烈風

新しい社会の考え方:
性悪説と性善説


 人間の本性、本質を『悪』としてとらえるか、『善』としてとらえるか、と言う考え方がある。むろん今では、このような二言論的な論じたいが無意味であるとして語られることもほとんどなくなってしまった。しかしこの論議は、様々なシステムや組織、仕組みを考える上では、それなりに意味を持つと思う。

 結論から先に言えば、残念ながらもはや今の日本においては、性善説を前提とした様々なシステムや機構が、犯罪予防や非道徳的な行為に対して無力である。街中に防犯カメラが設置されても、多くの日本人にとって、もはやこの国は犯罪等が少ないという安心感を十分に抱くことは出来なくなっている。
 統計上のデータで、犯罪の発生が増加してないと言うことを強調したがる向きが一部にある。統計データで人々の心の安らぎを得られるのなら、これほど楽なことはない。おまけに、統計などはそれなりに操作が出来てしまう。 (ちなみに、私は統計官主事の有資格者(公務員になるとこういう仕事にも就けるということ)の資格をはるか昔に取ったことがあります。)


 それはさておき、企業の経営陣による不正や、議員は言うに及ばず警察から検察、医者から介護や教育現場まで、不正や犯罪が日本国中に蔓延してしまっている。このような現実を目の当たりにしては、『性善説』を持ってシステムや組織を考えても仕方が無いことは容易に理解できる。では、性悪説に基づき重罰化すれば良い、という簡単な話にもならない。

 人間の本質が性悪だからではなく、人間は弱い生き物だから、犯罪や不正を犯しやすい状態を出来るだけ排除してやる。社会環境を不正や犯罪の起こりにくい形に構築する努力が、求められるのであろう。

 簡単な例で言えば、万引きをとらえることも重要だが、万引きがしづらい店を作ることが求められるのである。それが、社会全体の中で大きなコスト負担になるのかどうか様々な課題はあるだろうが、基本的な考え方はこの方向で行くしかないと思われる。

 もちろん、真の原因は腐りきった人間の心そのものなのだから、それを正すには、躾けや教育がもっとも重要なのは言うまでもない。だがそれには、そのしつけの場である家庭や家族、ゆがみ、偏向した教育の現場を正さなくてはならない。これには相当な時間がかかることを覚悟しなくてはならない。だからこそ、いわば対処療法としての方策も必要だと考えるのだ。


 全ての法律もまた、このような考え方、「不正が行われにくい仕組みを作る」事がもとめられる。同時に、不正が必ず発覚して社会的な制裁を受けるのだという事を、事実で示す必要がある。つまり、小さなルール違反から正すことである。

 全ての社会システムや法律は、この人間は弱いものだから悪い方向に進まないような壁を出来るだけ用意してやる前提で考えられねばならない。

2012.03

民話
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