烈風

結果責任不在の社会


 いま、この国には、実行した事や発言が及ぼしたことに対して、その結果に対し誰も責任を明確にとろうとしない無責任な風潮が充満している。社会のあらゆる所にそれが見られる。


 いじめによる自殺があってもそれを隠蔽しようとする学校、教師。国や公共に多大の損害を与えておきながら、責任をとらない政治家、官僚、公務員。リストラの名で労働者を解雇しておきながら、その社会的、経営的 責任をとらない企業経営者。議員を辞めると言ったのに、あとで居直る政治家。なし崩しでマニフェストなる約束を反故にしてしまう政党。きりがない。


 どうにも腑に落ちない事があった。それは、裁判員制度のもとで初めての死刑求刑がなされた裁判の判決についてである。耳かき店の女性と祖母のふたりをストーカの男が殺害した事件である。

 案の定というか、予想通り、判決は死刑ではなく無期懲役であった。

 この裁判によらず、最近の凶悪犯罪での裁判を見ていると、ここにも、結果責任不在の風潮が大きく影響しているように思えてならないのである。

 たとえ、人を二人殺したとしても、一人は偶発的で計画的ではない、動機が極刑相当とはいえない、などと判決理由がまことしやかに述べられていた。この内容に非常に大きな違和感を覚える。なぜなら、ここには、人を二人も殺したという、厳然たる事実に対する実行犯の責任を重くとらえる視線が、全く感じられないからである。

 このところ続いている、交通事故死における、危険運転致死傷罪の適用などにおいても、同じ事が言える。法律論のまえに、犯した事の重大さを認識させるという視点がほとんど見受けられないのだ。

 死刑がよいとか悪いとか、すべきだったとか、そうでないとかという問題ではない。加害者が、結果の重大さをどれだけ認識しているかという問題である。


 人が行った結果に対してとるべき責任が、ここまで軽んじられる社会は異常な社会だと言わざるを得ない。

 これだけの大事故を起こしながら、その自覚すら全く無い東京電力。昔なら、切腹するものが出ていてもおかしくはない。政治は結果責任などと言いながら、まったく責任を感じることすらない厚顔無恥な政治家をはじめとする多くの人間が、平気で闊歩できる社会はまともではない。それを許す国民もまた、まともではないと自覚すべきなのだ。

 今の日本社会全体に、この事が影響を与えているのだが、指摘する者はほとんどいない。

2012.05 改
秋山鷹志