On草子

ラブコメ 一緒に死んでよ

ラブコメ

第1章 出会い

 夕暮れ時、陽はすでにビルの谷間に隠れていた。道幅の広い通りは坂になっていた。
その坂を下ったところに地下鉄の駅が有る。駅から東に広がる地域には、昔ながらの古
いビルの立ち並ぶ一角があった。
 その中の、とあるビルの屋上にふたりの人影がみえていた。若い男女が何か言い争い
でもしているようであった。
 古いとはいえ、十四階建てのビルである。屋上には転落防止用の高い柵などはなく、
コンクリートブロックで周囲をかこってあるだけだった。そこから、恐る恐る身を乗り
出して、下を覗き込む男がいた。

 「た、高い・・・」
 そう絞り出すように言うと男は、その場にしゃがみこんでしまった。
 「こわい。駄目だよ。やっぱり無理だ」
 男が振り向いた先には、若い女が立っていた。

 周囲のビルから洩れる明りやネオンなど、街の明かりだけが頼りの屋上では、お互い
の顔をはっきりと認識できたのかは定かではない。
 女に半ば哀願のまなざしをむけた男の腕をつかむようにして、女はそこに立っていた。
 「いまさら何を言っているの。いっしょに死んでくれると言ったでしょ」
 覚めた、淡々とした女の声が流れた。声の主である若い女は、男の腕をつかんだまま、
いまにもブロックを越えて進もうと、さらに男の袖を強く引っ張った。 
 「やめろ。い、いやだ。おれはいやだ! 」
 女の手を強引に振りほどくと、ようやく男は立ち上がり、屋上への出口となっている
中央の扉に向かって、そのまま小走りに駆けだしていた。
          ○
 東京の地図を広げると、中央に緑の部分が広がっている。言わずと知れた、皇居の森
である。その皇居の北側、頭のように少し突き出たところが北の丸公園だ。ここには有
名な日本武道館や科学技術館などがあり、一年中多くの人でにぎわっている。北の丸公
園に面した堀が千鳥が淵で、桜の名所としてつとに有名な場所である。
 武道館を出て前の道を少し行くと、昔の立派な、それでいてどことなく親しみが感じ
られる城門がある。それをくぐって、すぐ道なりに左に曲がると、皇居の外へとつなが
る門に行き当たる。そこはお堀をまたぐ橋になっており、ここが田安門である。少し坂
になった橋を渡ると広い道路にぶつかる。それが靖国通り、いや正確には、まだ内堀通
りである。
 その道路は、結構急な坂道になっており、左手に向かって登っている。道路の反対側
をみると、すぐ左手には靖国神社が有り、そこから先が靖国通りである。そう、内堀通
りに靖国通りの一部が重なっているのだ。
 それはさておき、こんどは反対の右手に坂を下ると、すぐに大きな交差点がある。武
道館や靖国神社を出た人の波は、そのほとんどがこの交差点にある地下鉄の駅へと吸い
込まれていく。新宿線、東西線、半蔵門線の地下鉄三路線が乗り入れている九段下駅だっ
た。
 九段下界隈は、皇居が近いこともあり、新宿のような高層ビルはないが、昔からのオ
フィースビルが数多く集まっていた。神田寄りのそんな一角に、佐々木敬介が勤める中
堅商社、阿久紅商事のビルが有った。
          ○
 佐々木敬介は、ちょうど帰り支度を終えて、事務所を出ようとしていた。広いオフィ
ースにはまだ何人か残っているようであったが、彼の机の周りにはもう誰もいなかった。
 そこに電話が鳴った。みると内線のランプが点滅していた。近くの机で受話器をもち
あげた彼の耳に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
 『屋上に誰か出ていないかみてくれませんか』という、保安室から時々かかってくる
電話であった。彼のいる場所はビルの最上階にあり、屋上に出るための非常階段にも近
いところにあった。屋上は非常時以外は一応出入り禁止なのであるが、昼休みなどに外
にでる人も少なくなかった。屋上に出る扉は中から鍵がかけられるので、人が外に出た
まま鍵をかけてしまい、締め出される人間がたまにでたりしていた。そんなことで敬介
の部門には、ビルの保安室からよく電話が入るのであった。
 これから飲み会なのに面倒だなと思いつつも、口では快く承知して電話を切った敬介
が、廊下の奥にある非常階段から屋上に向かった。

 踊り場から屋上に出る扉は開いていた。そこから外に出ようとした敬介の脇に、若い
男が飛び込んできた。あやうくぶつかりそうになったが、男はあやまりもせず視線を避
けるようにして、そのまま非常階段を駆け下りていった。何かあったのかなと思いなが
ら、屋上に出てみた。
 男と入れ替わりに屋上へ出た敬介の耳に、若い女の声が聞こえてきた。
 「ひきょうもの。うそつき。いいわよ、それなら私一人で死ぬから」
 どうやら、逃げ出した男の背中に女が罵声を浴びせているようであった。
 敬介はその声のするほうへと、屋上をゆっくりと歩いていった。片隅で若い女がコン
クリートブロックをまたぎながら、地上をのぞきこんだり、やめたりしながら何かぶつ
くさとつぶやいていた。
 「死んでやる。いいわよ。私一人でも、大丈夫なんだから」
 本来なら、ただ事ではない場に居合わせてしまったはずなのだが、敬介にはなぜかあ
まり深刻な事態に感じられなかった。
 恐る恐る頭を出して下をのぞいていた女は、(やっぱ、高いな。一人じゃ無理かな)
と自問自答していた。
 敬介は、ゆっくり女に近づくと「あのー」と声をかけた。
 「わ!」
 ビクッと身体を震わせた女があわてて身をひいたので、敬介は反射的にその腕をつか
んでいた。きゃしゃな、か細い腕だった。
 「びっくりした。驚いて落ちたらどうするのよ。死んじゃうじゃない」
 か細い腕とは裏腹に、威勢のいい声が返ってきた。
 (いま、死のうとしてたんじゃないの)と思いながらも、ひたすら丁寧に詫びを入れ
た。
 「すみません。驚かして。もうしわけありません。大丈夫ですか」
 女はその言葉には何も答えなかった。まるで何事もなかったかのように歩きだすと、
屋上の中ほどに戻ってきた。敬介は黙ってその後をついてきていた。
 大きめのバックがおいてある場所で立ち止まると、小さくひとつ溜息をついたようだっ
た。かがみこんでバックに両手をかけると、今度は、ぽつりとつぶやいた。
 「おなかがすいたな」
 敬介にはその声がやけに大きく、まるで自分に聞かせているように思えた。そして、
その声を聞いた瞬間、彼は自分でも思いがけない言葉を発していた。
 「もしよかったら、これから飲み会が有るんですが、ご一緒していただけませんか」
 自分がまさかこんな形で女性を飲みに誘うなどとは、考えてもみなかった敬介である。
 「同伴相手の女性がいなくて。お手間は取らせません。あ、会社の仲間内ですから、
遠慮はいらないですし、いろんな方も参加しますから・・・」
 熱心に口説きながら、そんな自分に敬介自身が一番びっくりしていた。女は誘いの言
葉にはなんの反応も示さずに、そのまま屋上の出口に向かって歩き始めた。
 敬介はそれを追いかけながら、自分でもあきれるほどしつこく誘いの言葉を女に投げ
かけていた。
 扉のところで、ようやく女が口を開いた。
 「お金、ありませんので」
 それだけいうと階段の踊り場から、さっさと非常階段を降りて行こうとした。
 「それなら心配しないで。誘ったんですから、当然私がだします」
 女が少しだけ関心を示したようであった。歩みが止まった。
 女はもう一週間近く、ほとんど食べ物を口にしていなかった。派遣切りのあと、なか
なか次の職も見つからず、しまいには、いわゆる追い出し屋に部屋を締め出され、この
一週間は、深夜カラオケなどを転々としていたのだった。さすがに女として泊るところ
を優先したため、なおさら食事にまで金が回らなかったのだ。
 けっして人に物乞いをしたり、軽々しく男の誘いに乗るような女ではなかった。それ
でも疲れ切った身体と空腹感が、女の足をふと止めさせたのだった。
          ○
 階段の踊り場で、女はあらためて敬介のことを見た。スマートな体形で、とても女に
持てないタイプにはみえなかった。さりとて女の身体目当てに、片っ端から声をかける
ような男にも見えなかった。
 ここぞとばかりに敬介は、彼女を踊り場から事務所のある廊下への扉にいざなった。
女はおとなしく敬介に従って、非常口から廊下へと入っていった。
 敬介は廊下の端で「すぐ戻るから、ここで待っていてください」と声を残したまま、
急いで事務所の中へ消えていった。
 急いでカバンをつかみ、すぐさま戻ってくると、幸いなことに女はそのままの場所で
立っていた。敬介は明るいところで、初めて女の顔をまともに見た。
 いわゆる美人タイプというより、どちらかといえば可愛いタイプであった。髪は肩口
に少しかかる長さで、額にかかった髪は少しウエーブしていた。歌舞伎のくまどりのよ
うなパンダ眼の化粧でも、厚化粧でもなかった。ブランド物で身を固めているわけでも
なく、だからといって、負い目を感じさせる田舎出の感じはまったくなかった。むしろ、
すっきりとした、どこか清楚な感じが全身から漂っていた。
 それにしても若い、とにかく若さが可愛さとなってにじみ出ていた。
 女性は、付き合っているうちに、だんだんと相手の男性を好きになるという。それに
対して男性のほとんどは、女性に一目ぼれするという。このときの敬介も、そうだった
のかもしれないが、まだそこまで自分の気持ちに気づいてはいなかった。
 ただ、廊下に立ちつくす彼女を見たとき、これほど可憐な清楚という言葉が似合う女
性がいまどきいるのかと、思わず息をのんだのは事実であった。
 彼女の元に近寄ると、おずおずと声を発した。
 「あの。佐々木敬介といいます。どうぞよろしく」
 敬介の言葉に黙って深々と頭を下げた女は、顔を上げるとほんの少しはにかんで言っ
た。
 「私、木下薫です。よろしくおねがいします」
 先程までとは打って変わって、ずいぶんと女らしさを感じさせる言葉遣いだった。
 「かおるさん、ですね」
 同じように頭を下げながら、敬介は確認の言葉をうれしそうに投げかけた。
 「じゃあ、行きましょうか。この近くですので」
 バッグを持とうとする敬介に、薫は首を軽く横に振ると自分で持ち、黙って敬介と並
んで歩きだした。

          ―――○○――― 

 ふたりは無言のままエレベータに乗り込むと一階に降りた。敬介は薫を伴って、社員
通用口の脇にある保安室に立ち寄った。保安室をのぞいた敬介は、顔見知りの保安員を
みつけて「屋上はなんでもありませんでした」と告げてから、ふたり揃ってビルを出た。
 九段下からは、市ヶ谷や飯田橋はもちろん学生の街でもある神保町も、すぐ目と鼻の
先である。その気になれば、そこからさらに足を延ばしてお茶の水界隈まで行くのもそ
れほど遠い距離ではない。つまり、飲食店には事欠かないのである。むしろありすぎて、
どこに行くか決めるのに迷う場所にある。
 飲み会の店までは、歩いて十分たらずだった。その短い道すがらで、敬介は自分が中
堅商社に勤めること。今日の飲み会は、会社の人間はもちろん取引先や自分の彼女まで
色々な人間が気楽に集まる場で、不定期に行われていることなどを説明して、薫の気持
を楽にさせようとした。薫は、敬介の遠い親戚ということにすることも伝えた。
 そうこうするうちに、ふたりはありふれた店構えのダイニングバーに着き、そのまま
並んで中に入った。
 広めの貸切の部屋には、すでに多くの男女が思い思いの場所に座っていた。緊張して
すこし落ち着かない様子の薫は、だまって促されるままに敬介の隣に座った。
 商社ではとりわけ情報が命だった。中堅とは言え、非正規を含めて千人を超える社員
がいると、社内の情報をつかむこともかなり重要になってくる。もっとも、参加者の半
数近い女性を始めとして、ほとんど婚活が目的の参加者も多かった。それだけに、自由
で活気にあふれていた。
 敬介が薫を誘った理由の一つには、その婚活活動に熱心な女性たちから自分の身を守
ることがあった。同期の連中と、落ち着いて話をしたいと思っていたのだ。
 とはいっても、無理やり連れてきた薫の事が気になり、料理や飲物など色々と気を使っ
て世話を焼いた。しかし薫はウーロン茶を飲みながら、目の前の小皿にたまに手を伸ば
すだけだった。やはり知らない人間ばかりの緊張感と場違いだという想いが、薫を委縮
させていた。もし、敬介が熱心に世話を焼いていなければ、とうに席を立っていたかも
しれなかった。
 そんな彼女が、あるきっかけで大きく変わった。
 少し遅れて一人の男が、敬介の隣に半ば強引に割り込むようにして入ってきた。
 座るなり男は、薫に気がつくと敬介に向かって
 「あれ、女性同伴とはめずらしいな。紹介しろよ」と言った。
 「こちら、おれの遠い親戚で、木下薫さん」敬介は、そう言って彼女を紹介した。
 「木下です。はじめまして」
 「吉川です。よろしく」
 彼は敬介と同期入社で、人事部門にいる吉川博之であった。敬介とはとりわけ馬があ
い、こうして時間があれば情報交換をするのが常であった。吉川は、敬介が女性同伴だ
と知ると、さらにテンションが上がった。自己紹介を終えると、積極的に薫に話しかけ
ていった。
 しばらく他愛もない会話が続いた。薫は大して気乗りもしていなかったが、敬介の手
前できるだけ話を合わせていた。
 ひとしきり薫と話をした後、グラスを飲みほした吉川が新しいのを注文しながら、よ
うやくいつものように愚痴をこぼしはじめた。
 「あのお局様には、ほんとまいるよ。また急に派遣がやめたんだ。これで何人目だよ!
  少しばかり仕事ができるからといって、どうにかしてほしいよな」
 「またやめたのか」
 「補充するこっちの身にもなってほしいよ」
 「しかたないさ。それが人事の仕事じゃないか」敬介が軽口を言った。
 「そうだけど。とにかく急いでまた女性を一人見つけなくちゃならない。派遣会社に
  頼むだけとは言っても、決まるまで面接やら何やら時間ばかり取られる。まったく、
  まいるよ」
 それまで、きいていただけの薫が、恐る恐る会話に入ってきた。
 「派遣の方を募集なさるんですか」
 吉川は薫を見ながら「木下さんの様な人がきてくれると、うれしいんですけどね」冗
談とも本気ともつかずにそう言った。
 「わたしでも、かまわないのでしょうか?」
 エッという顔をして、吉川は敬介のほうをみた。そんな薫を見ていた敬介には、彼女
の必死さが痛いほど伝わってきた。
 「彼女、田舎の会社を辞めて出てきたばかりなので、これから職探しなんだ」
 「そうか。いや、本当に来てもらえるのなら助かるけど」半信半疑で吉川は答えた。
 「私なんかでも務まるでしょうか」心配そうに薫が聞いた。
吉川は軽く手を振りながら
 「ぜんぜん問題ありませんよ。簡単な営業事務の補助ですから。問題は、お局さまか」
と言葉を濁した。
 「職場にちょっと癖のある人がいるんだ」敬介が代わりに言った。
 「私、色々な職場を経験していますので、どんな方とでも大丈夫です」自信ありげに
言った。その言葉に嘘はなかった。彼女はこれまで誰とでもうまく話を合わせて来れた。
というか、実は他人の事など全く気にしない女なのであった。
 その言葉で決心がついたのか、吉川は、「わかりました。では、さっそく月曜日に私
のところに来てください。そこで詳しいお話をしましょう」と真面目な顔つきで言った。
 「はい。よろしくお願いいたします」薫の顔に急に赤みがさして来た。
 「じゃ、乾杯しよう!」敬介が嬉しそうにグラスをもちあげた。
 思わぬことで仕事の口が見つかった薫は、これまでの緊張から解放されて、別人のよ
うになった。ほとんど手をつけなかった料理にも箸をつけ、自分から注文をするほどで
あった。ようやくほっとした敬介は、薫から眼を放して同僚などとの会話に熱中していっ
た。
 明るさを取り戻した薫のもとには、若い男が次々と寄ってきては、ちょっかいを出し
てきた。気がつくと少し離れたところで、男性陣に囲まれながら次々と勧められるお酒
を飲んでいる彼女がいた。
 多くの若い男性が、薫にメルアドや電話番号の交換をしようと、携帯電話を持ち出し
てきた。そのたびに、薫は指で突っつくようなそぶりで、敬介のほうを指差した。薫に
すれば、敬介がいるところではまずいという意味だったのだが、周囲はやっぱりふたり
はそういう関係なのかと、勝手に勘違いしていた。
 もっとも連絡先を交換しようにも、この時の彼女は携帯電話も持っておらず、おまけ
に連絡先などなかったのだが。

          ○
 話に夢中だった敬介がふと気付くと、ほとんどの人間はすでに帰って部屋はがらんと
していた。あわてて薫の姿をさがすと、いつの間にか敬介の隣に戻って机にうつ伏した
まま眠っていた。無理やり起こして、吉川とふたりで抱えるようにして外に連れ出した。
タクシーを停めて薫とふたりで乗り込んだ敬介は、吉川に窓越しで礼をいった。むろん
薫の仕事の件である。
 敬介がマンションの住所を告げると、タクシーは静かに走りだした。疲れとお酒のせ
いで、薫はすやすやと気持ちよさそうに眠っていた。マンションに着いても、よほど疲
れが出たのか、いくら起こしても起きようとはしなかった。
 しかたなく運転手に手伝ってもらい、薫の体をタクシーの後部座席から敬介の背中に
移すことにした。おぶってしまう以外に方法がなかったのだ。薫を背負い、運転手から
バッグを受けとると、敬介はエントランスにむかってよろよろと歩きだした。
 (俺だって、飲んでいるのに。それにしても何でこんなに重いんだ)盛んにぼやいて
いた。
 エントランスにあるオートロックの扉は、幸いノンタッチキーで、上着のポケットに
しまったままのキーを近づけるだけでも簡単に開いた。
 (こんなところを誰かに見られたら)と思いつつ、エレベータホールでようやく来た
エレベータに乗り込んだところ、後ろから人の気配がした。振りかえると、見覚えのあ
る顔が乗り込んできた。一瞬、体がこわばって声が出なかった。
 「あ・・こんばんは」敬介はようやく小さく叫んだ。
 「こんばんは」
 鈴を転がすという形容が似合う、落ち着いて涼やかな声がエレベータの中に広がった。
声の主は敬介と同じ階に住む住民で、敬介がひそかに好意を寄せている北園絵梨だった。
しばしの沈黙の後、彼女が乗降階のボタンを押した。
 静かに動き出したエレベータのなかで、彼女は冗談とも皮肉ともつかない口調で言った。
 「大きなお荷物ですね。大変でしょう」
 「あ、これは。いや・・・その」
 しどろもどろの敬介であった。
 「妹が飲みすぎちゃって・・・」 
 背中で、「むぎゅー」と、つぶれた豚の鳴き声のような音がしたようだ。
 「妹さん・・・ですか」
 さらに何か言いたそうな彼女に、敬介はあわてて話題を変えようとした。
 「北園さんも、今日は飲み会ですか」少し上気した彼女の顔を見ながら聞いてみた。
 「接待にかりだされてばかりでいやになります。接待のお酒はおいしくないですから」
 すこし顔が曇ったようで、それがまたこの美しい人にはよく似合っていた。
 (では、今度ご一緒に)と口から出かかったところで、チーンという音がしてエレベー
タのドアが開いた。
 彼女は、『開』のボタンをおしたまま、「どうぞ」とうながした。
 「ありがとうございます」
 敬介は、背中の荷物が落ちないように、もう一度背負いなおした。
 彼の部屋の前まで来た時、彼女はごく自然に聞いてきた。
 「鍵はどこですか?どこに入っています」
 「背広の右ぽけっとです」少し驚いたが、すぐに恥ずかしそうに答えた。
 彼女は黙って近づいてくると、そのきれいな細い指先を、敬介の背広の右ポケットの
中に滑り込ませた。なんともいえないよい香りがした。これこそ(美女の香りだ)と敬
介は思った。
 ドアを開けると鍵を再び敬介のポケットに戻してきた。こんなに間近で彼女と接する
のは初めてであった。彼女は半開きのドアを手で押さえながら「はいどうぞ」とおどけ
て手を出した。
  敬介は背中の荷物のことも忘れて、部屋に入りかけながら大きく身体を前に倒して
お礼を言った。また背中でつぶれた豚の鳴き声がしたようだった。それをきいて、彼女
が一瞬「クスッ」と笑ったような気がしたのだが。
 敬介が玄関に入るや否や「おやすみなさい」と言って、すぐにドアは外から閉じられ
てしまった。

 いつもは挨拶だけで話らしい話もしたことがなかったのだが、おもいがけず絵梨と口
を聞くことができた敬介は有頂天になっていた。それでもようやく、忘れていた背中の
重さが少しずつ戻ってきた。
          ○
 便利な時代である。真っ暗な部屋に入って云々というのは、もはや一昔前の話である。
玄関も廊下の灯りも人感センサーがついているので、手を触れなくても人の気配で自動
的に明るくなる。そのまま廊下をとおって、リビングのソファーまで薫を運んだ。部屋
のシーリングライトには人感センサーは着いていなかった。敬介は薄明かりの中で、ソ
ファーに背を向けてゆっくりと腰をかがめると、ようやく背中の荷物を下ろした。
 「ふー。重かった」
 忘れていた重さを思い出してつぶやく敬介だったが、またもやつぶれた豚の鳴き声が
した。それにはかまわず、薄明かりの下で薫の靴を脱がせると、それを玄関までもって
いった。
 敬介は玄関のカギをロックすると、そこにはまだ先程の絵梨の香りが残っているよう
に感じられた。その残り香をしばし楽しみたかったのだが、そうも行かなかった。
 部屋にもどってみると驚いたことに薫は起きていて、ソファーのうえで大きく腕を上
げてのびをしていた。
 「大丈夫」
 敬介は声をかけながら、冷蔵庫から巡茶のボトルとコップを二つもってきた。
 「これでいい?」もうコップに注いでいる敬介の手元を見ながら、薫は
 「なんでも」と答えた。そして、
 「ありがとう」とコップを受け取ると、それを一気に飲みほした。
 薫はおいしそうに飲みほしたコップを片手に、「いい」と聞きながらもう片方でペッ
トボトルをつかんでいた。
 「どうぞ」
 敬介はこんな何気ないやり取りをしながら、こんな感覚は久しぶりだなと感じていた。
が、すぐに「どうする?これから帰る?送ってもいいけど」と一応聞いてみた。
 「帰るところないもん」あっけらかんとした答えが返ってきた。
 敬介もそれ以上は詮索しなかった。幸いひと月ほど前に出て行った妹の部屋が空いて
いた。薫を妹が使っていた部屋に案内して、
 「何もないけど、ベッドだけはまだ残っているから、これを使って」
 それだけ言うと敬介は一度部屋を出て行った。
 バッグを机わきの床に置くと、薫はベッドの縁に腰かけてスプリングを確かめるよう
に腰を揺らした。そこへ、パジャマとタオルなどを手にした敬介が戻ってきた。
 「男ものだけど、ちゃんと洗濯してあるから」と『ちゃんと』の部分だけ強調した。
 「それから、シャワー浴びるならこれタオル」とそれらをベッドの上に置きながら、
 「他に何かいるものある」と、眠そうな薫に聞いてみた。
 「おなかいっぱい。たべすぎちゃった」あどけない顔つきで答えた。
 「胃薬、消化剤ならあるけど、飲みますか」
 敬介の親切に、薫が眼をむいた。
 「せっかく食べたのに、消化するなんてもったいない」
 敬介はこんな薫とのやり取りにもだんだん慣れてきた。笑ってそのまま部屋を出て行っ
た。
 一人になった薫は、新しい敷布の上からベッドの匂いをかぎはじめた。まるで犬のよ
うに、枕もとのあたりを中心にクンクンと嗅ぎまわっていた。
          ○     
 ようやく緊張から解放されたせいか、敬介も急に酔いが回ってきた。自分の部屋に入
るなりそのままベッドにもぐり込んだ。
 夜中にのどが渇いて眼が覚めた。キッチンにでてくると、妹、いや薫の部屋から明り
が洩れているのが見えた。気になった敬介が、ドアを少し開けて中をそっと覗いてみた。
 ベッドにいるはずの薫の姿が見えなかった。よく見るとベッドわきの床の上で、毛布
にくるまった薫が転がっていた。胎児のように背中と両足を丸めて、ベッド側に顔を向
けて寝ていた。
 敬介は足音を忍ばせて、部屋の中に入って行った。
 薫のそばでしゃがみこむと、まるで兄が妹に言い聞かせるように小声で言った。
 「こんなところで寝てたら身体が痛くなるだろ。ちゃんとベッドで寝なさい」
 いいながら、薫の身体の下に腕をいれて持ち上げようとした。動かない人間を床から
持ち上げるのはかなり力がいるものである。少しふらつきながらも、それでも何とかベッ
ドの上に寝かせることができた。
 「ふー」と一息つくと、薫の顔を覗き込んでみたが、眼を覚ましていないようである。
 「おやすみなさい」小さく言うと、明りを消して部屋を出て行った。

 暗闇の中で薫は眼を開けた。
 敬介が部屋に入ってきたとき、すでに薫は眼がさめていたのだった。長い間、まるで
戦国武将のように緊張した生活を送ってきた薫は、ほんの些細な気配でも眼をさますよ
うになっていたのだった。 薫は眼を閉じたまま身体を固くしていた。同じ屋根の下に
男と女、しかもいま薫は圧倒的に弱い立場である。どうしようかとくだらない考えが、
脳裏をよぎったのも無理からぬ事であった。薫は目をつぶり少し体を硬くしたまま、な
されるままに身を任せていた。

 敬介が部屋を出て行った後、ベッドの上で眼を開けた薫は、しかしすぐにその眼を閉
じた。つまらないことを邪推した自分を恥じながら、そのまますぐに深い眠りに落ちて
行った。その眠りはかって母親と暮らしていた時以来、何年振りかで味わう安らぎに満
ちた深い眠りであった。

          ―――○○―――

 翌朝、窓から差し込む朝の光が、薫の穏やかな眼ざめを誘った。
 昨夜はあれから夢もみず、ずいぶんぐっすりと寝込んだようである。あわてて起き上
がると、ベッドから降りてドアをそっと開けてみた。すでにダイニングテーブルのイス
に敬介が腰をかけていた。薫に気がついた彼は、なんとなくばつの悪そうな少しはにか
んだ表情で「おはよう」と声をかけた。
 「おはようございます。すみません、寝坊して」
 「今日はお休みだから、もっとゆっくり寝ててかまわないよ」
 敬介の親切心からでた穏やかな声であった。
 顔を洗って身支度を簡単に整えた薫は、おずおずと敬介の向かい側に座った。この時
から、ここがふたりのかわらぬ定位置となるのであった。
 「昨日は大変お世話になりました。お仕事までご紹介いただき、夢のようです」
 丁寧に頭を下げる薫を見ていて、無性に照れくさいのと、よそよそしくて別人みたい
だなと感じていた。
 「おなかすいていない?」
 何を話せばいいか戸惑う敬介は、いきなりそんなことを聞いた。
 「はい」笑顔と明るい返事がかえってきた。
 (昨日あれだけ食べたのに)と思いつつも「何もないけど、パンでいいかな?」と尋
ねた。
 「はい」
 なんとも嬉しそうな薫を横目に、敬介はキッチンに立った。
 「ねえ、卵は目玉、それともスクランブル。どっちがいい」
 「大盛りでお願いします」
 早くも漫才コンビのようなふたりの会話が始まっていた。
 薫の返事に笑いながら、ならばと考えた敬介は両方を作って、目玉焼きの上にスクラ
ンブルエッグをのせて山にした。ほかに有り合わせのハムと解凍したブロッコリー、ハッ
シュドポテトを一つの皿に盛って出来上がり。あとは、ミルクとオレンジジュース。ど
こにでも見られる、簡単なコンチネンタル・ブレックファーストであった。

 敬介は、朝食を盆にのせてダイニングテーブルに戻ってきた。
 「お待ちどうさまです。大盛りのお客様は・・」
 おどけて言う敬介に、薫が右手を挙げて答えた。
 「はい、わたしで〜す」ようやく、打ち解けた薫が戻ってきた。
 「すごい。朝からこんなごちそうなんて」
 けっして嫌みでもなんでもなく、彼女の眼は輝いていた。
 向かい合って座ったふたりは、両手を胸の前で軽くあわせると、声もあわせていた。
 「いただきます」
 ふたりのはじめての朝食が始まった。
 薫はトーストを手に取ってバターを塗り始めた。続いてジャムを手にする。バターと
ジャムを混ぜて塗るのはさして珍しくもない。が、彼女は違っていた。よくみると、トー
ストの半分にバターを、残り半分にジャムを塗っていたのである。そしてその食べ方も
またユニークであった。バターの部分を一口食べると、今度はジャム側と交互に食べて
いった。
 最後に、一片のパンの耳だけが残った。それをお皿の真ん中に置くと、視線をそこに
落としたまま、ゆっくりと抑揚のない声で言った。
 「はちみつ・・・ハチミツありますか?」
 ちょっと身構えた敬介は拍子抜けした。
 「たしか、あるとおもうよ。まって」
 戻ってくると、ハチミツの瓶とスプーンを彼女の前に差し出した。軽く頭を下げた薫
は、嬉しそうにスプーンでハチミツをすくい出すと、お皿の真ん中でのさばるパンの耳
の上に運んだ。はじから見事に、パンの上にだけハチミツを垂らしていった。
 ハチミツをつけたパンの耳を食べながら、初めて薫が身の上話を始めた。それはおお
よそ、こんな内容だった。
          ○
 薫は、長野県のとある山間部に近い村で生まれた。父親は、下請けではあったが人も
何人か雇って建設会社を営んでいた。しかし薫が生まれたころからバブル期も終焉を迎
え、ついには、はじけることとなる。それでも、なんとか公共事業などで食いつないで
いたが、それも次第にじり貧となって行った。ついに会社は倒産した。それを境に父親
は、首都圏へ出稼ぎに出ていった。
 初めの数年は、それでも父親からわずかな仕送りが有った。それも次第にとだえて薫
が小学校の高学年に成るころには、父は行方知れずとなっていた。それからは母が女手
一人で薫を育てることになる。田舎は物価が安いとは言え、逆に現金収入の道もほとん
どなかった。

 薫が小学校を卒業する間際になって、東京の警察から連絡がはいった。ホームレスの
生き倒れが見つかったという。それが父ではないかという問い合わせだった。行き倒れ
の男は、古ぼけた一枚の写真、生まれたばかりの赤ん坊を真ん中に幸せそうな親子三人
が映った写真を大事にもっていたという。その裏に書かれた、消えかかった文字を頼り
にようやく連絡が取れたのであった。
 明らかに特徴などからも父だとはすぐにわかった。しかし娘の中学入学を前に、遺体
を引き取りに行く金も、葬式をだす金すらもなかった母は、電話で何とか遺体を検体に
することができないかと申し出た。こうして母と子は、父との最後の別れすらなしえな
かったのである。めったに涙を見せない母も、この時ばかりは薫を抱いて一晩泣きあか
したという。
 そんな母も無理がたたり、薫の中学卒業を待たずにとつぜんこの世を去った。残され
た薫は、中学すら後一年残してやめなければならない状況になった。その時に手を差し
伸べてくれたのが、裏山にある寺の住職であった。遠い親戚ということもあり、薫を中
学卒業まで面倒見てくれることになったのだ。

 寺の朝は早い。新聞配達もそこそこに、本堂の掃除やらなにやらをすべてすませて、
学校に通う毎日であった。幼い時から貧乏には慣れていた。働くことをいやだとは思わ
なかった。
 しかし、育ち盛りの年頃である。毎日がひもじかった。わずかに稼ぐお金もできるだ
け寺に渡していた。お寺も檀家が減り、けっして楽ではないことをよく知っていたから
である。そんな薫が、残った僅かばかりの小銭をためて買いもとめたものが有る。パン
屋で売っている、パンの耳ばかりあつめて袋に詰めたものだ。時々それを買ってきては、
おなかがすくとそれをかじっていた。
 あるとき寺の坊さんが、檀家からもらったと言って、薫にくれたものがあった。それ
は地元のハチミツだった。初めてそれをパンの耳につけて食べた時、どれほどおいしかっ
たか。薫は今でもその味が忘れられないという。
 考えてみたら、パンの耳にハチミツをつけて食べたのは、その時以来だという。その
後、すぐに東京に出てきた薫は、日常に追われてそんなことすら忘れていたのだ。

 話を聞いて、何とも言えない複雑な感情が敬介の体中を駆け巡っていた。単なる安っ
ぽい同情ではなく、けなげで強い薫に感心したり、自分は恵まれているなと感謝したり、
様々な感情がおりのように重なり合っていた。だがいちばん強く残った思いは、これが
一時は世界第二位にまでなった経済大国と呼ばれたこの国の、そしてこの時代、モノ余
りの平成の現実なのか、という強いそしてやり場のない怒りであった。
 バブルの崩壊から早二十年。高度成長もバブルのはかなさも知らない多くの若者が、
世の中に確実に増えてきているのだった。
 貧しさは、時に人を卑しく、醜い人間に変えてしまう。だが一方、幼いころから貧し
さに耐えながらも、親の精一杯の愛情ではぐくまれた人間は、素直で純真な、他人への
思いやりのある人間に育つのだ。敬介は目の前の薫がまさにそうだと、心からそう思っ
ていた。

 そんな敬介の思いも知らず、薫が小さな声でつぶやいた。
 「このハチミツ、いまいちだな。やっぱ、ハチミツは長野に限る」
 (おまえは落語家か。目黒のサンマじゃあるまいし)そのうちきっと『うまい』と言
わせてやると敬介は心に決めていた。
 後日、敬介は薫をハチミツ専門店に連れて行く事にした。国内はむろん、世界中の様々
なハチミツが並んでいる店だった。だが、それはもう少し先のことである。
          ○
 朝食を食べ終わると、薫はすぐに立ち上げって皿などを片づけ始めた。当たり前のよ
うに、流しに運んで洗い始めた。それを見てあわてた敬介は、キッチンに行って手伝お
うとしたのだが薫の手際が良すぎた。結局、食器を棚にしまうときだけ手伝うことがで
きただけだった。

 しばらく休んだ後、向かい合った薫が真面目な顔をして切りだした。
 「あの、しばらくの間、こちらに泊めていただくわけにはいかないでしょうか。住ま
いが見つかるまででいいんです。もちろん、働いて家賃はお支払いしますから」
 あまりに、短刀直入に言われた敬介は、少し面食らうとともに、なんとなく気恥ずか
しかった。それでつい心とは違う言葉が、口を衝いて出てしまった。
 「それは、ちょっとまずいよね。やっぱり、男と女だし・・・」
 薫はとにかく素直である。言われれば、そのまま受け取る。反論したり、食ってかか
ることはおよそなかった。素直さとともに、あるいは人との深いかかわりをどこかで拒
んでいたからかもしれなかった。
 「わかりました」
 薫はあっさりとそう言って立ちあがり、荷物をまとめ出した。その姿を見ながら、敬
介は自分の言葉は棚に上げて、(なんで、もっとしつこく粘らないんだよ)と腹を立て
た。
 「お世話になりました」
 薫はバッグを両手で身体の前に持つと、敬介に向かって深々と頭を下げた。そのまま
リビングを出ようとする彼女に、敬介があわてて声をかけた。
 「ちょっと待って。そのままじゃ困るよ」
 怪訝な顔つきで振り向いた薫に、たたみかけた。
 「あの、昨日泊めた宿代をもらわないと。それに今朝の朝食代とか・・・・・」
 敬介の言葉を皆まで待たずに、薫は小さな小銭入れを出すと、その中身をすべてテー
ブルの上にぶちまけた。
 「これで全部です。すみません、これしかありません」
 薫の瞳には、明らかに軽蔑と失望の色が宿っていた。
 テーブルの上には、小さく折り畳まれた千円札と、僅かばかりのコインが散らばって
いた。薫はそのまま、また踵(きびす)を返して出て行こうとした。その手を敬介はあわ
ててつかんだ。それも両手で。
 「いや、今すぐに払ってくれということではないんだ。仕事も決まったんだし、給料
が出てからでいいんだ。だから、それまでは、妹の部屋にいても構わないけど・・・。
ちゃんと払ってもらえるか見張りたいし・・・。いや、見張りというか・・・。とにか
く、給料がでるまでだよ。それまでは、妹の部屋を使ってくれないか」
 敬介は最後には懇願していた。一体何をいっているのか、彼自身もよくわからなかっ
た。ただ必死で腕をつかんで、引きとめていることだけは薫にもようやく伝わった。
 「ほんとうに。本当にここにいてもいいんですか?」
 信じられないという顔つきで、敬介をじっと見つめていた。
薫のまっすぐな視線を避けるようにして「ま、当分の間だから。とにかく、これはしまっ
て」うろたえながら敬介はかろうじてそれだけ言った。
 散らばった小銭を集めて手のひらに取ると、薫に差し出した。
 まばたきもせずに敬介を見つめていた薫は、感極まったのか敬介の胸に身体をあずけ
た。そのまま声を殺して泣いていた。どんなにつらくても、悲しくても涙を見せること
がない彼女であった。だが今は嬉しさのあまり、感極まって涙があふれていた。
  ばつが悪いような、恥ずかしいような思いで敬介は彼女から身体を離した。ようや
く薫も笑顔を見せて、敬介の手から小銭を大切そうに受け取った。その笑顔がとても眩
しかった。敬介は、こんな子を追い出したりしたら一生後悔しただろうと、心からそう
思うのであった。

 こうしてふたりの奇妙な同棲生活が始まることになった。それは同時に、敬介が薫に
ほんろうされる日々の始まりでもあるのだが。そして、やがて敬介の運命を大きく変え
ることにもなるが、それはまだかなり先のことである。     
                           [第1章終わり]