日本人の気質

日本人の気質 補章・外伝

オン草紙
【外伝】五輪「嫌われる人」東芝「悪経営者」
では済まない害毒

 東京オリンピック騒動は、実によくたくさんの話題を提供してくれる。それも日本人の気質で説明している内容に沿って、見事に映し出す実例を提供してくれるのだから、著者としては笑いが止まらない。いかんいかん、本音が出てしまった。

 外伝は基本的に、本文の説明内容や概念の具体的事例を書いている。今回の題は、すでに少し古くなったが「なぜかくも批判され嫌われる大会組織委員会の武藤敏郎事務総長のような人物が生まれるのか」である。なにせ「上から目線」会見を批判する文がネット上にあふれているのだから。

 たしかに会見を聞いているとまるで人ごと、自分には責任などない、お前ら一般人に何がわかるんだ、俺はネットリンチにあった被害者だ、そんな雰囲気を隠しもせず、いすにふんぞりかってマイクを握り長々と意味不明の説明(東大話法とも言うのだそうだが)を続ける。およそ謝罪しようとはみじんも考えていなかったのだろう。恐るべし!霞ヶ関官僚上がり!彼は日銀総裁になりそこねた財務官僚だとか。パチパチ..。
 もう一人の五輪騒動の立役者、東京五輪組織委員会の会長である森喜朗元首相とは30年来の仲だというから、やはり類は友を呼ぶのか、同じ穴の狢なのか、すごみまで一緒とか。やっぱりね。

 五輪関係者だけでは役不足なら、世界に日本の特異性をまたもや喧伝してしまった東芝の歴代社長をいれてもよい。この三人の悪代官も害毒を企業内だけで無く社会に振りまいたのであるから、取り上げられる資格は十分である。

 などとふざけていて済むほど事は簡単では無い。こういう集団農耕型気質の典型的な人間たちが、国の方向性を誤らせ、社会を停滞させ、格差を生み出し、日本を破滅へと導くのだから。こういう人間は、どこにでもいる。だが、こういう人間に本当の責任をとらせようとしない集団農耕型の身内意識(くくりの防衛といっても良い)を何とかしないと、日本は大変な事になるだろう。




 本文をよく読んでいただいた人には、説明も不要であろうが、もう一度、この人物等に投げかけられている批判と気質についてまとめてみよう。集団農耕型気質の人間がくくりへの病的な撞着をしたとき、個人の病理としてだけでは済まないさまざまな弊害を社会にもたらす社会病理とも成る。そしてそれは、現在の日本社会のあらゆるところで起きている事を理解してもらいたいので。

 日本人には少数派の孤高武士型気質の人と、大多数の集団農耕型気質の人がいる前提で話は進んでいくので、詳しくは本文を参照されたい。
 くくりの定義は繰り返さないが、この例では五輪組織委員会や東芝ととらえてもらえればよい。さらにもう少し広げて、たとえば五輪の各問題に関わった関係者たち全体としてとらえても良い。
くくり

 集団の中でそこそこの権限を持ったり上位の立場になると、自らの影響下というくくりを我が物として扱うようになるのは、珍しくない。課長は課内(自らの影響下というくくり)では威張っているのだ。社長になればその会社全体が、自分のくくりとなる。五輪事務総長は、事務局とそれにぶら下がる種々の組織をまとめて自分のくくりだと考える。とくに官僚は、形式上の上位者を常に見下して、自分が実質的な権力者であるという認識を持つことが通例である。そのことが、さらに己のくくりをより強固なものに感じさせる。自分はかくれた力(実力、権限等)があるのだと。
自己占有感

 次第にくくりの自己占有感が高められ、撞着はより強くなる。自分の事を自分でどうしようとかってだろうという傲慢な考えがこうして生まれていく。くくりへの撞着とは、くくりに対して異常とも言えるような執着を持つことと解してくれれば良い。会社第一、会社は俺のもの、といえばわかりやすいだろうか。
 撞着が病的な状態になると、くくりと自己(自我)とが一体化して、その防衛や権力拡大のためには、くくりの外にある本来の目的や対象物が見えなくなる。そして、その行動がくくりの外の社会に大きな悪影響を及ぼすことにつながる。
くくり拡大

 くくりの自己占有感は、さらにくくりと自分との一体化にまで進む。会社と自分が同じものに見えるのだ。自己(くくり)の巨大化は、自己尊大感の増大とつながっているので、ますます傲慢に、独裁的になる。
 集団農耕型の人間がくくり内の頂点に立つとき、本来の目的やくくりの外を無視し、己のくくり本位の思考や行動を行うようになる。「新国立が3000億かかってもよいではないか」発言、東芝社長の「二日で何百億もの利益をどうにかしろ」発言、五輪エンブレムの修正を審査員たちには無断で事務局だけで行っていた、こういう言動はすべてその現れである。俗に言う「私物化」がわかりやすいかも。

自我組織

 くくりの自己占有感は、さらにくくりと自分との一体化にまで進む。自己(くくり)の巨大化は、自己尊大感の増大とつながっているので、ますます傲慢になる。
 集団農耕型の人間がくくり内の頂点に立つとき、本来の目的やくくりの外を無視し、己のくくり本位の思考や行動を行うようになる。「新国立が3000億かかっても好いではないか」発言、東芝社長の「二日で何百億もの利益をどうにかしろ」発言、五輪エンブレムの修正を審査員たちには無断で事務局だけで行っていた、こういう言動はすべてその現れである。
純化

 そして、そのくくりに同化しようとしないものを排除しようとする。くくりの純化である。言うことを聞かない部下を遠ざけたりやめさせるのは、これ。詳しくは後で述べる。

病的撞着

 さらにひどい状況になると、自分と一体化したくくりのなかで、己の欲望が最優先され、くくりもまた欲望自我のくくりとなってしまう。もはや、くくり自体が欲望の塊そのものと化してしまう。
 東芝社長は、経団連会長になりたいために粉飾をしたとも言われている。そこには企業というくくりは自己の欲望を満たすために自由に使える道具と化してしまう。自分の金ではない税金を自分たちの好きに使う五輪組織も、全く同じである。見栄や出世、自己満足という欲望のために、国民の税金が使われてしまう。

 恐ろしいのは、ここまで行くと、己のくくりそのものの存立まで危うくすることに気がつかない、いや気づいても自分だけは助かると考えて無視するところにある。粉飾をすれば、自分の大事なくくりである東芝そのものをだめにしてしまうのに、それをやめられない。官僚はもっとたちが悪い。五輪組織のくくりは時間が経てば無くなるからどうでも良いと考える。さらに国家公務員は国が無くならない限り安泰と考えているのであろう。

 こうして集団農耕型人間が権力を握るとき、戦前の軍部のようになる。自分たちのくくりの防衛のために国家を滅ぼし、国民を皆殺しにしてもかまわないと思うようになり、終戦を妨害し、本土決戦をやろうとするところまで進んでしまうのだ。
 政治家や官僚、公務員、既存組織の改革を邪魔する行動は、まさにこのような事につながっているとみれば、非常に理解がしやすいだろう。


 加えて、くくり内では権力闘争が異常なものになりやすい。東芝の三社長もみな東芝を自分のくくりと見なしている。それがひとつのくくりの中で成立するはずはあるまい。熾烈な権力闘争は、くくり以外のものをさらに見えなくしてしまう。戦前の軍部も、権力闘争がすさまじかった。



 では、そのくくり内の他の構成員はどうなのであろうか?

 くくりの純化として述べたように、くくりに同化しないものは、くくりから排除される。東芝だけでなく日本企業では、会社ぐるみとか組織ぐるみと言われる不祥事が多い。また、会社の体質などとも言われる。これらはみな、同じようにくくりの構成員の純化の結果であり、単に失業を恐れて何も言えないだけなのでは無いのだ。従順、横並び、お上に逆らわないなど、構成員の集団農耕型気質が大きく関係しているのである。
 それでも、東芝はじめ企業の不祥事のほとんどが内部告発によって露見していることを思えば、巨大組織なら孤高武士型の人間も存在しうるし、集団農耕型の人間でもくくりに完全に埋没しない人も出てくる。
 官僚組織や地方公務員などの悪事がなかなか表に出ないのは、その組織のくくりが小さく保たれていることにもある。霞ヶ関の官僚と言っても、全体では無くいわゆるキャリア組だけの、それも各省庁となればそれほど大きなくくりではない。
 また官僚のキャリアをはじめから目指していた、いわば同質の人間の集まりでもある。そこに自分たちは外の人間よりも偉いという不遜な優越感が、構成員たちのくくりへの服従を強化してしまう。

 だからこそ、官僚や種々の組織において同じ選抜方法による方式を重ねれば重ねるほど、くくりはそれ自体で強固になり、構成員が変わってもくくりは変わらないことになる。官僚的とか大企業病とか言われる諸問題は、そこに孤高武士型の人間を数多く入れない限り、くくりの純化という名のいびつな泥沼化が避けられないだろう。



  最後に、ではなぜ孤高武士型の人物は、このような病的撞着などを起こさないのであろうか?それはくくりの動的再編をする事が出来ている、自己よりももっと大きな存在、神と言っても自然と言っても、超越的道徳といっても呼び名は何でも良いが、そういう自律(自らを正しく制御)する強い規範を持っているからである。
 規範があればこそ責任を持つ意識も生まれてくる。くくりにおいて、自分が神である限り責任など考えもしないし、存在しないのである。厚顔無恥とよばれるほど、責任もとらずに平然としていられるのはこのためである。サムライならば、みなとっくに切腹して果てているだろう。詳細は本文を参照されたい。

亡国くくり

 いまの日本が、どちらの状況に近いのか、言うまでもあるまい。右図に合う実例がそこかしこにあるのは、あまりにも哀しい。


(参考)これらの概念に近いものは心理学ですでに色々と研究されている。逆にあまりにも複雑になっているので、敢えてすべて無視したとご理解いただきたい。本文第4章に「「くくり」概念と心理学用語の関係について」を記した。

平成27年9月9日(水)