烈風

新資本主義の概念を創造しよう


 東西冷戦とは、共産主義経済(社会主義経済)と資本主義経済の戦いでもあった。そして、経済においては、圧倒的に資本主義経済が優位である事も明らかになった。このように明確な差がついた二つの経済体制における最大の問題は、人間の心の問題であったのだろう。結局、人間の性は欲望と報酬のあざなえる縄によってその歩みを進めてきたのである。みなが平等である理想は、働いても働かなくても結果が同じという結果平等を生み出しやすく、それは結局人間のやる気や進歩を停滞させてしまった。そして、えさを待つペットのような従順さを持つ国民は、独裁者(独裁政権)にとっては、最も望ましい姿でもある。独裁は腐敗を生み、無気力な国民はさらに働くことを拒否する悪循環に陥る。資本主義経済と戦う前に自滅してしまうのである。

 かくして東西冷戦後も共産主義的な思考をやめられない国々の為政者たちは、政治(というより国民統治)と経済とを分離する道を選択するようになったのである。国民を自由に操れる力を持つこれらの国々の資本主義経済は、めざましい経済発展を遂げることが出来る。中国は、まさにその好例であろう。だがそれはあくまでも初期段階のみである。社会主義経済が初期はうまく機能するように。独裁者の腐敗は、とどまることを知らず、さらに国よりも自分の利益のためにのみ動くことで、支配層は国を捨てることも厭わなくなる。また、ゆがんだ資本主義経済は、次第に格差などの内部の矛盾が拡大して、社会の秩序までも脅かすようになる。それでもしばらくは、そこまでに獲得した経済力や(資源国の)資源などが、そのようなゆがんだ体制もかろうじて生きながらえさせる。それが、現在の国際社会の有り様でもある。長期的にみれば、このような体制は必ず内部崩壊を生むことになるのだが。


 では一方、経済戦争に勝利した自由を基調とする資本主義は盤石なのであろうか。違うことは、もはや誰の目にも明らかである。金儲け原理主義とでも言うべき思想を世界に流布し、自分だけの利益しか考えない利己主義の群れを生み出し、実体を伴わない金融経済などが、極端な格差と貧困を生み出すようになってしまった。やりすぎたのである。どんな主義主張も体制ややり方も、ものには自ずから限度というものがある。社会主義経済で働くことを忘れた人間は、資本主義経済では節度や調和を忘れたのである。




 ここで経済学の話をしようとは思わない。実際本棚には、「資本論」や数多くの経済書がほこりをかぶったまま放置されている。そんな私に経済を語る資格などあるまい。それでも、人間の一人として、あるべき姿を語ることぐらいは許されるのでは無いだろうか。

 提案したいのは、どちらも欠点のある社会主義経済と資本主義経済の融和策である。それも、小難しい理論などを振りかざすのでは無く、より具体的な姿を描いてみたい。そして日本が、世界に先駆けてそれを実践できれば、どのような経済不況が来ようともそれを乗り越えて行かれるはずだし、なにより人々の幸福感を支える役割としての経済を獲得することが出来るのでは無いだろうか。

 主義主張や法律・経済のために人間が存在しているのでは無い。本来は人間のための道具が人間を縛るようになったいまの人間社会は、決して正しい進歩の道を歩んでいるとは言えないだろう。その主従関係を正すためにも、経済をもっと使いこなさなくては成らない。


 人類が抱える経済的な問題とは何かと言えば、次のような課題が考えられるだろう。

格差を生み出す仕組みをどのように是正するのか


資源の持てる国と持たざる国とのはじめからの不公平さをどのように解消していくのか


地球が抱えるエネルギーをはじめとするさまざまな資源は、すでに全人類を養うことは無理だとも言われている。この資源不足にどう対応していくのか


国や自治体など稼がない組織をどう維持していくのか、維持しないのか


利益を求める私企業と公共性を求める国や自治体組織とをどのように融合させるのか


いまは野放し状態にある、個人が主張する経済的権利をどこまで認めるのか(権利対公共福祉)


公共の福祉はどこまで認められるのか


財政破綻はなぜ起き、どうすれば発生そのもの(過度の負債)を防げるのか


先進国と新興国のさまざまな差が生み出す種々の問題をどう解決していくのか


ラテン系国家のように国民性、民族気質が生み出す経済的な差異をいかに乗り越えるのか  等々



 諸課題に対してまともな研究をして論文を書けば、ノーベル経済学賞も夢ではあるまい。私には不可能だが。 個人的には小さな具体例をもって改革案を提示し、これら難題の隅っこでもかじれれば望外の喜びというものである。

平成27年10月5日(月)

秋山鷹志 On草子へ戻る 烈風飛激へ戻る