文化
第7章 人類の普遍文明と日本文化

乗り越えるべき課題


 資源の独占と再配分 人類共有財産


 人類全体としてみるとき、本来ならば人類共通の財産で無くては成らないはずのさまざまな資源が、すべて特定の国々の所有となっている。これが世界の貧富の格差を生み出す大きな要因のひとつとも成っているのだが、およそ、人類全体のために資源を提供しますという国は見当たらない。宇宙はそうならないようにすべきと言うのが精一杯である。
 自然の資源だけでは無く、今後サイバー空間上や新しい分野で生み出されるさまざまな資源同等の価値あるものについて、どのように人類全体に公平な分配をおこなっていくのか、いや行えるのか、まだ議論すらほとんど行われてはいない。

 産油国の多くがその収入で、武器・兵器を購入している。そのような形での再配分では無く、人類共有資源に応じて国連への拠出金額を変えるような再配分が望ましいのは明らかであろう。


 宗教と科学の相克


 宗教と科学の関係は、文化と文明(表層文化)の関係に似ているのかも知れない。人類の進歩という意味で言えば、古い宗教は淘汰され、新しい科学文明に取って代わられる物である。だが現実は、そう簡単にはいかなかった。人間の心のよりどころたる信仰という文化の強さは、科学技術をしても容易には砕くことが出来ない。それどころか、むしろ科学文明への対抗としての宗教の存在が寄り大きくなってしまった。
 本来であれば、対立軸としてとらえられるべきはずのものでは無い。その事をどちらの側にも荷担しない形で、きちんと説明できるものがこれまで注目されてこなかった。

 日本の歴史を見たとき、宗教と科学とが激しく対立して摩擦を起こすことが無い、世界で唯一ともいえる文化を持つ民族である。物質か精神かという二者択一的な考えを排したところに、新しい文明の在り方が見えてくる。


 地球的課題への取り組み


 さまざまな格差が、それぞれの民族や国家の枠を超えて世界中にひろがっている。同様に、人類全体の課題として解決しなくてはならないものも数多くある。貧困、温暖化、エネルギー、食糧、人口増加、環境破壊、大規模自然災害、核兵器拡散など、その内容も多岐にわたり、相互に関連しながら複雑な様相を呈している。
 まともな世界連邦と呼ぶべき、公平さを持った国際機関すら出来ない現状においては、結局力のある国々による都合の良い部分だけが取り上げられて終わってしまうことも多い。

 人類を真にひとつのくくりで考えられる思考や枠組みが生まれるのが早いのか、その前に自滅する道を歩むのか、新しい文明に残された時間は、それほど長くはないのだろう。


 貨幣経済に変わる新しい価値経済の創出


 文明の要素の中で唯一とも言える世界中に広がった要素が、経済に関する仕組み、つまりは資本主義経済(自由競争と市場原理)と貨幣経済であろう。だが、世界を統一的にまとめたはずのこの経済体制が、さまざまな問題を生み、それに変わる経済体制を求め始めている。一方で、新しい情報文明の進展なども、既存の資本主義体制を破壊し始めている。

 内と外からの両方で、現在の経済体制は変革を求められているのだが、貨幣経済ひとつをとっても、それに変わるあるいは付加できるような価値経済とでも呼ぶようなものはまだ生まれてきていない。
 もう一度人間社会の文明は、人類の幸福のための手段として生まれてきた原点に立ち返り、全く新しい経済の考え方を見いださねばならないだろう。それも、出来るところからでも。さもなければ、サイバー空間で生まれる新しい経済の仕組みへの対応も、市場の拡大によってしか成長を見いだせない資本主義の弊害も、誰も働かないにのにどこからか金が生み出される社会主義経済を理想とする考え方も、何ひとつとして変革していくことは出来ないだろう。

 また、福祉の充実が叫ばれ、ベーシックインカムのようなやり方の導入まで叫ばれている。実際2016年には、スイスの国民投票において76.9%の反対で導入が否決されている。究極の福祉政策というのだが、すでに失敗した社会主義経済の欠点を補うものになっているようには、とうてい思えない。それでも、このような議論は新しい経済制度を生み出す上では、避けて通れないだろう。


 原理主義との戦い


 現代社会には、さまざまな原理主義的な思考や行動がはびこっている。イスラム原理主義の過激な行動のように、明らかに見えるものはまだましである。問題は、あらゆるところに目には見えずい原理主義が働いていることにある。すでに述べた「力は正義」の理論なども、たやすく原理主義化してしまう。「民主主義」原理主義、平和原理主義、宗教原理主義、科学万能原理主義、「メディアは崇高」原理主義、軍事力原理主義、資本主義原理主義、金儲け原理主義、理想原理主義等々、実に多くの原理主義的なものになってしまった、ゆがんだ考え方が世界中に氾濫している。

 どのようなものであれ、行きすぎれば害をなす。その境界線を理解出来ない人間があまりにも増えたように思える。この考えをどのようにして、調和のとれたものにしていくのか、知性の暴走とも言える現状に、どう立ち向かうのか、これは新しい科学技術文明が、最も先に我々に突きつける課題でもある。


 現代文明の宿痾としての精神の脆弱と行動の過激化


 テロも原理主義の盲信も現代文明の宿痾と考えれば同じものである。そこには、人間の精神の脆弱化(劣化)があり、その結果として極端で過激な行動に走ることになる。自分の考えこそ正しく、理想的で人道的だと考えるのは、西欧文明の特徴でもあるが、それは理想原理主義に溺れただけだとすればまだしも、行為や行動を伴うとき、時に狂気となる。宗教の教えによって自らの行為を正当化するのもまた、自己満足の幼稚な精神なのだが、自らの肉体を滅ぼすテロにまでに進んでしまうのは、強い信仰心という口実が与えられてしまうからに他ならない。単純な洗脳と言うだけでは済まされない要因があるのだ。

 見失ってしまった人間の精神という存在を、もう一度新しい文明の技術でとらえ直す必要があるのだろう。


 「個人」の暴走:個の利己と種の利己の不均衡


 遺伝子を概念的にとらえ直すとき、「個の利己」と「種の利己」とに分けて考えられると提示した。(日本人の気質「第9章日本人の気質がゆがみはじめたのか―種の利己とこの利己」参照)

個の利己


 これまで、遺伝子は種の保存を最優先とする「種の利己」としてとらえられていた。だが、それでは説明のつかない同性愛者の増加(*)などに対して、環境の遺伝やエピジェネティクスの発見により、単純な種の遺伝子だけでは無いことが明らかとなってきた。
(*)進化論的に言えば、子孫を残さない同性愛者は生物学的に淘汰されていなくなるはずなのに、なぜ無くならないのか?それは長く純粋に科学的な疑問として提示されていたのである。

 西欧文明がもたらした個人の人権や自由など「個人の権利」は、人類の発展にも貢献したことは間違いが無いだろう。だが、いっぽうで、正しく咀嚼できずに、いたずらに個人の権利ばかりを強調する利己主義と見なされるような事態が、おきてしまった。この原因を突き詰めていくと、個の利己と種の利己のあやうい均衡(バランス)が、崩れてきているためではないかと考えられる。

 ここでは、概念に戻って詳細に説明するつもりはない。ただ個人的には、これこそが人類がいま直面しているすべての問題の基本に関わる根深い物であると感じている。

 個人と人類全体の調和はいかにして図れるのか、自分の生きている間だけで無く、人類の未来も含めて考えるとき、新しい文明の基本となる課題でもある。