烈風

新しい「社会」の再定義を


 社会といっても様々な種類がある。サルの社会、上流社会、学校を卒業していく社会もある。ここで言う社会とは、最後に近い。人間が空間を共有して、相互に影響しあいながら結合しているまとまり、いわゆる一般に言われる「社会(Society)」である。

 人類史においては、社会の発生は、相当に古い。イヌ、サルのように群を作り集団行動を好む社会性を持つ動物でもある人間は、古来より群という小さな社会を形成してきた。それは、食料を得るため、外敵から身を守るため、生存するための優位性を確保するためでもあった。

 いずれにせよ、人間のより良い生活、人間の幸福のために社会は存在している。しかし高度に発達した文明の中で、「社会」の目的がいつの間にかゆがめられてしまった。人間の幸せのためのはずである社会が、いつのまにか一人歩きをして、「社会」のために、今の社会を維持するために人間が存在するようになってしまった。


 そのことを示す具体例はいくつもあげられる。

 たとえば、大方の反感を買うかもしれないことを承知で言えば、いま、保育園不足が問題となっている。特に0−2歳児の待機児童の問題が深刻だという。もし、この問題に、なぜ両親が見ないのかと尋ねたならば、実に多くの批判的な言葉が返ってくるであろう。
 「働かなきゃ食べていけないの」「保育園不足がわからないの」「親が育てるなんて古い考え」「社会全体で子供を育てるのが新しい社会」「女は家に居ろなんて馬鹿なことを言ってんじゃないの」「核家族が当たり前の社会なの」等々。

 それぞれ立派な意見に聞こえるのだが、ここに本質を履き違えてしまった人間の存在が見えてくる。共通して底流に流れる誤った意識とは、時代や社会は常に進歩しているという神話に取り付かれていることである。
 東日本大震災後には、絆の合言葉のもと、家族の大切さが叫ばれたが、それは実際に被害にあった人々の話であり、震災被害を免れた人々は、何も変わってはいないのが、現実であろう。家族がばらばらでも、それが今の時代だから、核家族どころか孤立が今の社会だから、それに合わせた行政をしろというのが、先の待機児童での要求につながっているのだ。失われた絆をとりもどすより、今の絆のない社会こそ新しい社会なのだと、信じているのだろう。

 今の社会がこうなのだから、それに合わせろとは、まさに、社会に人間を隷属させろといっていることに他ならない。現実無視だという批判が必ずでるだろうが、それも含めて、社会は何のためにあるのか、もう一度考えてみてはどうかと問いたい。

 3歳児までの幼子を親が面倒を見ることもできない社会。そんな社会が、進歩したまともな、新しい社会なのだろうか?ここでやらなくてはならないのは、ゆがんだ現状追認ではなく、ゆがんだ社会そのものを直すことであろう。それが簡単ではなく、社会の仕組みや人々の価値観までも変更を迫るような大きな変革だからこそ、「破壊」が必要だといっているのである。


 ほかにもいくらでも例示できることはある。企業のあり方などもその典型である。「会社がなくなったら元も子もない」という言葉が、当然のように飛び交っている現在の日本。社会に貢献しない企業など、社会に存在してはならないのだ。それがすべての基本である。株主のもの、経営者のもの、従業員のものなど、どうでも良いレベルの話である。いらなくなれば、存在意義がなくなれば、姿を消す。それが、社会を構成する仕組みやシステムの運命なのである。詳細は別に譲ろう。


 社会に人間を合わせることは、もうやめるべき時なのだ。人間の幸福に寄与しない社会など壊してしまえ。いや壊されねばならないのだ。時代が新しいほうが進歩なのだというのは誤った考え方だということは、歴史をきちんと見てみればすぐにでもわかることなのだから。

 既得権や、現状の生活にそれなりに満足する人々は、いつしか、自分たちが社会を守っている錯覚をいだくようになる。それが、社会の改革や真の発展を妨げる。

 自己中心と物質欲にゆがんだ心、自ら考える真の知性を放棄した人の群れ、それが今の日本の現状である。「こんなではなかったはず」「ここまでではないはず」そんな声が漏れてくるようになった社会である。人間の幸福に寄与しない社会ならば、それは社会が間違っているのだ。人間がその間違った社会に合わせてはならない。国民全員が、一時の快楽や欲望を抑えて、社会を変える勇気をもたねばならない。


 烈風飛檄で、具体的な変革のアイデアを縷々述べているのも、ではどうしたら社会は変わるのか、という問いへの私なりの答えに他ならない。

<*> 引き合いに出した保育園不足の話では、現実に今困窮しているご家族に、不快な思いをおかけしたかもしれない。だとしたら、それは本意ではない。陳謝したい。生まれたばかりの赤ちゃんを他人に預けて働かなければならない社会は、社会がおかしいのだと声を大にして言いたかっただけなのだ。

2012.06
秋山鷹志