日本人の気質

日本人の気質 補章・外伝

オン草紙
【外伝】五輪騒動に見る日本人の感性の劣化
(以下、敬称略)

 2020年の東京オリンピックについては、けちの付き通しである。新国立競技場のごたごた、そして五輪エンブレムの盗用騒ぎと、せっかくの招致成功も台無しである。
 各関係業界内での派閥力学、敵対関係とでも言うのか、そんな内部事情も大きく関係しているようであるが、それはとりもなおさず前回1964年(昭和39年)の東京オリンピックで見せた、日本人が一丸となって開催に力を合わせた姿とは真逆とも言えるものである。大きくいえば、これも日本人のここ20年に及ぶ劣化の現れなのかもしれない。ブラジルのメディアは、ここぞとばかりに「日本はデザイン力も(建築の)技術力も無い」と酷評したようだが、とんだ赤っ恥である。

 この二つの騒動に共通する日本人気質の問題点として「外来崇拝」を指摘した。(「【外伝】五輪騒動に共通する外来崇拝)この時は、個人攻撃になるような事については深く立ち入らなかったのだが、ここに改めて取り上げてみたいと思う。二つの問題は、ともにデザインが絡んでいる。それは指摘した外来崇拝の気質よりも、より深いところの感性の問題でもある。それだけ深刻な問題だとも言えるだろう。


 あらためて騒動と気質について書く気になったのは、いくつかのコラムや報道がきっかけである。順に見ていこう。
 一つ目は、英国在住イラク人建築家ザハ・ハディッド(ザハ・ハディドとも表記)がデザインした新国立競技場について、建築ジャーナリストが書いたコラムである。(*1)題名からもその立場がよくわかるので、その内容をどこまで信頼するかはさておき、東大の派閥争いを中心に詳細に書かれている。そこにさして興味はなく、注目したのはザハ案支持派の変節について書かれた部分である。長いので、結論部分だけを取り出すことにしよう。

 『安藤忠雄氏を分析すると、自分がつくった2016年オリンピック案の環境重視ポリシーとザハ案は真逆です。また鈴木博之氏を分析すると、自らのライフワークである地霊(ゲニウス・ロキ)尊重というコンセプトとザハ案は真逆です。次に内藤廣氏を分析すると、自身の出発点になり、その後も貫いてきた「海の博物館」の穏やかさとザハ案は真逆です。まさに論理の破綻、総崩れとしかいいようがありません。』

 鈴木、内藤両はともに東京大学名誉教授で、新国立競技場国際デザインコンペの審査委員である。審査委員長でザハ案を決定した当事者の安藤忠雄については、『逃げる建築家』で遅すぎた釈明会見ではさらにゼネコンに責任を転嫁するかの発言に、
『自分が責任を取るのではなく、逆にゼネコンに押しつけようとした安藤忠雄氏の言動にふさわしいのは、「東京大学反面教師」という称号ではないでしょうか。』
とまで書いている。ま、これはあまりここでの論議には関わりがない。強いて言えば、サムライとはかけ離れた卑怯未練な気質とデザインなどの才能とは、関係が無いと言うことを端的に証明してくれたと言うことであろう。(「日本人の気質 第7章日本社会の特徴や問題の裏にある気質 能力と人格の混同」参照)

 このコラムから見えてくる寒々とした風景は、選者達の自らの主張を曲げてまで外来デザインを推そうとするくくりへの病的撞着と、日本人が当たり前に持っている景観との調和の重視という感性が失われている事によるのだろう。

 新国立競技場についての一般国民からの強い批判は、単にコストが高い、やり方がいい加減だからというだけではあるまい。そんな事は公共事業でいやと言うほど経験しており、さして盛り上がるものでは無い。やはり東京オリンピックという日本全体、日本人全体の関わる出来事にケチが付きすぎていること、そしてザハ案が景観を損ない、神宮の森を破壊するとんでもないものだと言うことが、次第にわかってきたからであろう。
 IT技術の進歩のおかげで、発表された建物だけの図では無くて、それを実際の地形の上に重ねた図、周辺近くから見た図などが簡単にネットで見られるようになった。何も無い砂漠の真ん中にあの巨大な建物だけがあるのならば、それはかっこよくすばらしいものかもしれない。(**)だが、日本の狭くて足の踏み場も無いようなところに、巨大で周囲と全く調和しないグロテスクなものが、周辺の緑を壊してふんぞり返る。そんな光景は、日本人の感性には全く合わないものである。それが、ようやく理解されたのだろう。

 それにしても、はじめから敷地に収まらず(公募条件を逸脱しているとの指摘もある)、周辺の道路や緑を破壊しなくてはならないようなものを、どうして審査員や関係者は選んだのであろうか?「デザインのコンペで建築費は知らない」といっていたが、大きさはいくら何でもデザイン以前の問題であろう。それを無視するという感覚は、いかに高名な先生方や優秀な官僚達でもあまりに不自然である。はじめからこれを選択したい別の理由があったのか、それとも本当に、基本の基本も忘れるほど老化していたのであろうか? 
−JSCの隠蔽工作?
 いずれにせよ、指摘したいのは、コンペの審査に関わりザハ案を推した専門家、JOC、JSCなど関係者、文科省官僚は、神宮の森の環境下ではいかにグロテスクであるかという事を感じる日本人としての感性を失っているのでは無いかという点である。
 建築家やデザイナーと呼ばれる専門家の視線が常に上からの視線では無いのかについては別途書きたい。



 つぎは、五輪エンブレムのデザイナーについて、騒動の原因を指摘するコラムである。(*2)

 『結論を先に述べると、いまだに騒ぎが収まりそうにない今回の騒動の本質は、パクリではなく、佐野研二郎というクリエイターの本質と、日本社会の伝統的な美意識の「対立」なのではないかということである。つまり、多くの人が考える「日本人のクリエイティビティに対する感覚」というものに対して、「佐野氏のクリエイターとしての感覚」が真っ向対立しているところに、今回の騒動の根本的原因があると思われるのだ。こんな人間が日本を代表するクリエイターだと評価させていいのか――。執拗に佐野作品の疑惑を追及する人たちの本当に怒りはそこにあると思う。』
 前述コラム同様に、書かれている内容そのものにはさして興味は無いのだが、彼らが知らず知らずに述べている日本人の感性に関わる事が気になるのである。

 最後は、今頃になってエンブレムの審査委員代表を務めたグラフィックデザイナーの永井一正が「原案はベルギーの劇場ロゴとは似ていなかったが、その原案を修正していまのデザインにした」という証言をした事である。単に自分たちが選出したデザインの書き手を擁護したかっただけなのであろうが、ここでも感性に関わる本質が見えてくる。なおその後、原案と言うのが発表されたが、各部品の配置だけで、本質は何も変わっていない。


 新国立競技場では、実際の現地に構造物をおいてみるととんでもないものである事が、視覚的に理解できた。同じように、五輪のロゴは、前回の東京オリンピックのロゴや今回の東京招致用ロゴなどという、具体的に比較可能なものがある。そうして、それらを比較したとき、今回の五輪エンブレムが日本人の持つ美意識に合っていないことがさらに強調されてしまったのである。好きか嫌いかと言えば、好きでは無いと言う部類に属すると多くの日本人が感じたのである。

ロゴと感性


 特定のデザイナー一人の事であれば、外来崇拝思考のなせる業で済んだかもしれないが、このロゴを選んだ専門家達は、さらに修正を加えたという。その時に、誰も日本人の美意識が働かなかったのであろうか?

 もう一度まとめるならば、今回の騒動においては、日本人の感性が大きく作用している。競技場であれ、ロゴであれ、どうして日本人の美意識にそぐわないものを、(ザハは日本人では無いからそれを求めないが)わざわざ選び、作成し、そして多くの専門家達がそんな作品を選んだのかという素朴な疑問である。結局、専門家と呼ばれるような人々のほうが、むしろ一般の日本人よりも日本人の感性を失っているように見える。そのことが恐ろしいのだ。
 さらに騒ぎが大きくなった理由のひとつには、純粋性や清らかなものを求めたいとする気持ちが、けちの付いたものを何とか排除したいという無意識につながったのであろう。これも感性が生んだ文化である。

 「日本人の気質」を書き上げた動機のひとつとして、日本人の感性がおかしくなり始めているのでは無いかという自分なりの危機感があったのだが、残念ながらそれが現実のものになりつつある事を示しているようで気分が重いのだ。

平成27年8月28日(金)

参考資料
(**)
sabaku
砂漠にあればかっこいいかな!?
(*1)「東大教授の正統性をかけた安藤忠雄「ザハ案」と槇文彦「良識案」の闘い」建築&住宅ジャーナリスト 細野透 2015年8月25日
(*2)「しくじり佐野研二郎氏に足りない「リスペクト」と「許される力」」ソーシャルビジネス・プランナー 竹井善昭 2015年8月25日