烈風

校則を廃止して学生基準に


   あだ名を校則で禁止した学校が出て話題になった。馬鹿げた話である。禁止理由は、いじめの温床の一つになるからというもの。これに対して、あだ名でいじめられていた芸能人が、反対の意見を表明した。たしかに、子供の時はあだ名でいじめられたが、芸能人になってからはあだ名(愛称)で名前を覚えられたから。つまりは、あだ名そのものが悪いのではないという至極もっともな理由であった。

 あだ名を悪いものとそうでないものとに分けて考えるべきなのに、一律で禁止というのは、相変わらず脳がない教育関係者たちである。仮に校則で禁止したのが悪いあだ名だけだったとしても、問題はある。

 校則とは、学校内部における規則のうち、特に在学生自身に関わる定めで、児童規則、生徒規則、学生規則などともいうそうであるが、学則(学校の在籍者の修学上必要な事項を定めた規則)と違い、公的なものではなく学校の裁量によるものである。ならば、全国の学校のすべての校則を廃止して、代わりに学生が守る方が好ましいと考えられる標準的な基準を作成すべきであろう。

 そもそも、校則という学校に従属したものは、新しい教育制度の下では存在しえないのである。なぜなら生徒は、どこか一つの学校に縛られるのではなく、自由に複数の学校に属することができるのだから。

 新しい教育制度においては、生徒の学力に応じた学科別飛び級や学年飛び級が、当たり前に認められる。となれば、小学生でも数学だけ高校に通う、中学生が飛び学年で大学受験などが当たり前になる。そこでは、生徒は基本所属の学校はあっても、様々な学校で様々な形で授業を受けることになる。特に体育の実技など、現在のように、すべての内容を同じ学校内で行うことがむしろおかしい。複数の専門家をスポーツの数だけ各学校がそろえるなどと言うのは不可能なのであるから、専門教員のいる学校に出向くのは当たり前に形となる。

 こうして、学則など一つの学校に属するあらゆるものは、その意味を失う。もっと自由で柔軟な対応が求められるのである。


 では校則なしで、生徒の生活態度などを全く放任し放題にして良いのであろうか?それも違うだろう。成人前の未成年者に対して特別な人権保護をおこなうのであれば、同時によりよい方向へと誘導してやるのが教育の重要な役割である。知識を教えるだけではなく、人としてのあるべき姿などを教えるのも教育であろう。道徳という教科が果たしてどれほどの教育効果をもたらしているのかよくわからないのだが、道徳と大上段に構えない教えがあっても良いだろう。

 具体的には、学生が守る方が好ましいと考えられる標準的な基準を示すことである。その内容はぐたいてきではなく、むしろ抽象的なものにしておくことが重要になる。基準や価値観は場所や時代によって変わるからという理由もあるのだが、それ以上に数値などの具体的目標は、それ自体が自主性を育むことに逆行するからである。

 いくつか具体的なもので見ていこう。例えば制服か私服かという問題。制服を決めておく。しかし登校時必ず制服でなければならないとはしない。ではどんな格好で通学してもよしとするのか。そこに常識と一般的な美意識がでてくる。ジーンズでも、ボロボロの穴あきは勉強する場にふさわしいとは言えまい。ミニスカートもどこまでなら許されるのか、他の人特に大人が見て、学校にはふさわしくないとおもうなら、そう注意してわからせることである。制服の存在意義とは、場へのよりよい適応を促すためでもある。どんな場面やどんな場所でも、全くおなじ服など、むしろ精神的な貧しさだと理解させよう。そういうことを考えさせることが大事なのである。

 今の教育現場にあふれるあらゆる基準ややり方は、新しい教育のあり方になれば、自ずから消滅するものがほとんどである。こと教育改革においては、小さなところから変えていくという方法論では、実現が困難であろう。根本的な考え方を、まずすべての教育関係者が学ぶべきである。


 学校に教師や生徒がいるのではない。学生(学ぶ人)のために様々な学校が存在しているのである。教師も同様で、教師のために生徒がいるのではなく、生徒のために教師がいるのである。


令和2年(2020)11月08日(日)

CM6 居候













秋山鷹志 オン草紙へ 烈風飛激へ