烈風

教育改革:学びの場


 「教育改革:制度」で、6:3:3制から1年毎の制度に変えることをはじめとする、いくつかの改革を述べた。それらを踏まえながら、もう少し具体的な姿を示してみたい。


 学校評価を導入することで、学校間に競争原理を導入する考え方や、学校選択を自由にしたり、逆に地域で決めたりと、様々な試みが行われている。だが、なかなかうまく機能していないのが現実であろう。いくつもの理由は考えられるが、なんといってもここには、学校という組織や教師の視点はあっても、生徒中心に考える発想が欠落しているように思える。

 学区などどうでも良いのだ。生徒が、もっとも学びやすい形で自由に教育を受けられるような『場』を作ることこそ、教育に携わるすべての人間が、真っ先に考えてやらねばならないことであろう。

 時々テレビで、過疎地の少人数しか生徒がいない学校とか、島でたった一人しか生徒がいない学校などが、紹介される。紹介して、何が言いたいのか良くわからない番組が多いのだが。それはさておき、一人っきりで学ばせ続けることが、生徒にとって良いはずはないだろう。時に同年代や、異なる学年の子供たちとの接触は、絶対に大人が用意すべきことである。これをやっていない、今の教育者や官僚・役人は、職務怠慢である。では、どうするのか。

 まずは、地域内での学校間の自由な往来を、保障する仕組みが必要になる。島で一人学ぶ生徒は、週に1度くらい島から離れた学校に通ってもよいではないか。逆に、周辺の学校の生徒が、月に一度くらい島の学校で、体育や実習やらをやればよいではないか。それを邪魔しているのは、身勝手な大人の論理なのだ。

 新しい日本の社会のあり方として、柔軟性のある社会を標榜した。教育にこそ、柔軟性はより発揮されねばならない。

 また、以下に述べるような学習の自由度からも今の小学校、中学校、高校は、グラウンドを真ん中にして同じところにあるのが、便利かもしれない。そして、さらに言えば、この学校群の一部を、社会人向けの生涯学習や地域の学習の場として提供することも考えられる。


 物理的な学区の柔軟性について述べたが、さらに、学習内容からの柔軟な教育を受ける『場』も、考えなくてはならない。ここでは、それをまとめて『放課後学習』という形で見てみよう。


 現在、授業が終わった後の教育の場は、学習塾など個々の家庭の事情や思惑に任されている。学校のあり方を変えることで、個人を尊重して個々の才能を伸ばしながら、全体の底上げも図る方法がある。

 今でも補習と言うような形は行われているが、この考え方を大きく変えることである。具体的には、学校の普通の授業の他に、放課後授業や休日授業の場を用意する。そして、そこでの教師は、民間会社からの派遣教員を中心として行う事にする。

 普通の授業時間の中で、個別指導が出来ればそれに超したことは無いが、限られた時間内で生徒への個別対応は、現実にはなかなか難しい。クラスの人数を少数にすることばかりに眼を奪われるが、それだけでは個人ごとに異なる学力への、きめの細かい対応はできない。そこで、普通の授業が終わった後、生徒は自らの意思で放課後授業を受けられるようにする。

 放課後授業は、いくつかに分類される。ひとつは、昼間の授業で理解が不十分だった生徒や、休みを取っていた生徒などを対象とする補習的授業である。この授業は、あらかじめ予約を必要とせずに、誰でも自由に受けられる。この補習的授業は、同じ学校内を単位として行われることが望ましい。ときには、時間が許せば、昼間の先生が教えることも良いであろう。教育大学の学生は、ここで実践力を磨くこともできよう。
 一部次の先行的事業ともかぶさるのだが、昼間の授業は理解できたので、もう少し深く進みたい生徒もここで補習を受けられるようにする。できる子が、他の子に教えるのも悪くないだろう。


 二つ目は、先行的授業である。日本では、他人よりもぬきんでた才能をおろそかにする傾向が見られた。だが、これからは、才能がある子供は、より高次の教育を積極的に受けさせるべきである。その為、特定科目の進んだ授業を行う場をつくる。小学生が中学の国語や数学を学んでも良いし、普通授業より少しだけ応用を利かせた物を学んでもよい。才能を十分に開花させてやることで、ここから日本の天才も育って来る。
 学年や学校単位を越えた物なので、必ずしも、ひとつの学校内になくてもよい。つまり、周辺のいくつかの学校が集まって行うようにする。生徒達も昼間とは違う仲間達との交流や切磋琢磨の場とも成る。これもひとつの教育効果である。
 飛び級を許す前提なので、上の学年で学ぶことになる前段階の生徒とか、特定教科だけ特に進んでいるとか、要は個別的な授業になる。


 三つ目は、専門的授業である。ピアノ教室、高度英会話教室等々、様々な物が考えられる。既存の民間塾との違いは、国や自治体、学校が管理主体となる事によって、商業ベースにはのらないものとか、特殊分野で民間いはないものとかが考えられる。これによって、質の高さが保証されながら、安価な授業料で学ぶことが出来るようになる。いまでもNPOが、本物の大工仕事などプロをよんで、生徒に実体験させている活動がある。まさに、放課後 の教室と同じであろう。

 これも、学校単位で設けるのは難しいであろうから、地域単位になるかもしれない。

 これらは、昼間の普通の授業を行う教員ではなく、民間企業からの派遣教員によるものにしたい。そうすることで、閉鎖的な学級/学校空間も開放されるし、何より教師にとっても向上心の刺激と成る。実際、補習的授業などは、生徒の理解度をみることで、教師の教え方の出来不出来も見ることが出来る。これまで、ないがしろにされてきたきらいがあるが、教え方がまずい教師などは、教師に採用すべきでは無いのである。
 むろん、通常の人材派遣とは訳が違う。教師派遣会社は、様々な規制を受けることになる。派遣人材には教師としての最低限の資格を保持させること。常に最新の知識を習得する場を設けること。さらには、思想/信条を一方的に押しつける教師の排除とか、いろいろな事を考える必要はあろう。ここに教育大学での教員免除が、意味をもってくる。つまり、派遣教師は、最低でもここを卒業していなくてはならない。

 一方、この教師派遣会社の派遣教師に成ると言うことを労働者側から見れば、そこには非常に柔軟な勤務時間を選べるという大きな利点がある。自分の得意な分野だけでよく、また好きな時間に、好きなだけ働く事が出来るようになる。事務的な仕事は、派遣会社がやってくれるので、教えることに専念すればよい。

 授業料との関係を述べるなら、補習的授業と先行的授業は、原則無料、すなわち通常の学校の授業料に含まれる。そして、義務教育は原則として、授業料無料である。専門的授業は、原則として有料にする。だが、その金額はできるだけ、安くすべきである。当然であるが、派遣教師の給与は、学校側(というか国、自治体)が負担する。

 教育大学の生徒、教師OB、大学生などが、補習授業をボランティアで支えることが、望ましい形ではある。


 出来れば年に1度くらい与えるのが望ましいのだが、なかなか困難であろう。何かと言えば、学年もしくはクラスで1番にならせることである。一時期、悪しき平等主義の結果、運動会の競技まで全員が1等になるなどと言うばかげた訳の分からない事が行われた。過度の競争は、いたずらに心身を傷つけることにもなり有害である。だが、全く競争のない世界など、現実世界には存在しないし、何より競う気持ちが無ければ、ゆがみのない向上心は育まれず、心身の発達もない。

 とりわけ子供のうちは、たとえそれがどんなものであれ、自分が良くできた(1番になれた)と言う体験は、その後の子供の成長によりよい影響を与えるもので有る。
 しかし、全ての子供が体育祭で1等をとれるとは限らない。そこで、あらゆる競技を動員して、とにかく子供達全員に何かしらで1番を取らせるようにする。体育競技でも、勉強でもなんでもよい。いや、AKBではないが、じゃんけん大会だってありだと思う。ゲーム、そろばん、暗記、石蹴り、指相撲、とにかくあらゆる物を動員して、すべての子供に1番になれたという体験をさせるのだ。クラス全員が1番になれるようにあらゆる物を考えるのは、何も子供のためばかりではない。何も特徴もなく、特技も良く分からない子供を観察し、この子は何なら1番になれるのかと考える事は、教師の子供を見る目を養うし、勝たせるための競技を考える事は、柔軟な思考を生み出すことにつながる。

 もちろん、最大の目的は、子供に『やれば自分でも1番になれる、できる事がある』と経験させることにある。「小刀を使って鉛筆をきれいに削る大会」なる物が実際に開催されているが、こういうアイデアを生徒の数だけ考える必要があろう。

 たとえ障害がある児童でもできる事は、必ずあるはずなのだ。そういう子供も含めて考えられれば最高であろう。だるまさんが転んだ、お手玉、缶蹴り、隠れんぼ、遊びだって構わない。目の不自由な児童がいたら、健常者との2人三脚だって良いではないか。むろん、その場合、ハンディはつけてよいだろう。細かいことを言えば、組んだ健常者の児童が望むなら、その子には健常者同士で組んでもう一度参加させるなどの心遣いも忘れたくない。
 花の名前当て、動物、乗り物、星座、考えればいくらでもある。


 そして、ここからが肝心。1番になった児童には、帰るまでに表彰状を用意して、クラスのみんなの前で渡してほめてあげること。他の生徒と先生は拍手をおくろう。景品などはいらない。それより、小さくとも名前の入った表彰状を家庭に持たしてあげることが大事である。そして、家庭でも、きちんと受け止めて、面と向かってほめてあげること、夕食は好物にしてあげてもよいかも。それが、どれほど子供の自信と励みになるか。同時にまたこれによって、人間というのは様々なんだと、単に勉強だけでは無いんだ、いろいろな人がいると言うことを全員が理解するようになってくれたら、教育としても最高であろう。

 むろん、実際にこれを実現するのはとてつもなく大変な負担が教師側に被さってくるかもしれない。だが、子供達に直接関係のない資料を、せっせと作るよりは遙かに意義がある。

 問題は、1年くらいの間でとにかく全員、クラスにひとりでも1番がとれない子を残してはならないという点だ。なかには、予想もせずに何度も1番を取る子が出るかもしれない。それはそれでよい。だが、取れない子をけっして作ってはならない。いかなる理由があろうとも、この手の脱落者は作ってはならないのである。一生子供の心に傷と成って残る恐れがある。
 そう考えると、なかなか取れない子供のために、教師は胃が痛くなるかもしれない。ひょっとしたら、クラス全員に100点を取らせるより難しいかもしれない。それだけに効果も大きいと信じたい。

 どうしても取れない子供がいたら、家庭との共闘もやむを得ないかもしれない。たとえば、どこかに出かけて行くことにして、利用した電車の路線の駅名を覚えさせてみる。それでうまくいくようなら、出来るだけ忘れないうちに、駅名暗唱競技を行う。このくらいなら、おとなの「やらせ」ではなく、仏教の「方便」に成るだろうと思うのだが。

 少しでも他と違う所のある子供をいじめたり、排除しようとする悪しき習慣も、こういう教育により様々な人間が存在する事を知れば、すこしでも減っていくことであろう。


 月に一度、全校生徒によるお誕生会をやろう。講堂などに全校生徒が集まる朝礼を利用して、該当月の子供達を壇上に上げて、みんなで「お誕生日おめでとう」と言おう。個人の誕生日を祝うのは、休日に当たる子はしてもらえないなどから好ましくない。それに煩雑すぎて実現不可能であろうし。

 夏休みや、2月29日生まれだって、これなら必ず祝ってもらえる。全ての家庭で子供の誕生日が祝えるわけではないのが、今の日本の社会なのだとしたら、代わりに社会が祝ってあげよう。ケーキはなくとも、心からの「おめでとう」と誕生歌の合唱だけでも、心は十分に伝わるはず。そうそう、今の外国産のハッピバースデイの歌に変わる新しい歌を、誰か作ってくれないだろうか。それとも、すでにあるのだろうか?

 学校であれ、地域であれ、家庭以外にも『社会』が自分たちのことを見てくれている、関心を持ってくれているという感覚を子供達が持つ事は、とても大切な事のように思う。社会の一員としての自覚をもち、逆に孤立感は持たせない。後の自殺予防やいじめの防止にもつながっていく。

 月に一度、その日の1時間目の授業の始まりが少しくらい遅れても、それを補ってあまりある教育だと信じる。


 ダンスの必修化も良いが、それよりも読書を義務づけるべきである。6学区(小学校)卒業までに100冊を読破することを必修とする。9学区(中学校)では、さらに50冊。これらは、何でも良いのではなく、対象の本を幅広く様々な分野から500〜1000冊くらい用意して、そこから自由に選択させる。読書は、自分の体験以外に経験の幅を広げてくれる。知識ばかりが目的ではない。
 紙の本でも、電子書籍でもよいが、当然、図書館などに常備は必要になる。


 放課後や休日に学校に通うのである。地元の企業やボランティアからの、おやつの寄付があっても良いだろう。ここで、これまでの日本だと、数が人数分なければいけないとか、毎日出さないといけないとか、杓子定規なことを言い出すのが常である。人数分なくても良い。種類がちがっても良い。毎日でなくて良い。
 実社会にでれば、運や巡り会わせなど、当たり前のことである。たまたま、おやつにめぐり合えれば幸運だった、と考えられる柔軟な思考を育てる教育にもなる。



 このように新しい学校や教育の場を設けるには、社会全体や地域の協力が不可欠となる。また、学校の設備でもIT化が必須となる。次にはこのあたりを説明していこう。

2012.07   
秋山鷹志