烈風

教育改革:現状


 人間社会の善し悪しを決める物は数多くあるが、なかでも「教育」はそのもっとも基本的なひとつであることに間違いはない。

 第二次世界大戦の終結後(以降『戦後』)、占領軍によって行われた各種の思想統制や教育が、その後の日本の教育の方向性を縛ったことは確かであろう。その功罪の詳細は、別の機会に譲るとしても、それ以後とくに平成以降の教育の問題点については、しっかりと認識しておく必要があるだろう。

 バブル崩壊の国力衰退と共に、あろう事か教育への投資まで縮小してしまった。単に教育関連への国家予算が、他の先進国と比べても少ないと言うことだけではなく、そもそも次の時代の人間を育てるために、教育を整備しようという意識そのものまでもが、消滅してしまったかのようにみえる。目先の利益追求におぼれ、将来への目配せすらできなくなってしまったのだ。


 教育改革は、一朝一夕に成果が目に見える物ではないが、政権や一部の勢力の思惑により変更されたり、偏った教育が成されてはならないのは言うまでもない。しかし、現状は必ずしもそうなってはいない。

 教育と研究とは表裏一体の物で切り離せない部分もあるが、ここではとりあえず教育について述べてみたい。また教育も、成人するまでの教育と、大人になってからの生涯教育とがあるが、個々では主に前者のことを前提としている。
 また、0歳から3歳までは、両親による人間の土台を作る時期として、ここでは対象としていない。「三つ子の魂百までも」という言葉の正しさが、最新の科学、特に脳科学の発達により徐々に解明されつつある。これもまた別に論じるべき項目であろう。

 さて、まず第一に、今の日本の教育現状、とりわけ課題を認識するところからはじめなくてはならない。以下、思いつくまま、ランダムに並べてみる。


■構造的問題

  文武科学省、各都道府県の教育委員会、市町村の教育委員会、学校という縦割りで、しかも強固に閉鎖的な体制そのものが、多くの問題を生み出している。なかでも深刻なのが、教育の独立性の名の下に、外部の目が入らない自分たちだけの閉鎖的な社会を作り上げていることがある。

  さらに、地方の名士の名誉職、公務員OBの天下り先となっている教育委員会とその事務局は、とても教育を考えて監督するような機構とはなっていない。この学校をめぐる体制を根本的に改めない限り、教育改革も絵に描いた餅となってしまう。

  また、地方のく首長で教育に関心のある人からは、教育委員会に選挙で選ばれた自分たちが何も関与できないことはおかしいと、そのゆがんだ独立性を指摘する声もある。

  この、構造門打破、戦後直後から様々な議論がなされ、何回かの改革も行われたが、結局実効性あるものとはなっていない。たとえば、教育委員を公募にすると、特定の思想信条を持った人物ばかりが応募してきて、公募の意味を成さないなどである。

■学力低下

  学力低下が叫ばれて久しい。学力が必ずしも落ちているわけではなく、むしろ深刻なのは、学力の二極化が進んでいることだという研究もある。個人的な感想では、明らかに全体の学力や質が低下しているように思えるのだが、難しい問題ではある。

■ゆとり学習の弊害

  「ゆとり学習」を採用したとき、教師側も含めて、教育の質を上げなければならなかったのに、それをおこなわず、単に量だけを大幅に減らしてしまった。

■新学力観の弊害

  知識のつめこみへの反省から、新しい考え方として導入されたのだが、それが、その後の教育現場の混乱・荒廃を助長した。1990年初頭に導入が進み、1994−6年に現場ではやったのだが、このときには、メディアは何も反対をせず、むしろ賛成した。この晋学力観は、カリキュラム手引きにだけ書かれ、指導要領にも記述されていないという。

  個性重視、自主的態度重視などで、テストが100点でも成績が4の生徒と、やる気が有るというだけで、5の生徒が生み出された。
  教師は指導をしてはならず、『支援、手助けをするもの』ということで、いわゆる友達感覚が蔓延した。生徒を「さん」づけで呼ぶなど、形式主義の典型となった。生徒が教師をばかにする原因ともなったのではないだろうか。   生徒を評価しない、宿題を出さないということになり、徒競走で全員1着とかが生まれた。

■教師の質の低下

  教師の質も明らかに低下している。教え方が下手。塾の先生のほうがうまい。プロがすくない。

■教師の事務量の増加と効率

  教師がここ10年とくに忙しくなっているといわれる。日本では教える時間(こま数)も27こまと多い。たとえば上海では14こまである。   あらゆるアンケートがもとめられ、直接教育にかかわらない作業が増大している。たとえば、朝の出欠を朝のうちに教育委員会に報告しなくてはならないなど。

  一方で、ここには、教師という自分ですべてを決められる競争のない世界(教室)がある。そのため、事務などの作業効率が悪いのではないかと思われる。日本のホワイトカラーの作業効率は、世界の中でも悪いというのは、つとに有名である。

  また、教師の中で、作業量の増大といっても、特に子供の教育に影響するほどではないという人も現実に存在している。

■履修主義が習得主義かの不毛な争い

  履修主義のために、教師が学力を見ようとしない、責任を感じない。江戸時代の寺子屋では、個別学習主義であった。エリート教育を差別、不公平だとして排除する思考が社会にあるのも一因。

     小学校では、自分の名前であっても、その学年で教わっていない漢字を使用させないという、ばかげたことがおこなわれている。

■反動としての、詰め込み主義の復活

  宿題の量があまりにもおおくて、生徒がこなしきれないでいらいらしている現状。小学生で3時間もかかるのは、ざらになっているともいわれる。

■公平さの履き違え

  「登校しぶり」の生徒に親がついてくると、学校はそれを非難する。学校は一人できましょう。階段は一人で歩きましょうと。一人ひとり違うことを認めない。すぐに不公平と言い出す社会、国民気質が根底にあるのだが。


 他にもあるだろう。ここまで問題が輻輳してしまうと、とても何かひとつの原因や現象だけを取り上げてみても、拉致があかない。問題点や課題を認識しながら、根本的にすべてを変えるしか解決策はないのだろう。それには、社会のあり方そのものも含まれてくる。

2012.03
秋山鷹志