日本人の気質

日本人の気質 補章・外伝

オン草紙
【外伝】五輪騒動に共通する外来崇拝

 新国立競技場、五輪エンブレムと次々出てくる騒動。前回の東京オリンピックと比べてみると、これは偶然ではあるまい。一言で言えば日本人の劣化であり、裏側には官僚とそのお仲間の外来崇拝思考が見えてくる。

 前回の東京オリンピックでは、日本中が心を一つにして成功させようという気概にあふれていた。学校で無理矢理に五輪音頭を踊らせたのは、少々行き過ぎだと思うが。新国立競技場建設では、能力・経験がない文科省にやらせたのが間違いだという話がある。それは必ずしも正しくないだろう。前回の国立競技場も文部省の役人が担当し、わずか1年半でオリンピックに間に合わせたのである。おまけにその後長い間、スポーツの中心としての役割も立派に果たしてきた。ある省がだめなのではなく関係者全体の問題なのだ。
 JOCや文科省の役人たちに共通の無責任。群がる企業や関係組織の自己中心的な思考。前回の東京オリンピックとの違いは、まさにこの日本人の質の違いにある。

 ここではそのさまざまな問題の中から、集団農耕型気質が陥りやすい外来崇拝を取り上げてみよう。(「日本人の気質 第6章文明の受容−今なお続く文明の過剰受容と外来崇拝思考」参照)

 新国立競技場でも、五輪エンブレムでもその発端はデザインである。しかも、どちらも日本人の感性に合うとは思えないデザイン。新国立では、建築界では問題ありと言う評判のデザイナーのデザインをわざわざ選び、さらに問題を大きくしてしまった。建築デザインに関わる業界内の派閥や人間関係が、デザイン選定の人選やデザインの選出そのものにも大きく影響を与えていたことも、明らかになっている。

 それにしても、日本人デザイナーによる周囲と調和したデザインを無視して、はじめから場所にも収まらないほど巨大なものを、いかにデザインだけで選んだからと言って選ぶものであろうか?常識から大きくずれている。ここに、選者たちの外来崇拝が透けて見える。西洋至上主義的な感覚、これこそ外来崇拝であるが、日本的でないもの、外人によるものというゆがんだ選択を後押ししている。むろん本人たちは、その意識すら希薄だったのかもしれないが。

 五輪エンブレムでも全く同じ事が見て取れる。大手広告代理店との癒着やデザイナー間での争いという土俵のうえで、新国立デザイン同様に、日本的でないもの、西洋的なものがかっこよく進んでいるという外来崇拝が、あのように「出来損ないのピカソ」にしか見えないものを選ばせることになる。また、だからこそ海外デザインの盗作問題まで引き起こしているのである。あれが招致ロゴのような純和風のデザインであれば、盗作問題も起きなかったであろう。


 この外来崇拝というのは、言葉を換えると他文明の過剰受容ということである。それが明治維新以降未だに、欧米という他文明こそ進歩の証であり、それを取り入れられる自分たちこそ進んだ人間なのだと思い込む性格が日本人の一部にある。とくに官僚、役人や大きな組織、国家権力に連なると考えている組織似属する人ほど、この外来崇拝思考が強い。ある程度の地位や名誉を持ち、実権を握っていると勘違いした傲慢な人間たちが、とりわけ陥りやすい罠なのである。




 外来崇拝思考は、無責任とも絡んでよりいっそう問題を複雑化させて、そこに外来崇拝が潜んでいることを覆い隠す。

 エンブレムって何だ?次々氾濫するカタカナ言葉。その発信源の多くが官僚とマスメディアである。日本文化を大事にと空々しいことを言う(最近はこれすら言わないが)NHKが、日本語を使えと裁判を起こされるような現状にある。このことも、実は外来崇拝の意識が裏側にくっついている五輪騒動と同じ体質なのである。

 エンブレムの説明でも、やたらと横文字が氾濫し、わかったようなわからない説明が成されていた。くどくどと説明しなくてはわからないデザインなど、すでにはじめから失敗であろうに。一目見てわからせるのが、デザイン力である。にもかかわらず、くどくどぐたぐたと説明する姿。まさに役人が責任逃れで行う弁解と全く同じ姿である。下々や遅れたものにはわからないだろうから、よく聞け。そんな傲慢な態度がにじみ出ているのだが、本人たちは一向に気づいていない。


 新国立のデザインでも、訳のわからない条件が付いている。それは、特定の受賞実績である。本当にデザインだけの審査なのならば、なぜ受賞実績がいるのだ?それでは、真に斬新なデザインでも、新人は応募できない。もし、設計から施工までの条件も含めるためだったというのなら、なおさらデザイン受賞歴など無関係であろう?なぜこの事にこだわるのかと言えば、官僚や大手企業の担当者が何かやるときに、まず自分の責任を回避するための防御を考えると言うことがある。それがここに現れている。


 実績ある人(もの)を選んだと上司に言うのは、官僚的担当者の常套手段である。この事は、サラリーマン生活においていやと言うほど経験してきた。はっきりいえば、担当者は成功しようがしまいが一向にかまわないのだ。自分に責任が来なければ。むろん、うまくいけば手柄は当然自分のものにするが。この無責任さと外来崇拝が相まって、NHKや役人のカタカナ語の氾濫や五輪の無責任デザイン選定へとつながったのである。

 建築・設計会社などの関係者たちも同じである。前回は、みんなで協力しようという意識が強く感じられたが、今回は、いかに国の金をふんだくるか、いかにぼろもうけをするか、そんな事ばかりが見えてしまう。純粋であるはずのスポーツ界も残念ながら同じである。ひたすら自分たちの競技の条件ばかり強引に押しつけ、次々と要求を出して、ついには新国立競技場に出された要望が120を越えている。こんなばけものみたいな競技場、どうやって作るというのだろうか。

 ひどすぎる日本人の劣化。思いとどまらせる国民の意思が存在していたことが、まだせめてもの救いである。

平成27年8月20日(木)

本稿はオン草紙ブログを修正したものです。