烈風

 味噌にぎりとお米の話...もろもろ


 貧乏なうえ、さらにお店をやっていて忙しかった我が家では、子供の頃、食卓によくおにぎりが出ていた。巨人の星で有名なちゃぶ台の上に、白く握られたおにぎりだけが乗っていた。今や巨人の星も昔物語で、ちゃぶ台など誰も知らないのだろうな。おにぎりといっても、昨今のように様々なふりかけやらをかけているわけではなく、ノリが巻いてあるのも、たまにであった。そう塩にぎり、塩だけのおにぎりである。塩にぎりは、日本人にとって究極のご馳走だと思うのだが、毎日ではさすがに飽きる。
 そこで、時々違うものが、お皿に乗っていた。それが味噌握り(お味噌のおにぎり)である。大方の人は、味噌にぎりといえば、おにぎりを焼いてそこに味噌ダレをつけたものを想像するかもしれない。がそうでは無い。塩の代わりに味噌を塗ぬっただけである。それでもひとつだけ、違うところがあった。形が三角ではなく、俵形に握られていたのだ。どうしてと言われても、理由はよくわからない。ただ味噌は、やはり俵型がよく合う。数年前、無性に食べたくなって自分で作ってみたのだが、だしやら何やらが入り込んだ味噌では、あまり美味しくない。

 冷や飯にはソースか醤油か、と書いた『我が精神の原点』みたいな話になってきたので、この辺で他の話に移ろう。


 お米あるいはご飯の話である。お米の産地偽装は、もはや当たり前のようになってしまった感がある。各ブランドの生産量よりも、流通量の方が多いと言う、明らかにおかしな現象もその証拠なのだろう。ただご飯については、もはや日本のお米は美味しくなりすぎて、その違いがそれほど重要ではなくなってきているのかもしれない。実際新しい米の開発は、各地でおこなわれており、新しいブランド米が次々と誕生している。
 この前のお米の品評会では、 九州のブランド米が上位に食い込んで話題となった。私も食べてみたいと思ったのだが、いつものスーパーには、どこにも見当たらなかった。東京にいたときの商品の品ぞろえと、埼玉も南部中央の小さな市では全く違っている。これがいわゆる都市部と地方との、需要と供給の違いでもあるのだろうか。この話はさておき、美味しくて高く売れるブランド米が出れば出るほど、その偽装も多く行われる。

 最近のニュースでは、宮城県産や岩手県産のコメを、秋田県産と偽って販売したとして、京都府は米加工販売業者に対し、文書による改善指示を行ったという。だが、このニュース、よくわからない。というのも、報道によれば、この業者は、産地を偽らずに「秋田県産あきたこまち」を販売していたが、美味しくないとのお客さんからのクレームを受けて、偽装を始めたという。その結果クレームがなくなったとしたら、これはこれで、また様々な問題を含んでいる。

 私にも似たような経験がある。宮城のササニシキを昔始めてたべたとき、とてもおいしく感じた。これまでのコシヒカリと全く違う感触で、美味しいと思ったのだ。それから10年近く経って、またササニシキを食べたのだが、昔のような美味しさは感じられなかった。わたしの味覚の変化なのか、それとも他のお米が美味しくなりすぎたのか、それともササニシキの偽装なのか、はたまた違う理由によるものなのか、よくわからない。
 おまけに、埼玉に越してきてからは、ササニシキ自体がお店にない。


 コシヒカリが成功しすぎたため、その後のブランド米も、その派生や発展系が多い。そのため、おいしいのだが、味覚が鈍い私には、全体に大きな味の違いが無くなっているように思えるのだが。

 「教育改革:食育」であまり詳しく触れられなかったのだが、給食時における食育として、このお米の違いがわかる日本人を作ることも、味覚教育の1つなのではないだろうか。専門家ばかりを育てようというのでは無い。どちらも美味しいけど、明らかに味覚が違うよね、味の美味しさの中身が異なるよね。とわかる舌を持つ生徒が増えて欲しいのだ。

 地産地消の観点から地元産米を中心としながらも、時々まったく異なるご飯を提供する。その違いが分かるかどうか、生徒に聞いてみるのも良いだろう。ついでに言えば、ブランドの違いだけでなく、様々な穀物の味と栄養を知ってもらうことも必要であろう。とろろには麦飯と相場が決まっている。それはなぜなのか、身をもってわかってもらう。そんな食育がのぞましい。時々胚芽米を混ぜたり、麦飯やあるいは五穀米を出したりして、様々な味を楽しみながら、勉強してもらう給食の時間で有って欲しい。


 さらには、お米のというか、ご飯の性質の違いを理解して食べ分けるという事を奨励していきたい。コシヒカリは確かにおいしいのだが、全ての物に合うわけではない。握り寿司を考えてみよう。一流の寿司職人は、決してコシヒカリだけでシャリにはしない。違う特徴のあるお米をブレンドして、寿司のシャリに最適なご飯を炊いているのだ。我々のような素人でも、カレーやチャーハン、ピラフには、あまり粘り気のないものの方が良いと思う。もう少し進んで、ステーキに合うご飯と、和食に合うご飯は別であろう。パンの消費量がお米を上回ったというが、パンとご飯には大きな違いがある。それは食べられ方の多様性である。トーストだけではなく、様々に加工されたパンがあるのに、ご飯は必ずしもその惣菜に合わせた食べられ方をしていない。このあたりに、日本におけるお米の消費を拡大するヒントが、隠れていると思う。


 安倍総理や橋本市長に頼みたい。右翼とか独裁者とか呼ばれるほど強い力を発揮できるのならば、現在大店法によって保護されているスーパーや大型店でのコメの販売を禁止してほしいのだ。確かに大量仕入、大量販売で消費者から見てある程度安くなったかもしれない。だがそれが結果として、米離れをさらに加速させ、消費者の米に対する意識を劣悪のものにさせてしまったのも事実である。大店法が、地域の商店を潰してしまう一因となっただけではなく、日本の食文化や味覚そのものにも影響を与えていることを考慮しなくてはならない。
 二人の名前を出したのも、彼らの憲法改正など改革志向には賛成なのだが、経済政策の規制緩和が善だという狭い考え方がきにいらないのである。規制は緩和、自由化ばかりに意味があるのでは無い。逆に規制をかけることで、新たな成長の道も開けてくる。柔軟な思考を望みたい。

 具体的には、スーパーなどの大型店での米販売を禁止することによって、地域に昔ながらのお米屋さんが復活してくることになる。むろん昔のままの米屋さんでは困る。いい例がある。東京の浅草の近く田原町だと思うが、大変にユニークなお米屋さんがある。そこではお客さんの好みに合わせて、お米をブレンドしてくれるのである。そうパンの種類がいろいろあるように、これからは家庭によって家庭の味のご飯というものがあってもいい。スーパーのような大量販売方式では、このような対面販売は対応できない。だからこそ逆に、大型店での販売を禁止して、お米の専門店を復活させる。
 先ほど給食のところでも触れたように、様々なお米を食卓の内容に応じて食べ分ける。それを可能にしてくれるのが、近くにあるお米屋さん。月に数回しか作らないカレー曜日のために、最も合うお米。チャーハンやピラフに最も合うお米。丼物に合うお米。分厚いステーキに合うお米。そんな自由で融通の利く少量のお米の販売が行われる時、そして専門家であるお米屋さんがちゃんと推奨できる時、日本の食卓はさらに豊かになっていく。そしてこれは、自由貿易の中で、外国から入ってくる安いお米への対抗策ともなるのだ。  



   主要食糧あるいは基本食料の海外への全面依存、食料自給率50%以下と言うのは、まさにキチガイじみた政策である。将来、天候にまったく左右されない農業が全面普及した時ならいざ知らず、そして中国、インドを始め発展途上国が豊かになるに従い、世界的な食糧不足が叫ばれる今、自国の基礎食料の安全保障を考えない日本人は日本人では無い。農業として、つまり産業として考えるときには、基礎食料に代わって、高価な果物を輸出すれば良いと言う考え方は成り立つ。だがそんな事はどうでも良いことである。真に重要な事は、基礎食料が常に安定的に間違いなく入手できるか、という点に尽きる。すべて海外に依存するということは、まさに平和ボケと全く同じ食糧安保ボケなのである。

 自由化の波が止められないものであるならば、国産の基礎食料をきちんと確保する道が出来るのは、ほかならぬ国民の意識と日々の生活である。ひたすら安さだけを追求する強欲な企業経営者や、特定の国にひたすら追随する官僚や政治家たちに、自らの食の安全を委ねてはならない。自分たちの、そして子供たちの食の安全を確保するためには、基礎食料を国内で生産し国内で消費する、そのサイクルが不可欠なのである。お米の話が、いつの間にか、家食料安全の話になってしまったが、ある意味当然であろう。


 産業としての農業を考える時、これまで述べてきたようなお米の新しい食べ方、あるいは食の文化を確立することによって、日本の農業を輸出することも可能になるのではないだろうか。お米を主食とする国は、世界の中でそれほど多くは無い。としたならば、お米を主食としない国々に、最も適したお米を開発して提供していく。むろんそれを日本国内で生産して輸出したところで、いずれ広大な土地を持つ農業国のオーストラリアやカナダ、アメリカにはかなわないであろう。だがそれで良いのだ。広大な土地を持って安くお米を生産することができるとはいっても、作物の生産には限度がある。つまり日本以外の国が大量に輸入するようになれば、自然と日本に入ってくるお米の量も減るし、価格も今よりは上がるであろう。そうすれば国内生産との差が少しでも縮まることになる。

 また日本の企業が、日本向けにばかり輸出したがる傾向を辞めさせて、それらを他の第三国への輸出に切り替えさせることで、違う形を得ることができるようになる。国民のために安く仕入れてくるといえば、聞こえは良いが、日本人の多くの企業は内向きな内弁慶なのである。日本の良い種を海外に持っていって、海外で生産し、それを日本に向けて輸出しようとする。なぜそれをもっと他の国に、売ろうとしないのだろうか。むろん日本は金持ちで、今のところ高く買ってくれるからに他ならないが、そんな時代はもうじき終わるだろう。食糧不足の時代になれば取り合いになる。そんな時に世界の食糧の全体をコントロールするような仕掛けを、まさに穀物メジャーに負けずに構築することが、国益にもそして人類の為にも望ましいことであろう。それが新のグローバル企業になる。


 相変わらず、とりとめもなく書き散らかしてきたので、このぐらいにしておきたい。

                               2013.4.11
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