烈風

破壊と創造


 先の見えない行き詰まりの中で、様々な問題を抱え込んでしまった現在の日本である。もはや、明治維新に相当する根本的な変革が必要だと、国民の多くが心の中では思い始めている。にもかかわらず、改革がなかなか進まないのはなぜであろうか。

 自己中心的で、己の利益や欲望だけを考える人間ばかりで、自己の利益を犠牲にしても公(国や社会)のために尽くそうとする人がでてこないのも、理由のひとつではあろう。それ以上に根本的なところでは、改革に踏み出すことのできない集団農耕型気質の国民性が関係しているのだろう。「破壊なき創造などあり得ない」という事を真に理解して、それを享受できるかどうかこそが本質である。


   新しく家を建てるには、古い家を壊さなくてはならない。新しい服に着替えるには、着ている服を脱いで裸にならなくてはならない。当たり前の事である。文明、社会制度、体制、仕組み、組織においても、全く同じ事である。古きもの、既存のもの、不要なものを捨てて(破壊して)こそ、新しいものを構築(創造)することができるのだ。つまりここでいう破壊とは、創造のための「創造的破壊」である。

 この国の歴史を見て、時代を転換させた創造的破壊と言えば、戦国時代の織田信長や多くの英傑が出現した明治維新などがすぐに思い浮かぶ。これらは武力を伴う実力行使によって、それまでの既存の枠組みを破壊した。この破壊が徹底していればいるほど、その後に構築されるものもまた大きくなるという事は、明らかに歴史が示している。戦後の日本の驚異的な成長や発展も、先の戦争により文字通り破壊し尽くされたからこそと、皮肉を交えて言えるのだろう。

 大きな時代の変革を必要とするときには、創造的破壊なしに、既存のものを温存したままの小手先の改革や変革で済ますことは決してできない。それは単に解決の先延ばしに過ぎない。
 今の日本の閉塞感のひとつには、変わらない、いや変えられないという「もどかしさ」がある。明治維新のように、実力行使を伴う破壊ができない現在、ではどうしたら現状を破壊できるのであろうか。また、なぜ破壊がおきない、行われないのであろうか。



 バブル崩壊後の20年、まるで坂道を転げ落ちるかのように日本社会は悪化の一途をたどってきた。その原因をひたすら少子高齢化などに事寄せて語る輩が多すぎる。マスコミも政治家も専門家も、みな似たようなものである。

 真の原因は、バブル崩壊後に本来おこるはずの産業構造や社会構造の変化、崩壊が起こらなかった、いや起こさないように、むしろ積極的に現状維持を図ったことにある。いちど金や成功などを手にした人間は、それを失うことを 極端に恐れる。くわえて、公より私を優先させて恥じない利己主義、過度の個人主義が、利権の誘導とバラマキを助長させたのである。そして、金で人の心を買うような政策が、人々のまともな感覚をゆがめていった。

 あそこで赤字国債を発行してきたからこそ、経済が落ち込まないで済んだのだ、というしたり顔の評論家、学者、政治家、マスコミばかりで、つくづくいやになってしまう。日本の知性の劣化もきわまれりとしかいいようがない。壊れなければ、いや壊さなければならないものを、借金してまで温存することに血道をあげたのである。この真実をきちんと語る日本人はほとんど見かけない。自己中心の考え方が、骨の髄までしみこんでしまったようである。

 既存のものを温存しようとする体質が、変革期の改革を妨げる例は、産業構造ひとつをとってもよくわかる。物作りこそ日本の本質などと良く言われるが、それも裏を返せば、情報産業や金融産業にたいして、アメリカ並みにうまく対応できなかったに過ぎない。その反省もなしに、これまでと変わらない物作りだけを、金科玉条に言い張ることこそ、集団農耕型気質の悪しき典型である。むろん、行き過ぎた金融が、資本主義経済まで蝕んでいることについては、また別の機会に触れたい。

 かなり淘汰されたが、60万社にものぼるゼネコンをはじめとする土建関連企業、零細なまま集約をしない農業や、中小企業。バブル崩壊後は、これらが市場による淘汰の洗礼を受けなければならなかったはずなのに、次の世代に負担を押しつける形の借金をつみかさねてまで、それらの温存を図ってしまったのである。農業など1次産業についていえば、温存そのものが悪いのではなく、その方法が問題であった。ひたすら既存の形を維持することに力を注ぎ、結果として、生かさず殺さずにしてしまったと言うことである。

 そしていまごろになって、「財政規律や消費税増税を唱えるのは憂国の志だ」、などと恥もなく言う多くの政治家や学者、評論家、マスコミを見るにつけ、結局、破壊もせずに屋上屋を重ねようとしている事実すら認識できない見識に、ただただうなだれてしまうのである。いま、この国を変えるには、創造的破壊、すなわち、痛みを伴う政策の果敢な実行が不可欠である。そこまで、踏み込んで初めて、改革の名に値する。保身のための時間稼ぎや、問題の先送りは、憂国ではなく亡国である。もはや、行き着くところまで行き着いたこの国に、破壊なき変革などありえないのである。



 民衆主義の基本は多数決にある。とすれば基本的には、通常は既存体制の温存を望むものが多数派なのだから、選挙ではそんな政治家しか当選しないことになる。実際、首長など直接利害が及ばないように見える選挙においては、革新を唱える政治家がたまには当選するが、その同じ選挙民が、議会の議員選挙になると利益誘導、現状維持の議員ばかり選ぶのは、民主主義による改革の困難さを良く表している。

 となれば、政治クーデターしか道はないのであろうか?むろん武力的なクーデターは、現在のこの国には受け入れられないであろう。ならまずは国民の変革への意志を、選挙以外の形で表すしかないであろう。そのためには、孤高武士型気質の人間がたちあがり、大多数に訴えるしかない。そうすることで、集団農耕型気質の人々も、選挙での利益誘導型、現状維持の政治家を選ばなくなる。その兆しは、すでに自民党政権を変えた事からも充分に伺える。が、その結果の民主党政権の政治が自民党以上に悲惨なものであったのは、結局は既存の政治家そのものを破壊しなくてはならないことを証明してしまった。さて、次はどこに向かうのだろうか。

 いずれにせよ、我々は、自律・自尊を持って、創造的破壊を受け入れねばならない。

 国の仕組みを変えるほどの大変革の「破壊」は、大変なエネルギーを必要とし、信念なくしては実行不可能である。既存のものを守ろうとするすべての人間が敵に回り、大多数からの恨みを受けることになる。民主主義の原則でいけば、少数派の創造的破壊派は、常に選挙で落選することになる。この国で、政治改革をはじめとしてさまざまな改革が進まないゆえんである。
 日本人の大半を占める集団農耕型気質の人間は、基本的に既存のものを大切にする保守的な性格であって、破壊を自ら起こすことは得意ではない。やはり、孤高武士型気質の人間でないと、自らその渦に巻き込まれる事を承知の上で、「破壊」を実行に移す事はできないだろう。だがそれでも、集団農耕型気質の日本人でも、その奥底には孤高武士型気質のDNAが眠っている。それを揺り動かして、方向性を示して歩みだせば、必ずついてくると信じている。


  将来、すでに100年を越える長期の借金漬けをいまだにやめようとしない日本人のおろかさは、いかに気質とはいえ、すでに限度を越えている。戦前の軍部が、自分たちの保身のために国を滅ぼした。いままた、自分たちの保身のために、将来の国を滅ぼそうとしているのは、他ならぬ現在の大多数の日本人であると気づかねばならない。
 破壊を嫌い、現状維持に汲々とするならば、将来に禍根を残すだけではない。もはや現状維持すらできない情況に、いつ落ちいってもおかしくはない時期に突入しているのだ。東日本大震災や原発事故は、これまでの甘えた自己過信を戒めてくれたのではなかったのか。もう忘れてしまったのであろうか?

 破壊を恐れるひとつの理由は、その後の姿が見えないからであろう。自己保身、現状維持の人間はとかく想像力、創造力に欠けている。だからこそ、この烈風飛檄では、そんな将来の明るい展望を、望ましい社会のあり方の一端を示すことにしたのである。
 立ち上がれ、そして破壊せよ!


参考資料
日本人の気質』 「第3章 日本人の気質構造 −日本人の二つの気質

2012.05改
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