文化
第5章 文化と文明の衝突

第5章 文化と文明の衝突


 本章の題を、「文化と文明の衝突」としたが、「文化間の相克(摩擦・衝突)」「自文化と他文明の衝突」「文明間の衝突」をすべて含むものである事は言うまでも無いだろう。
 表層文化である文明と集団の深層に強く依存する文化は、一体化した不可分のものでありながら、その指向する方向が全く逆である事はすでに繰り返し述べてきた。そして、それはさまざまな衝突や摩擦を生み出す原因とも成っている。

 文化と文明間のさまざまな衝突



 同一文化集団における文化と文明の衝突


 文化と文明の衝突と云うときには、自文化と外来文明の衝突を想像しやすいのだが、同じ文化集団内においてもこの衝突は起こる。新しい技術などいわゆる進歩・発展と現状維持の問題として。  文明が新しい技術やシステムによって生み出されるとき、それは当然のようにそれまでの既存の組織や仕組みを破壊しようとする。従来の仕組みなどを守ろうとすれば、そこでは当然両者の摩擦が生じる。その摩擦の大きさや社会に与える影響の度合いは、その文化集団の持つ気質とも絡んでくる。


 自文化と外来文明との衝突


 グローバル化が叫ばれ、地球が小さくなった現在では、この種の対立こそ、最も多い対立の構図なのであろう。同一文化集団においてすら新しい技術や仕組みの導入において、既存の保護勢力と衝突をするのである。ましてやその新しい文明が、外来文明であれば、自文化への侵略ととらえられることも不思議ではあるまい。実際、現在の中心的な文明である西欧文明、近代科学文明、アメリカ(グローバル)文明は、それを生み出した文化集団の利益を最大にするために、世界に広められていることも事実である。つまり人類の普遍性を口にしながら、その実体はそれらを生み出した文化集団の利益に合致するものだけを認めているに過ぎない。
 いっぽうで、日本のように外来文明を技術(テクノロジー)としてとらえ積極的に受容しようとする国もある。その場合、今度は外来文明の過剰な受容という問題がでてくる。日本においては特に顕著である。これもまた、文化と文明の衝突のひとつの形である。
 いうなればこれらの衝突は、文化による文明に対する反逆とも言えよう。例えば、共産主義体制や独裁制という文明(仕組み)にたいして、人権とか個人の自由とか文化に属するものが圧迫されるとき、それに対して激しい抵抗が起きる。台湾や香港での独立指向とは、まさにその典型的な例であろう。

 現代日本における文明と文化の衝突


 現在の日本においては、さまざまな問題や課題が山積しているが、その一つが東京一極集中と地方の衰退である。このような現状を生み出してしまった多くの原因を取り上げることも出来るのだが、ここでは個別の問題点よりも、もう少し大きな視点から見てみたい。そうすると、これが文明と文化の衝突であり、外来文明の過剰受容の問題として見えてくる。
 江戸時代の幕藩体制から、明治維新により中央集権の国家体制へと切り変わり、多くの戦争を挟んでいまもなお、その体制は維持され続けている。そこに、アメリカ文明の落とし子である資本主義経済、そして経済合理性や経済的効率性を至上とする社会や政治の枠組みが、過度に進みすぎた一極集中とそれ以外の地域衰退を招いてきたのである。個のアメリカ文明の過剰受容は、一部でいまも続いており、日本の衰退に拍車をかけている。

 グローバル文明と個別文化の相克


 いわゆる東西冷戦とは、民主主義陣営と社会・共産主義陣営の戦いとされるのだが、実体は経済体制としての資本主義経済と共産(社会)主義経済との争いである。その結果、資本主義が、経済発展、すなわちそれは国家の発展でもあるが、においてめざましい勝利を納めた。それ以降、政治形態や社会統治の在り方に依らず、経済発展を遂げるために少なからず資本主義的な経済体制を世界中で導入するようになった。これが、グローバル化とされる物である。そして、それは当然のことながらそれを強力に勧めてきたアメリカ文明の産物に他ならない。グローバル文明が、アメリカ文明と同義語になる理由はそこにある。
 なお、社会主義と共産主義は異なるものであるとの指摘はあるが、純粋な共産主義を実現した国家は未だ無く、社会主義の理想型のひとつが共産主義とも言える。したがって、本稿では両者の厳密な区分は行わないことにする。北欧型福祉国家を社会主義とか社会民主主義とか呼ぶこともあり、厳密な定義自体がさして意味を成さないという現実もある事は、最低限理解しておくべきであろう。

 さて、経済戦争に勝利したアメリカは、その覇権主義とも相まって、アメリカのやり方や価値観までも全世界にひろめようとしてきた。資本主義の経済体制だけではなく、システムや方法論、価値観までもその中に押し込んできたのである。その意味で、グローバル化とはアメリカ文明の侵略的拡張であり、過去の文明の在り方と何ら変わるところは無い。しかし、その浸透力は、過去の文明とは比べものにならないほど大きく広範に及んでいる。

 グローバル化が、資本主義体制という経済体制だけであるなら、これほど多くの摩擦は生じなかったであろう。資本主義と同時にアメリカ文化をグローバル文明すなわち普遍的な文明として、世界に普及をはかったのである。それはアメリカ文明・文化による、他の文化の破壊に他ならず、衝突が起きるのは当然の帰結でもある。
 西欧文明もまた自らの文明を普遍的な価値あるものとして、他の文化に押しつけたところは同じなのだが、それでもまだ、自分たちの長い歴史が異なる文化をすでに持っていることをみとめて、他文化との共存を打ち出した。だが、アメリカはそうでは無かった。自国のみが唯一との強い選民意識が、西欧文明よりも強固で破壊的なアメリカ文明を生み出してしまったのである。


 文化間の相克


 文化間、文明間、文化と文明間の摩擦を明確に区別してとらえることは難しい。しかし、食文化の違いなどは文化間の衝突と行っても良いのだろう。人類の普遍性で云うならば、雑食の「ヒト」が何を食べようと問題は無く、忌避したり制限するのは、その集団の価値観に基づく社会的な問題である。
 いまや世界的な食べ物になった寿司であるが、本来生ものを食べることが出来たのは、海に近く新鮮な魚介類が手に入る地域に限られていた。西洋人だけでは無く、同じアジア人でも中国人はこれまで生ものをあまり口にしなかった。それがいまでは、世界の海の魚を取り尽くすほどになってしまった。文化間の相克が、文化の受容と云う形を取るときには、食で云えば食糧危機や資源枯渇など、別の問題を引き起こすことになる。

 文化間の違いはそれを生み出した価値観が、新たなる文明によって取り除かれるとき、案外簡単に変わることができる物もある。一方で、宗教と結びついた食の制限などは、いかに文化間の摩擦を生もうとも、なかなか解消されるものではない


 文明間の衝突


 文明間の衝突とは、結局は文明と文化の衝突になるのだが、グローバル化の現代では、より複雑な文明間の衝突が生まれている。例えば、権力や統治機構として、共産党独裁主義や個人による独裁制を取る国でも、もはやその多くは、資本主義経済の仕組みを採用している。だが、政治機構、社会体制、経済体制、これらはすべて文明に属する物である。つまりは、同じ文化集団が、異なる文明を併存させていることになる。それは、経済の発展だけで見れば、むしろ理想的に見えるのかも知れないが、そのようないびつな併存は、必ず大きな摩擦を生み出す事になる。

 いま世界で問題となっているイスラム過激派による欧米のキリスト教文明への挑戦とは、見方を変えれば、異なる文明の併存が生み出す矛盾や、経済の仕組みだけを過剰受容した社会のゆがみ、とも言えよう。


毒