文化
第7章 人類の普遍文明と日本文化

日本が果たせる役割


 日本が果たせる役割


 技術や仕組みなどの表層文化を文明とするならば、文明は必ず滅びて次の文明へと変わっていく。現代は、その文明が世界に非理狩りを見せると同時に限界を露呈して、新しい文明を求めてもいる。そういう現状であればこそ、日本に出来る事も多いのではないだろうか。文化と文明の相克、文化間の摩擦、文明の衝突を人類がいかに克服していくか、その答えを我々(日本文化の集団)は持っているはずなのだ。

 日本文明は言われるように、孤立した仲間のいない文明なのかも知れない。しかし、一万年以上の長きにわたって日本文化は、維持され続けてきた。この人類史にもまれな文化集団の存在は、人類の普遍的な文明のあり方を示してもいるのだろう。小さくとも日本列島という地域の中で、文化や文明間の抗争が続くだけであったならば、このように同じ均一的な文化を維持する事は出来なかったはずである。

 また、遺伝子などの研究からも、日本人という民族がこの日本列島の外側には存在しないことも明らかとなってきた。元々は異なる集団が、この列島で出会い仲良く同化して、日本人という民族あるいは文化集団を形成していったのである。その過程において、他の文化集団を抹殺して特定の集団が覇権を握ったという考古学的な証拠も無い。文明の方向性とは逆に、文化は寄り独自性を深めて分裂していく指向性を持つものであるという、これまでの説明とはやや異なる事実が浮かび上がる。だが、その例外は決してわることではなく、むしろ望ましい物であった。縄文という時代に、日本人という文化集団が確立していたからこそ、その後の外来文明の受容においても、技術は導入したが、文化の根底を成す精神性を壊すようなものは、取り入れては来なかったのである。

 このような、特異といわれる日本の歴史を冷静に見ていけば、人類が数多くの文化集団に分かれ、文明受容において激しい摩擦を起こしている現状を打開する方策が見つかるのかも知れない。特異で孤立した日本文明なればこそ、新たなる文明の創造や普遍的文明を生み出す可能性に希望を与えてくれるのである。


 既存の欧米を中心とした文明が限界を露呈し、すでに一部では崩壊をはじめている。特に経済体制においては、資本主義経済の行きすぎが世界中でさまざまな格差を生み出し、多くの人々にとって望ましいものではなくなりつつある。世界中で、政治や社会体制が異なっても経済だけは資本主義経済を取り入れる国がほとんどとなったが、その恩恵は、すべての国の貧しい人や恵まれない人々に与えられるどころか、一部の人間による搾取ばかりが横行している。結果、世界の富の半分をわずか1%の人間が所有するという、あまりにもいびつな世界が出現してしまった。マルクスが、資本家による労働者の搾取といった、それとは異なる形ではあるが、一部の富むものと大多数の貧者という構造が、まさに生まれてしまったのである。共産主義的な経済を破綻に追いやった資本主義経済が、結局自滅の道を歩んでいるのは、何とも皮肉としか云いようがない。まず、ここから改善を進めなければ、新しい文明は生まれてこないだろう。日本は社会主義の国のようだと言われる現状は、むしろ、これからの文明の在り方を示しているのかも知れない。


 未来の文明への道程


 文明の未来


 新しい文明とは、これまで述べてきたような現代文明が抱えるさまざまな課題や問題点を克服するもので無ければならないのは言うまでも無い。だが、それはそう簡単な事ではなく、時間がかかるものになろう。課題を克服できないまま、新しい技術文明が花開くかも知れない。

 近い将来新しい文明が生まれると言っても、「将来」という時間軸の長さを混同しては成らないだろう。いま現前にある混迷と文明の崩壊を見ながら、少しずつ理想にむかうしかないのだろう。見果てぬ、果たせぬ夢かも知れない。それでも生きるとは死に向かって努力を続けることであるなら、文明もまた人類滅亡に向かって、現実と理想を正しく認識しながら、日々努力を続けていくものでしか無いのだろう。

 時間軸を大まかに区分して、それぞれの時期における新文明を考えて見る。ただし、具体的に成すべき方策については、本稿では立ち入らないでおきたい。著者の手に余るだけでは無く、いたずらに先入観をもって欲しくないからでもある。 (「烈風飛檄(日本改革私案)」参照)


 短期での文明のあり方


  混沌とした時代。新しい技術文明が生まれながらも、過去の古い文化によって生み出された宗教文明などの旧文明とが衝突をおこす。同じ文化集団のなかでさえ、文化と文明の摩擦が生じる。ここでは、過去の文化によって生み出された文明、知識宗教、覇権主義、排外主義、経済至上主義などを克服できるかが課題となるだろう。また文明が文化を圧迫しては成らないことを共通認識として持てるかどうか。まずは、文化と文明のくくりの違いを認識しなくては何も始まらないだろう。

  発展途上国においては、先進国が経てきた技術発展の過程をそのままたどること無く、最新の技術文明を導入する事も増えてきた。たとえば、固定電話の普及をはからずに、携帯電話さらにはスマートフォンを導入したのは、その好例であろう。それでも、資本主義経済の導入が完全に行われているわけではないし、その基になる民主主義的な自由や平等の社会が達成されているわけでも無い。

  このあまりにも大きな文明受容度の違いを、どのようにすれば縮めることが可能なのか、現代文明の速やかな導入とはなにか、その具体的な方法論が模索されなくては成らないだろう。放置すれば、世界中にそして同じ国や民族の中でも、文明格差は広がるばかりとなる。


 中期での文明のあり方


  国家というくくりの再構築。具体的に現在の戦後体制による国境を民族などの文化集団に応じた国境へと変更していくことが出来るかどうか。単にEUのような異なる文化集団をひとつに統合することは、必ずしも国境をなくすことにつながらないことは、すでに人類は学んだ。文化相対主義が陥ったわな、相手を尊重すると言いながら、差異を際立たせるのでは無く、あるがままに受け入れて、緩やかな多重のくくりを許す構造が必要になる。国境のくくりが文化集団のくくりに変わる時とも言える。

 いっぽうで、異なる文化集団の新たな文化のくくりが生まれるかも知れない。文明によるくくりではなく、同じような感性を持ち似た文化を持つ文化集団が、緩やかな連合のくくりを持つ時代である。武力や文明力によるくくりではなく、あくまでも人々の文化力による緩いくくりである。


 長期での文明のあり方


  様々に生み出される技術文明のなかで、人類にとって普遍的な文明とは何か、その姿が見えてくる時代。人類がようやく、国家という強力なくくりから抜け出して、より大きな人類全体というくくりを持つことができるようになる。真の意味での世界連邦のような具体的なくくりが、人類全体の幸福のために活動できるものになる時だろう。

 ただ、いまのような世界の体制が維持され続ける限り、国家のくくりが力をうしなうまでには、100年以上の時間がかかるように思える。人類社会という大きなくくりが、大きな力を持ち認識されるには、相当な努力と辛抱とが必要になる。


 日本文明と日本各地の文化の共存が意味するもの




人類のくくり


 日本においては地方という固有の文化をそれぞれ維持しながら、日本文明という共通のくくりもまた共存している。こういう多重のくくりがすべての国において存在できるようになることが望ましい姿である。

 日本が新しい文明の見本になり得るというのは、その柔軟性である。日本文明ととらえるかどうかは別として日本民族という文化集団全体のくくりが、外に向かってはきちんと構築されている。その上で、その日本のくくりの中では、独自の発展を遂げた地域文化などが、いまも消えること無く保たれている。これは日本人が、いくつものくくりに属しながら、それらが自分の中で矛盾を起こさないような柔軟な対応(くくりの動的再編と呼んだもの)をとれるからに他ならない。

動的再編


 もし、全世界のすべての国々や民族の文化集団が、その自文化集団以外にも人類文明というくくりを認め、そのそれぞれの関係を柔軟に考えられるようになれば、国家間の争いだけではなく、文明間、文化と文明の衝突も穏やかなものになるであろう。

 くくりという概念は、新しい文明を生み出すうえで、必ず有効な概念になると信じている。このことを、日本はもっと積極的に世界に発信すべきなのである。観光産業の観点からだけでは無く、狭い日本と思われているこの国のなかに、いかに多くの文化が存在しているのか、その事をわかってもらうためにも、日本文化の発信が重要なのである。


 信仰心と科学の共存


 もうひとつ、日本が特異だと思われているものがある。それは無宗教性である。科学がいかに宗教を前近代的なものとして否定しようとも、世界の国々において、宗教という信仰心は人類から決して失われてはいない。それどころか、その違いが衝突の種にも成っている。

 翻って、現在の日本人はその大半が「無宗教である」と海外に向かって発信する。その一方で、何らかの宗教、とりわけ仏教徒と神道系の宗教の構成員数は、日本人の総人口を超えている。これは一体何を意味しているのであろうか。(日本人の気質 「第10章新しい時代へ ― 超越的自然観(神ながらの道)とは」参照)

神と宗教

 この現状を一言で言えば、人間が知性によって作り出した宗教という意味では、無宗教であるが、日本人の感性が感得した神ながらの道という信仰心は、決して失われることはなかった、という事である。日本人にとっては、仏教も他の宗教もいわば文明の一部であり、それが日本文化の感性に合致すれば受容するが、そうで無ければその部分を切り捨てる。知性が生み出した宗教とはそのようにして接してきたが故に、信仰心である神ながらの道は、現代文明の象徴でもある科学文明と衝突することは無いのである。科学と宗教、どちらも同じ文明の一部分に過ぎないのだから。

 神を畏敬する心を持ちながら、最先端の科学技術を追求することに、何ら矛盾を生じない。これこそが、日本文化の大きな特長でもある。既存の宗教に深くはまり込んだ人々が、日本人は宗教心すらないと考えるのは、明らかな誤りだけでは無く、むしろ文明に翻弄されすぎているとさえ言えよう。

 日本の神道を多神教かつ自然崇拝を色濃くもつ遅れた宗教であるとの海外からの蔑視は、未だに残っている。だが、新しい文明において、科学と宗教の相克を乗り越えている日本文化(日本文明)の在り方は、必ずや見直されることになるだろう。それには、まず日本人自身が、神ながらの道と宗教との違いを、説明できるように理解しなくては成らないが。


 文明の受容と自文化の維持


 新しい文明として感性による文明圏の可能性を述べた。いや出来なければ成らないはずである。それを国家をはじめとする既存のくくりが妨害するのであれば、それが新たなる衝突を生み出すだろう。感性による文明とは、お互いの文化を尊重した文明の総体に過ぎない。そのなかでは、技術的な要素が常に新しく進歩を続けながら、それでも個々の文化を尊重して維持し続けることが出来る世界である。

 西欧文明やアメリカ文明が世界を実質的に世界を席巻し、覇権を握ることで、世界中にその文化までも拡散させてきた。それがイスラム過激派などのような激しい反発を生む遠因のひとつとも成った。統一的なあるいは普遍的な文明は、それを生み出した文化によって強く縛られるのでは無く、むしろ個々の文化の上に軽く乗るような柔軟さが求められる。間違っても、特定文化の押しつけであっては成らないのだ。

 外来文明を積極的に受容してきた日本においてさえも、過剰受容により自文化と合わない不都合も数多く見受けられる。  たとえば、国民皆保険制度は日本独特の制度であるが、それがアメリカ企業の進出を妨げているとして、アメリカは強くこの制度をやめさせようと圧力をかけてきた。だが、それでも、今なおこの制度は維持すべきものとして日本国民に支持されている。ここには、日本人の文化とアメリカ人の文化、考え方や感じ方が異なる文化によって作られた文明の一部分があると言えよう。

 文化を侵略すること無く、さりとて文化がより良い方向に向かう手助けをする文明、そんな文明の望ましい姿が一日も早く、生み出されてくることを願ってやまない。その先頭に立つ資格が日本文化にはある事も、誇りに思って良いであろう。
 いたずらに自文化優越主義に落ちること無く、さりとて外来文明崇拝や理想原理主義にもに陥らず、調和のとれた文化や文明を希求する事こそ、真の人類の道なのである。