水俣病公害と原発事故


 水俣病の未認定患者の申請受付期限が、来月(2012年7月)までと迫ってきた。すでに5万人以上の患者が申請をしたと見られているが、まだまだどこまで行くのかわからない。

 そんななかで、水俣病についてのドキュメンタリーが、昼間放送されていた。すでに何回か見た記憶があるが、何度見てもまた見入ってしまう。水俣病は、日本の公害の原点を意味するだけではなく、そのあまりにも長きに渡る不幸な歴史が、見るものを憂鬱にしてしまう。

 かなり早くから、水俣病の原因はチッソの工場廃液ではないかと騒がれ、熊本大学の研究もありながら、何十年にもわたり、企業も自治体も国も、対策を怠りその被害を拡大させた。まさに、「公害ではなく殺人事件」だと言わせしめるゆえんである。


 あまりにも多くのことを考えさせられる水俣病ではあるが、ここではその中でひとつだけ取り上げてみたい。この水俣病の歴史をみていると、いまだにまったく同じようなことが繰り返されていることに気づかされる。

 当時のチッソの技術者たちが異口同音に口にした「(工場排水の)はずがない」「(工場が原因であって)ほしくない」という、主観的、希望観測的な言葉は、原発事故を起こした東電や官僚、学者たちが散々口にした言葉とまったく同じである。国や地方自治体が適切な避難を実施しなかったことも、情報を隠蔽したこともまったく同じである。


 だが、ここでは、ちがう立場の人々について語りたいのだ。
 水俣病に早くから気づいてたちあがったのが、水俣湾沿岸の漁師たちだった。奇病発生から何年後かには、とうとう漁協がチッソ工場に対して実力行使のデモを行った。だが、驚いたことにこのデモによって漁協は地域の中で孤立してしまうのである。工場排水の海への排出停止を求めた漁師たちに対して、なんと地元の漁協以外の多くの団体が、工場排水の継続を熊本県知事に要請したのである。

 いかにチッソ工場によって地域の経済が成り立っているとはいえ、奇病に苦しむ人や踊り狂って死ぬ猫を目の当たりにしながらも、その企業を擁護するなどというのは、今から見ればとても信じられないことである。しかし、当時まぎれもなく、行われたのである。

 これと同じようなことを、いまわれわれが目の当たりにしていないと本当に言い切れるのだろうか?それは、大飯原発の再稼動に対する地元や経済界の賛成の大合唱のことである。そもそも両者を並べることに、お叱りを受けるかもしれない。だが、あえて問いたい。

 断っておきたいのだが、私は原発再稼動に反対だから、これをあえて取り上げたわけではない。(*)そうではなくて、水俣病の歴史を冷静に振り返るとき、今もなお同じような過ちを日本人は犯し続けているのではないかという思いからである。そうだとしたら、我々は歴史から何も学んでいないことになる。それがどうにもやりきれないのだ。

 チッソの工場がなければ食べていけない、地方自治体は税収入がないという話は、原発再稼動において語られている言葉とまったく同じなのではないだろうか?


 両者に共通しているのは、またも戦後の日本人と集団農耕型気質である。失業して食べられなくなっても、つまり自分が死んでもことを貫くことができるのは、ほんの少数の孤高武士型気質の人間だけである。そういう日本人は、今の日本には、ほとんど見当たらない。だからこそ、立ち止まって、歴史に学びながら、同じ過ちを繰り返さない努力が必要なのである。

 水俣病がその後も続き、何十年にも渡って被害を拡大し続けた。原発事故の真摯な原因究明や反省なしに、ただ単に事故前の状態に戻そうとする多くの日本人に、何十年か後にまた反省をしなくてはならないようなことが、起きないことを願ってやまない。反省なき人間の傲慢さには、必ず自然からの反撃が行われるだろう。 目覚めてほしい、すべての日本人に。



 (*)反対のための反対ではなく、せめて、全原発の再点検による選別をしたうえで、最低限必要な数の原発を一時的に再稼動させる。それくらいの知性がなければ、いくら原発を輸出したところで、世界の信頼や尊敬などを受けることはできないであろう。

2012.06
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