On草子

ラブコメ 一緒に死んでよ

ラブコメ

第2章 贈り物 (後編)


          ―――○○――― 

 薫がいまの仕事にも、ずいぶんと慣れてきたある日の昼休み。
 今日は会社裏のベンチで男性とふたり、腰かけてパンを食べていた。いつも一人でい
ることの多い薫にしては珍しかった。
 お相手は、飲み会で知り合った同じ会社の人間である。飲み会でも、隅のほうでポツ
ンとしている男に、薫から声をかけたのだった。男の名は河野弘というのだが、口の悪
い女性たちは、陰で『ブサカワ』と呼んでいた。
 ブサイクでも、可愛いから「ブサカワ」なのであるが、可愛いからではなくて、名字
の一文字からそう名付けたのであろう。おまけにこれなら万が一、誰かに聞かれても問
題がないとの悪知恵も働いていた。
 実際太っているだけでなく、人は良いのだが要領が悪くてよくドジをする典型的な男
性であった。
 薫が声をかけたときにも、仕事のミスでかなり落ち込んでいた。慰めているうちに、
「死にたい」と漏らす河野に、薫が心中相手として狙いをつけたのであった。

 「じゃあ、今度の土曜日にしよう。いいでしょう」
 河野は力なくうなずいた。薫はそれを無視して話を続けた。
 「どうやって死のうか。ロープは面倒そうだし・・・」
 「電車に飛び込んだら、簡単だと思うよ」
 河野の言葉に、薫が顔をゆがめて反論した。
 「ダメ。他の人に迷惑がかかるでしょ。迷惑かけちゃダメ」
 変なところ律儀というか何というか、不思議な女性であった。
 「やっぱり、薬ね。ちょっと、あんたお金持ってる」
 「少しならあるけど」
 「じゃあ、この次までに薬を買えるだけ買っておいて」
 「わかった」河野は力なく、それでもはっきりと答えた。
 「よし、決まった。楽しみ。じゃあ、今度の土曜日にここで待ち合わせましょう」
 薫は、言うだけ言うとさっさとその場から立ち去っていった。

 河野は言われたとおりに、あちらこちらのドラッグストアをめぐっては、買えるだけ
の薬を買い集めていた。こういうときには、東京の便利さが裏目に出てしまう。
          ○
 土曜日、朝食を済ませたふたりはいつものように向かい合って座っていた。薫は、ハー
ブティにハチミツを入れながら、敬介に向かってあらたまって言った。
 「短い間ですけど、お世話になりました」
 (また妙なことを言い出した)と思いながらも、かなり慣れてきたのでとくに驚きも
せず、「お世話様でした。で、なんで」と返した。
 「私、今日これから死ぬんです。お相手が見つかったので、これから行っていっしょ
に死にます」
 落ち着き払って、真面目な顔で言うのがなおさら奇妙であった。敬介もこれにはさす
がにびっくりした。そして薫と初めてであった屋上での事を思い出していた。あのとき
も薫は誰かと死のうとしていた。
 本来なら、止めたり驚いたりすべきなのだろうが、それとは違う言葉が口をついて出
た。
 「あ、そう。気をつけてね」
 「はい」
 「なるべく早く帰ってくるんだよ」
 「はい。いってきます」
 まさかと思わないでもなかったが、なんとなく大丈夫だという自信が敬介にはあった。

          ○

 土曜日の昼下がりである。どこのビルも静かだった。
 会社裏のベンチが有るところには、道路とへだてる目隠しに木立が植えられていた。
しかし歩道側にも人影はまばらであった。
 ほどなくあらわれた河野は、持ってきたカバンから薬瓶を取り出して、ベンチの上に
並べはじめた。全部で七つ。
 薫は黙って瓶のふたを次々と開けて行った、すべて開け終わると、こんどは自分のバッ
グから飲料水のペットボトルを取り出した。一つは大きめの二リットル、もう片方は普
通のサイズである。

 「じゃ、やりましょうか」
 薫は表情も変えずに掌に錠剤を少しとり、水とともに河野に手渡した。
 男はこわごわとそれを飲んだ。太った身体で、僅かな量の薬に大量の水を飲む。
 「何キロ?」
 急に聞かれて男は戸惑った。
 「体重よ、何キロなの」
 「八十・・キロかな」
 じろっと、薫が睨んだ。
 「いや、九十・・九十三キロですけど」
 「そうすると・・」瓶を見ながら、いくつかの瓶を別にし始めた。
 「これ全部だからね」
 「え・・・」
 「早く飲みなさいよ」
 なかなか飲もうとしない河野に号を煮やした薫は、男の身体をベンチに押しつけてそ
の上に馬乗りになった。瓶ごと口にねじ込み、中の錠剤を男の口にすべてぶちまけた。
 「く・・・苦しい・・」と言ってるらしいのだが、声にならない。
 水を取りに薫の身体が離れたとき、偶然にも携帯電話の着信音が鳴った。
 薫は当然無視したのだが、苦しがる河野はのがれる良い口実とばかりに、ポケットか
ら携帯を取り出した。
 口いっぱいに錠剤を頬張りながら、携帯を操作していた河野は、とつぜん、錠剤を吐
き出しながら、唸るようにつぶやいた。
 「そうだ。今日は誕生日だった」
 こんなブサカワでも、父と思ってくれる子供からのメールであった。『土曜日までお
仕事ご苦労さま。僕の誕生日だから、早く帰ってきてね』
 河野は我に返った。(そうだ、今日は息子の誕生日。何かプレゼントを買って帰らな
くては)
 もはや、薫のことなど意識にはなかった。
 「こうしてはいられない。早く帰らなくっちゃ」
 河野は薫のほうに向かって両手を合わせて拝むようなそぶりを見せた後、一目散にそ
の場から逃げ出していった。
 後には、手のひらに錠剤を山のようにのせ、もう片方にはペットボトルをつかんだま
ま呆然とする薫が残った。

          ○

 「ただいま」
 力ない薫の声を聞いて、敬介はようやくほっとした。簡単に行かせては見たものの、
やはり気になって仕方がなかったのである。
 電話をしてもこんなときだけは律儀に携帯の電源を切っているので、探そうにも探し
ようがなかった。
 がっかりしたような疲れた薫の顔を見ながら、敬介は何事もなかったように、
 「おかえり。はやかったね」と言った。
 そのままキッチンに立ちながら、少し大きな声で薫に向かって言った。
 「良かったじゃないか。今日は薫の好きなハンバーグだぞ。死ぬのはいつでもできる
けど、ハンバーグは今日だけだぞ」
 自分でもめちゃくちゃなことをいっているなと思うのだが、それで良かったのだ。
 「うん。大盛りでお願いします」
 ようやく、薫に明るさが戻ってきた。

          ―――○○――― 

 薫の初給与から幾日か過ぎたある日、敬介は薫のお誕生日が近いことに気がついた。
 何をプレゼントすればいいのか悩んだ。そこで夕食のときに話をしてみた。
 「薫の部屋を花でいっぱいにしてあげようか?」
 軽い冗談にも真面目に答える薫だった。
 「花?東京の花嫌い」
 「そうなんだ・・・」(どうして?)
 「東京の花はまずい。食べてもおいしくない」
 (なに、食べるのか、花を!)「そ、そうだね」
 花束はやめて、もっとかわいらしいものにしようと、敬介は頭を軽く横に振ってみた。
 翌日から敬介のプレゼント探しが始まった。だが、これが意外と手こずるのである。
 四月生まれの彼女の誕生石はダイヤモンド。とりあえず買える範囲で、一番小さなダ
イヤのネックレスをテファニーあたりで探してみた。ただ、これはそれほど喜ばないで
あろうことは容易に想像できた。
 そこで、色々な小物を用意することにした。まずは大きなぬいぐるみ。クマのプーさ
んかファーファならいろいろあるが、変わったものがいいなとタヌキにすることにした。
しかしこれが、失敗だった。タヌキの置物はたくさんあるが、なぜかぬいぐるみがない。
とにかくどこにも売っていない。たまにあっても小さいものか、恐い顔でプーさんのよ
うなかわいらしさがなかった。ようやく見つけられたのは、誕生日の前日であった。

           ○

 そして、今日は薫の誕生日。
 夕食の前に、敬介は内緒で自分の部屋に用意しておいたものをリビングに持ってきた。
 足を投げ出して座っているタヌキのぬいぐるみである。首からは布で出来た袋とある
ものをぶら下げていた。またぬいぐるみの手には、小さな花束をくくっておいた。
 座っている薫の眼の前に、そのタヌキのぬいぐるみを置くと、敬介は
 「お誕生日おめでとう」そう言って薫に渡した。
 「わたしに・・・。ありがとう。敬介ありがとう」
 敬介には、薫の屈託のない笑顔が、妙に眩しく感じられた。
 案の定ブーケには大して興味もしめさずに、タヌキの手からはぎ取ると、ぽいとその
辺に投げた。タヌキが首から下げた袋には興味が有るようで、中に入れておいたかわい
らしい化粧ポーチをとりだして、色々といじくりまわしていた。
 「あとには、お菓子でもいれたら」という敬介の言葉に、何度もうなずいていた。
 (はやく、肝心なものに気づけよな)敬介は、いらいらしながらその時を待ったのだ
が。
 たまりかねた敬介は、ぬいぐるみの首のあたりを抑えると、
 「これ、よければ・・・」と言いかけた。
 薫はようやく、タヌキの首に何か光るものが掛けられているのに気がついた。それを
みるなり、そのまま引きちぎろうとした。
 「ワァ、ダイヤが」
 敬介は思わず叫んで、薫の手を捕まえた。以前ショーウィンドウで見たような高価な
ものは無理だが、せめてと思い買い求めたネックレスだった。これでも、敬介にすれば
結構無理をしていたのだ。
 「こんなちっこいの、ダイヤっていうのか?」薫のすっとんきょな声が響いた。
 「いくら小さくても、ダイヤはダイヤだよ」(もっと喜べよ。ダイヤだぞ。テイファ
ニーだぞ)
 「ふ〜〜ん。敬介がほしいならあげるよ」
  しかたなく、ぬいぐるみの首からネックレスを外すと彼女の首にかけてやった。少
しだけ恥ずかしくて、ちょっと緊張した敬介だった。薫はネックレスを着けてもらいな
がら、無理しなくてもいいのにと珍しくそんなことを思っていた。

 冷蔵庫に隠しておいたバースデーケーキを持って、敬介が戻ってきた。千疋屋のフルー
ツケーキである。果物の千疋屋がケーキを作っていることは、意外に知られていないよ
うだが。
 箱から取りだされたバースデーケーキには、薫の名前の入ったプレートがのっていた。
薫の眼が次第に輝きを増してきた。やはりプレゼントの中で、一番うれしそうであった。

 「いただきます」
 左わきにタヌキのぬいぐるみを抱えたまま、右手一本でケーキを切ったり、口に運ん
だりと忙しい。
 「タヌキさん、そこに置いたら。別に逃げないから」
 敬介の言葉に、口にケーキを頬張ったままで、薫は右手でとあるところを指差した。
その指差す先をみてみると、自動掃除機のルンバが、くるくると忙しそうに回っていた。
たしかに見方によっては、どこか逃げ道でも探してるように見えなくもないが。
 それにしても、嬉しそうにケーキを頬張る彼女を見ていると、こちらまで幸せな気持
ちになって来た。
 「おいしいか?」
 「うん。」嬉しそうな顔で続けた。
 「敬介もたべる?」
 「少しだけ、もらおうかな」
 もともと甘いものもよく食べる敬介である。ケーキ皿をもって戻ってくると、薫が切
り分けたケーキをその皿にのせてくれた。
 (薄い!)普通切り分けられたケーキは、三角形の形で皿の上に立つものである。が、
このケーキ、薄くて横に寝ていた。
 (たしかに『少しだけ』だな)と、自分の言葉を思い出して苦笑しながら、その薄い
塊を口に運んだ。それでも、フルーツの香りと甘さが口のなかいっぱいに広がった。
 「おいしい?」今度は薫が聞いた。
 「とてもおいしいよ」
 「よかった。気に入ってもらえて」無邪気な言葉に、
 (それは俺のセリフだ)と突っ込みたくなる衝動をどうにかおさえていた。
 「あんまり食べると、夕飯が食べられなくなるぞ」
 「別腹、ベツバラ」とその手は止まらない。
 (こういう言葉はよく知ってるんだな)
 ようやく薫の右手からフォークが離れた。
 「おなかいっぱい。後は・・・・」
 (明日だよな)
 「あとは、夕ご飯の後にしよう」
 小さく苦笑するしかない敬介であった。

 別腹というのは、今ではかなり科学的に解明されてきている。脳科学的に言えば、脳
は自分の活動エネルギーの基である糖分、甘いものを見ると、すぐに摂取するように命
令をだしてしまう。医学的にも、いっぱいだった胃に、さらに甘いものが入る余裕が生
まれるそうである。太古の人類の飢餓時代のDNAは、そう簡単には変わらないようで
ある。
 それにしても、世の男性陣からみると、甘いものに限らず女性のお腹は不思議である。
普段は、少量の食事で済んでいるのに、なぜか高級料理のフルコースに行くと、かなり
のボリュームでも平気で平らげてしまう。高級料理用の別腹があるのかと、敬介でなく
とも悩む所ではあった。もっとも女性陣からは、男にはビールの別腹があるでしょ、と
の反論が出そうである。

 薫は残ったケーキにラップをして、冷蔵庫にしまいに行った。そのときぶつぶつと、
つぶやきともハナ歌ともつかない歌を口ずさみ始めた。

  ケーキ ケーキ おいしいな
  今日も明日も 食べたいな
  ケーキ ケーキ おいしいな
  別腹 別腹 ケーキ腹 ドンドン

 後に敬介が、「ぶつぶつ唄」となずけて呼ぶようになった代物である。

          ○

 薫は、ぬいぐるみを抱いて自分の部屋に戻った。棚の中央の一番目立つところにぬい
ぐるみを座わる格好で置くと、しばらく眺めていたが、ガサゴソと何かをバックから出
してきた。
 例の赤パンであった。そしてなんと、それをぬいぐるみにはかせた。結構苦労しなが
ら、ようやく赤パンをはいたタヌキが出来上がった。
 それをみて、「キャッ、キャッ」と笑っている。
 歌やら笑い声やら、にぎやかな部屋の様子が気になって、敬介はあいたままのドアか
ら中をのぞいてみた。
 正面で鎮座している赤パンのタヌキをみたときには、思わず噴き出しそうになったの
だが、かろうじてこらえた。これでもう自分は、はかなくても済むなと一安心したのだっ
た。

 だが薫の仕事は、まだまだ終わらなかった。
 机に座って、小さな紙をとりだすと、何やら熱心に書き始めた。
 亀の絵である。甲羅の部分に「ケイスケ」と横書きしている。亀のうえには、人間が
立っているような、かなり幼稚な絵が描かれていた。その少女らしい人物の胸のあたり
には「かおる」と書いてあるようだ。人物が伸ばした手には、なぜか幡がにぎられてお
り、そこにはハートマークが描かれていた。
 良くわからないが、子供などが相合傘の絵にふたりの名前を書く、それと同じような
ものなのかもしれない。
 書き終えた紙を折り畳むと、なんとタヌキの赤パンの中にしまい込んだ。そして、タ
ヌキに向かって、手を一度たたくと拝んでいた。

 そして、例のぶつぶつ唄である。
  タヌキさん タヌキさん おねがいです
  話を聞いてくださいな 望みをかなえてくださいな
  タヌさん タヌさん よくお聞き
  聞かなきゃ ほっぺたつねってあげる ぷんぷん

 敬介はなにかいけないものでも見てしまったように、あわててその場を離れた。

          ―――○○――― 

 薫の誕生日までの期間、東京はまさに桜の季節であった。
 会社がある九段下界隈には、桜の名所が数多くある。千鳥ヶ淵、靖国神社、北の丸公
園、市ヶ谷、一口坂、いちいちあげていたらきりがない。お堀に沿って全体が、桜の見
所といえるのだった。
 東京スカイツリーの人気も手伝って、隅田川両岸の桜並木はすごい賑わいだそうだが、
人出なら負けてはいない。まあ、基本的には、狭い東京に人が多すぎるのだが。
 花見時のあまりの混雑ぶりに、落ち着いて風情を楽しむ事もままならない。そこで、
敬介のように会社が近くていつでも来られる人たちは、盛りの時期を外したりビルの屋
上から楽しんだりと、花見にも工夫を凝らしていた。
 それでも盛りの時でないとだめなものもある。敬介にはそれほど興味がなくても、薫
が喜ぶものがあったのだ。

 その日、敬介は薫を花見に誘った。花より団子の薫ではあるが、敬介とふたりでの外
出はうれしかった。ふたりは靖国神社に向かった。ここなら会社の昼休みにでも来られ
るのだが、わざわざ休みに出てきたのには訳があった。それは昼休みの短い時間では、
薫を満足させられるとは思えなかったからだ。
 九段下の交差点から急な坂を少し上れば、右手に神社の大鳥居と参道が見えてくる。
道をまたぐとそこから参道が始まる。縦三百メートル、横五十メートルの長方形が地図
上では、はっきりと区別できる。周囲をすべて道路で囲まれて、まるで独立した公園の
ようにもみえる。この参道、三百メートル先で道路が横切って参道を分断しているのだ。
その奥に、神社の境内へと続く参道が再び続いている。
 
  急な勾配にある狛犬を横目に、黒々とした大きな鳥居を見上げるところに来たとき、
すでに薫の顔つきが変わっていた。そこからの参道の道幅自体は十六〜十七メートルほ
どでそれほど広くもない。その両側にぎっしりと、まさに立錐の余地もないほど多くの
露天が軒を連ねていた。
 よくこれほど集まったと思うほど多くの露天が整然と並んでいた。遙か先まで続く軒
先は、たぶん百くらいはあるのだろう。これだけ集まるのは、さすがに千代田区も参加
した桜祭りが行われている期間だけのようである。敬介はそこを狙って来たのだった。
昼休みの時間だけではとても回りきれないであろうと考えて、休日にした敬介の読みは
確かであった。
 同時に人出もすごかった。元々それほど広い道幅ではなかったので、まるで、混雑時
の駅のホームを歩くような感覚であった。また今の日本は老齢化したといわれるのだが、
ここだけは別世界だった。とにかくやたらカップルが目立つのだ。男性一人など、変態
と間違われかねないほどであった。

 人の多さと露天の多さに、少しは恐れをなすかに見えた薫であったが、そんなはずは
なかった。ニヤリと不敵な笑いを浮かべ、すぐにも飛びかからんばかりの勢いであった。
それを敬介が押しとどめた。
 「とりあえず一度回って、どんな店があるか見てみよう」
 不満げな薫の手を引いて、敬介は歩き始めた。2/3ほどの所に、大村益次郎の銅像
がある。人の胸ほどの高さがある数段の台座の上に、像が建っている。
 ここで薫がたちどまり、しきりに像をみあげていた。はじめ銅像に興味があるのかと
思っていた敬介は、すぐに気がついた。

 (この上からなら、よく見えるな)
 (薫、何を考えてるんだ)
 (べつに)
 (まさか、像に登ろうなんて)
 (だって、店がよくみえないんだもん)
 (かりにのぼっても、目の前の舞台が邪魔でみえないよ)
 (そうかな)
 (そうだよ)

 どうにか、思いとどまらせることができたようである。
 銅像のすぐ目の前に、即席の舞台が設営されて、区が主催のミニコンサートが開かれ
ていた。多くのイスが用意されていたが、出演者によっては開いているイスも目立った。
屋台に多く気をとられるのは、何も薫だけではなさそうである。
 大音量の演奏を聞きながら、さらに進むと右手には大きな休憩処があって、ここで参
道がいったん途切れている。
 屋台の外側には、桜の木の下で昔ながらのゴザをひいて場所取りをしている人たちも
多い。だが最近ではイスに腰掛けるのがあたりまえになったのであろう。ほとんどのお
店の前には、折りたたみのイスがゴザの代わりに所せましと並べられていた。

 ようやく敬介に開放された薫も、さすがにどこから手をつけるか少しだけ悩んだ。だ
が、そこからは野生の本能である。気に入ったものを片端から買い始めたのだった。数
多くの屋台の大半は食べるもので、たこ焼きや焼きそばといったなじみのものから、リ
ンゴの丸焼きや飴細工、バナナにキャベツと珍しい店も数多く並んでいた。
 薫がイカの丸焼きとたこ焼きをもってきた。たこ焼きを敬介に持たせると、薫はイカ
の腹にがぶりとかみついた。
 「うまい」ひと言である。
 きれいに丸く切り取られたイカの腹を開けると、なんとそこに、たこ焼きを詰め込み
始めた。イカ飯ならぬイカだこである。薫によれば、たこ焼きはご飯の代わりに食べる。
なら、ご飯に代わってたこ焼きをイカに詰めてもよいだろうと。なるほど理屈はよいが、
問題は味である。敬介は薫のすすめを遠慮した。満足そうな薫を見ながら、そばにいる
のが恥ずかしいような、恐ろしいような気分の敬介であった。
 次々と買っては食べまくる薫は、残ったパックや箸を捨てにいく間も惜しかった。そ
こで、歩くゴミ箱ならぬ敬介の出番だった。敬介は渡されるゴミがたまって持ちきれな
くなると、参道に用意された特設の巨大ゴミ箱まで捨てに行く。で、戻るとたいていそ
こに薫はいなかった。

 敬介が、そんないっぺんに食べるなよと注意したのがまずかった。意地になった薫が
口の中いっぱいにほおばった。動きが止まった。白目をむいていた。
 まずいと思った敬介が背中をたたこうとしたら、薫は自分の口を手でおさえて、何か
わめいているようだ。
 (たたかないでよ。口から出ちゃうでしょ。もったいない)
 やむを得ず目の前の屋台に飛び込んで、コップに注がれた飲み物を買うと急いで薫に
飲ませた。
 「フー」大きく息をついた薫がにやりとして、カラのコップをつきだして代わりを催
促した。そこで敬介は、初めて自分が買ったのがワインだとわかった。山梨の特産品コー
ナーで、甲州ワインの屋台だったのだ。

 そんなこんなで、身動きできないほどの混雑の中、薫は参道を何回も往復した。それ
にしても、コンサートを見ないのはまだしも、桜の花はどうなったのであろうか。薫に
聞くと、「見たよ」の一言で終わってしまった。参道が一度途切れたその奥にこそ、桜
の見所があるというのに、結局そこまで足を伸ばすことはなかった。しかたなく敬介は、
花見は一人でまた来ようと決めていた。
 
          ○

 薫の誕生日が無事にすんだところで、桜の花もそろそろ終わりであった。
 前回は薫が楽しんだ花見、いや味見だった。今回は敬介が自分で楽しむ花見を計画し
た。すでに東京の桜の時期は終わり、あらかた散ってしまっていた。そんな中、敬介は
薫とつれだって千鳥ヶ淵にやってきた。といっても、前回来た靖国神社の道路の反対側
である。
 薫は花見と聞いて、今回も密かに期待していたようであった。
 千鳥ヶ淵というお堀を挟んで、皇居側が北の丸公園、外側の道が千鳥ヶ淵緑道で七百
メートルくらいの桜並木が続いていた。道がせまいこともあり、桜の枝がお堀側に伸び
たところは、『まるで桜のトンネル』と形容される場所でもある。
 お堀にはボートも多数浮かんでいた。むろん、カップルのボートが圧倒的に多い。堀
のはずれや、北の丸公園側の城壁の下など、堀の中で少し人目が届かないところがあっ
た。そこを目ざすカップルも多い。だが公園側はボートからはみえなくても、上からは
木々の間からよく見えているので注意が必要である。
 いかんせん、あまりにも有名すぎて人が多すぎた。むしろこのあたりの人間は、花の
盛りの時期を避けて訪れていた。会社近くでいつでもこれることもあり、敬介もその例
にならっていた。

 この日、九段下側から桜のアーケードをふたりで連れだって歩き出した。道が狭いの
で、いきおいふたり並んで歩こうとすると肩を寄せ合うことになる。ポケットに左手を
入れて歩いていた敬介の腕に、薫が腕を絡めてきた。これこそ期待していたシーンだと、
敬介は内心ほくそ笑んだ。
 数は減ったが、まだ堀には多くのボートが浮かんでいた。景色としてはボートのない
方が敬介は好きだった。
 すでにあらかたの桜は散ってしまったあとなのだが、それでものんびり歩いていると、
はらはらと最後の花びらが舞い降りてきた。薫は、それを両手で包むようにして捕まえ
た。その姿は、まるで桜(はな)の妖精だと敬介は見とれていた。
 それもつかの間、薫は手の平に乗った花びらを指でつまむと、口の中にパクッと入れ
た。
 (やっぱ、東京の花はいまいちだな)
 花の精が、夢に出てくるピンクの豚に見えてきた。
 (花より団子なのに、団子売っていないな)
 しばらく行くと、薫があたりを見回し始めた。どうやら売店のようなものを探してい
るらしい。あちらこちらみまわしていたが、屋台は見つからない。しまいには、お堀の
中までのぞき込む始末であった。だがいくらさがしても、当然見つかるはずはなかった。
むろん季節が終わったからというだけではない。
 『このあたりでの露天等を禁止します』という看板を、恨めしげに見つめる薫だった。

 敬介だけが雰囲気を楽しんでいたが、実はその時敬介は大事な事を忘れていた。
 以前吉川とここを歩いていたときに、彼から聞かされた話があった。
 恋人同士のようなカップルが、ふたりでこの桜のアーケードの下をくぐって通ると、
そのカップルは、ふたりで再びここを訪れることはない。
 いわば、都市伝説のようなものである。そんな事はすっかり忘れている敬介だった。

 ふたりで腕を組んで恋人のように桜の小道を歩けただけで、敬介は満足であった。薫
は桜の花びら一枚だけでは腹の虫が治まりそうにもなかったが。
 薫はおよそ文句というものを口にしない女性だった。だが、敬介に対しては口には出
さなくても体で表現してくるようだった。敬介もまた、その薫の心を十分すぎるほどに
よく理解していた。
 このときもそうだった。靖国神社の花見と違い、今日は屋台はおろか売店は何も出て
いない。北の丸公園に行けば、休憩所というか食堂もあるのだが、あえてそちらには行
かなかった。
 (このままで終わりではないでしょうね)
 薫の目が明らかにそう訴えていた。しかし口では、
 「ああ、とてもきれいだったね。よかった。また来ようね」と白々しい。
 「薫がまだ歩ければ、すぐそこにトニーローマがあるんだけど。疲れているなら、す
ぐ帰ろう」
 いわれても、トニーローマなるものが薫にはわからなかった。
 (何じゃそれ)「なんたらローマって?」知ったかぶりをしないのも薫のよい所だっ
た。
 「アメリカ料理の店だけど、あまり好きじゃないか」
 (早く言えよ)「そうね、でも敬介が行きたいなら、つきあってもいいよ」
 漫才コンビの芸も拍車がかかってきたようである。何はともあれ、千鳥ヶ淵緑道の半
蔵門側入り口から、内堀通りを九段下方面に戻ったすぐの所にその店はある。

 正直にいえばアメリカにおいてさえ、おいしい料理をだすアメリカンレストランには、
なかなかお目にかかれない。そのなかで、ここは日本人の口にもあう。名物のバーベキュ
ーリブは、アメリカの硬い肉と味を想像すると、よい意味で裏切られるのだ。

 場所柄からも、花見の季節はいつもいっぱいで、予約をしないとなかなか入れない。
桜が散っても、恋人同士がデートするにはよい季節である。当然敬介は、はじめから予
約を入れておいたのだった。
 それほど期待もしていなかった薫が、敬介につれられて店に入ってきた。予約席につ
くまで、薫は周囲のお客さんが食べているものを熱心に見ていた。それが気にならない
ような気楽な雰囲気でもある。席についたところで、満面に笑みを浮かべた薫が言った。
 「みんな手づかみで食べてる」
 (早速気がついたか)「ここのリブは手づかみでかぶりつくのが流儀なのさ」
 「それ注文する」
 薫はリブとラムチョップのセットを、敬介はリブとシュリンプの串焼きセットを注文
した。そして忘れてはならないのが、オニオンリングだ。
 また、こってりとした肉料理には、やはりアルコールがあう。敬介はカリフォルニア
で覚えた味、マルガリータを注文した。少し強いテキーラベースのお酒になるが、楽し
めるだろうと薫の分も勝手に頼んでいた。
 先に、お酒が運ばれてきた。敬介にとっても、久しぶりに飲むカクテルだった。薫の
前には、シャーベットのようなものが来ていた。敬介は赤い色のマルガリータが好きだっ
たが、フローズンはやはり白がよい。
 「なにこれ」薫が首をかしげた。
 「お酒」
 「だって、凍ってるよ。それに周りに塩がついてるし」
 「フローズン・マルガリータ。お酒だから酔わないようにね」
 不思議そうな顔つきで、一口それを口に入れた薫は、敬介の忠告もむなしく、これは
いけるとばかりにあっという間に平らげてしまった。そしてすぐさま二杯目を注文する。
敬介は、酔っ払った時の薫を思い出してちょっと後悔していた。

 手づかみで食べられる大きなリブはもちろん気に入ったのだが、薫の目の色が変わっ
たのはオニオンリングが来たときだった。タマネギを切ってばらすと丸い輪になる。そ
れをフライにしたものが、普通のオニオンリングである。ここのは大きさも形もまるで
違う。皿いっぱいのブロックで来る。元のタマネギより二回り以上も大きな、いわばオ
ニオンの巨大かき揚げである。だが、その見た目とは裏腹に、意外に味はあっさりして
いた。ポテトチップのようなもので、一度食べ出すとなかなかやめられないのだ。
 一つしか頼まなかったので敬介がオニオンに手を伸ばすと、薫はじろっと敬介のこと
をにらむのだった。
 (なんだよ。大きいから、ふたりでいいだろ)
 (そんな事、聞いてないよ)
 今日も、料理に恐る恐る手をだしている敬介だった。
 リブとお酒とオニオンと、もう薫は止まらない。どうやら、今回の花見も満足したよ
うである。

     
                           [第2章終わり]