文化
第6章 新しい文明と人類の普遍文明

第6章 新しい文明と人類の普遍文明


 現代文明の限界



 近世・近代以降、人類はその科学技術の発展と相まって、現在のような物質的な豊かさを生みだす文明を手に入れた。その急激な発展は、文化集団毎に異なる文明の状況を生み出すと共に、さまざまな格差や人類共通の課題を生じさせてもきた。そしていま人類は文明史の曲がり角に来ていることを認識し始めている。


 西欧文明の限界


 西欧(西洋)文明の課題については、すでに多くの論者によって論じられてきたので、繰り返す必要も無いであろう。ただ西欧近代文明には、根本的な誤りが存在するかに見える。  西欧近代文明と言えば、自由・平等・人権を核とした思想で、経済活動としては資本主義経済を標榜するものと言うことになろう。この事においては、さまざまな矛盾や衝突を生み出してはいるが、目くじらをたてて全面否定するようなものでも無いだろう。では、何が問題なのか。いかなる文化・文明もそれを生み出し構成しているのは、人間である。したがって、その文化の構成員たる人々の思考や意識が、より重要なものとなる。そこで、西欧近代文明を生み出した西洋人(彼らが嫌う言葉の「白人」と言っても良いだろう)の考え方そのものに明らかな誤りを見て取れることが、根本的な問題なのである。

 彼らは、当然のことながら彼らの歴史の上で生きており、西欧近代文明もまたその歴史の中から生まれてきたものである。従って、その歩んできた歴史が異なれば、文化や文明のあり方もまた異なるものになるのは当然であろう。しかしながら、彼らは自分たちの価値観が人類普遍の価値観であり、人類の進化において最も進んだものにいち早く到達しているのだという、誤った考え方をしていた(いまもその傾向は見られる)。その反省としてよく引き合いに出されるのが、文化相対主義であるが、それも結局は、彼らの傲慢とも言える思い込みを正すことには、必ずしも寄与していない。なぜなら、異なる文化の存在を認め、そこに優劣をつけずに対等に扱うと良いながら、真に相手の文化を理解するには、その文化の中に入らなければ完全な理解は出来ないとする。これはある種の論理矛盾を引き起こす。
 相手の文化に入らなければ、つまりは同化できなければ真の理解が成されないと言うのは、一見尊重しているようで、実はお互いの存在を否定しないだけで、自らの文化の優位性は何も毀損されていないのだ。もっと言えば、西欧近代文明の持つ価値観こそ人類普遍の価値観であるとの考え方を捨てていないことになる。他の文化を低く見る思想を内包する彼らの文化もまた、文化相対主義においては、批判もされずに認められるのだ。

 西洋特に欧州の歴史を見れば、11世紀から封建主義による君主制が、社会を規定していた。一部の特権階級が支配階級として、多くの一般民衆を農奴などの形で支配する統治が普通に行われていたのである。そこには、民衆の自由や平等は保障されず、人権も無いに等しかった。そのような統治体制に対して一般民衆が立ち上がり、民主主義的なな統治を求めたのである。18世紀に起きたフランス革命は、その民衆蜂起の象徴的な出来事である。さらに18世紀後半から産業革命がおこり、資本主義経済の基本的な枠組みも形作られていった。

 このような西欧の歴史から見れば、確かに自由・平等・人権は、彼らが血を流して獲得した新しい進んだ考え方、価値観である事は間違いが無い。だが、世界史として見るとき、西欧以外の文化や文明が、全く同じ過程を経てきたわけでは無い。そのことを忘れてはならないだろう。産業革命を生んだイギリスが、統治機構という意味では王制を維持し、統治権力者を縛るとする憲法も有してはいない。正確には王制では無く、統治を放棄した君主であり、「君臨すれど統治せず」であるが、民衆から君主たる大統領が選ばれるフランスとは明らかに異なるものである。これは日本の象徴天皇制と考え方では似ているだろう。日本とイギリスの国民性の似た部分なのかも知れない。同じ西欧文明でも、政治・統治体制は、国によってかなり異なる。
 なお、現在の日本人、マスコミや文化人も含めて、この君主と政治の権力者との関係を正しく理解出来ていない。だから、G7などでの首脳の並び方について、誤った報道を平気で垂れ流すような事が起きてしまう。

 余談であるが、戦後日本のいわゆる進歩的文化人や学者の多くは、国の統治権力者を規制する憲法ばかりを強調したがるのだが、王や天皇を持たないフランスと同じ思想による憲法を持ちながら、天皇制を維持する事は、明らかな矛盾であろう。だからといって、共産党の極端な独裁政治など、誰も望んでもいないのも事実なのだが。

 王権から国民主権になったが故に、他国に侵略して植民地化する帝国主義が歴史の必然でもあったことや、いまもアメリカ文明に強く引き継がれている力が正義の考え方や、軍事力、経済力、形は何であれ自国の国益を最大化するための覇権主義が中心思想であることは、改めて述べるまでもあるまい。これらのことが、西欧文明の生きずまりを招いている。たとえばテロや難民問題も、欧米の文明が行って来た身勝手な国境策定や植民地的収奪に、その原因の一端があることは、欧州の心ある人々は良く理解している。


 近代科学文明の限界


 科学技術の発達は、人類の生活を豊かにしてきた。だが、その発展が急激なJカーブを描くようになると、さまざまな問題や課題が表面化してきた。個々ではその内の二つだけを取り上げてみよう。


 制御不能性の増大


  科学技術の発達は、次第にそれを生み出した人間の手に負えないものになってきた。核の技術などは、その典型であろう。まだ人類は核を充分に制御出来る技術を獲得できてはおらず、原発事故や核のゴミ問題が世界的な課題になっている。
  制御不能なのは、核だけでは無い。これからさらに発展を遂げるとされるAI(人工知能)やロボット、さらに生命科学の多くの分野でも懸念が提示されている。にもかかわらず、人類はその科学技術の進歩を止めようとはしない。いずれ自らの科学技術によって人類が滅びるか、生身の人間とは呼べないような物体に変化してしまうのかも知れない。極端な終末論ではなくても、科学技術進歩の課題が、日常生活の中に現れる日はそう遠くないだろう。


 金がかかりすぎる現在の科学技術


  宇宙開発、ロボットなど最先端の科学技術の開発には膨大な費用がかかる。それゆえ、これまでは豊かな先進国が科学技術も独占的に開発できていた。しかし、その姿が変わり始めている。あまりにも巨額の費用を必要とする科学技術は、ひとつの国ではまかなえなくなっている。そうなると、一体どのような科学技術に金を掛けるべきなのかという問題が生じてくる。世界では貧困にあえぐ多くの人々がいる。そういう人々を救うこと無く、科学技術開発にお金を使うことの是非が問われ始めているのだ。
  さりとて、科学技術の進歩は、人類全体にとってより良いものになる可能性も否定できない。この矛盾をどのように解決すべきなのか、まだ人類はその答えはおろか、考える道筋すら見つけてはいないのだ。


 アメリカ文明(グローバル化)の限界




 アメリカ文明とは何かといえば、西欧文明から派生したもので、特に科学技術と経済的な分野で大きな発展を遂げさせたものと云えよう。その特徴は、グローバル化という呼び名のごとく、人類普遍的な価値として、そのやり方(文明)を他のすべての国に広げようとしている事にある。  東西冷戦時代が終わり、圧倒的な軍事力と経済力によってアメリカ文明を世界に広げることが可能だと信じた彼らは、泥沼の戦争やテロに引き込まれ、いっぽうでは国内に様々な抜き差しならない格差を生じさせてしまった。これらはみな、行きすぎたアメリカ文明のなせる技であろう。

 自由な市場による資本主義経済の仕組みが、国の政治・統治体制にかかわらず採用されることによって、アメリカは、自らの文明こそ最高・最後の文明だと勘違いをしてしまった。確かに社会主義・共産主義陣営が負けたのは、その経済体制による事が大きいだろう。その結果、共産主義体制(共産党独裁体制等)でありながら、経済だけは資本主義的なある程度の自由と競争の資本主義経済を導入する国々が増えていった。そして、それらの国々の成功をみて、世界のほとんどの国々がアメリカ流の資本主義経済を導入し始めたのである。

 だが、資本主義による国力の増大は、新たなる覇権国家を生み出すことにもつながり、いわばアメリカは自ら敵を強くしてしまったのである。それだけではなく、実体経済を伴わない金融市場を飛躍的に拡大させることで、一時的には反映を謳歌したのだが、それがさまざまな格差を生み出す事にもなり、内部から崩壊の危機を迎えている。資本主義を支えてきた貨幣経済は実体経済との連動により調和が図られてきたのだが、それを全く無視するような事態が一人歩きする金融市場の登場は、結局資本主義経済そのものを窮地に追いやっている。