近代科学文明への新たなる指針を示しているのかも知れない。地球の資源の有限性から、人類の持続性が懸念されているなかで、すでに1万年以上の長きにわたり持続的な文明を持てたことは、紛れもない事実なのであるから。

 世界に対する文明の影響力と云うことから云えば、日本文明と呼べるようなものはあまりないのかも知れない。その一方で、日本文化の拡散とも云える現象が起きている。外来文明の受容に積極的である日本文化は、日本文明を日本文化の一部として再生産し続けているのかも知れない。その意味で、他国に大きな影響を及ぼすことは少ないのであろう。それでも科学技術など文明の部分部分においては、世界に貢献しているものもある。そういう文明のあり方なのだと知ることが肝心なのかも知れない。将来の日本文明については、別の章で見ていきたい。