On草子

ラブコメ 一緒に死んでよ

ラブコメ

第3章 なみだ雨(後編)

          ―――○○――― 

 夕方ごろから降りだした雨がだんだん激しくなり、おまけに風まで出てきたようであっ
た。残業をしていた敬介は、窓を打つ激しい風雨に、窓の外を見ながらつぶやいた。
 「ひどい雨になったな。もうやめて帰ろう」
 帰り支度をすると、自分の机から薫に電話を入れた。昼間、今日は残業だと電話をし
ておいたのだが、もう一度「これから帰る」と連絡をしたのだった。
 外に出てみると予想以上の風雨で、折り畳みの傘ではほとんど役に立たなかった。濡
れた身体をハンカチでぬぐいながら電車に乗り込んだ敬介は、駅からタクシーに乗ろう
と考えた。
 いつもの駅は、タクシーの便はあまり良くなかった。なかなか来ないし、乗り場に充
分な待ちスペースもなかった。そこで、ひとつ手前の駅で降りてみた。
 すでに夕方の通勤時間は終わっているのだが、この雨である。タクシー乗り場にはま
だ長い人の列ができていた。列に並びながら、再度薫に電話をしてみた。だがいくらか
けても、呼び出し音が鳴るばかりで誰も出ない。
 そのうちに自分の番がきたので、そのままタクシーに乗り込みマンションの前まで乗
り付けた。おかげでぬれずに済んだ。
 敬介は部屋に入ると「ただいま」と声をかけたのだが、どこからも返事はなかった。
ちょっと薫の部屋などを覗いてみたのだが、薫の姿はどこにもなかった。
 (この雨の中、どこにいってるのかな)と思いつつも、さして気にもとめなかった。
着替えをすると、テレビをつけてチャンネルを回し始めた。
 しばらく待ったのだが、薫はやはり帰ってこない。敬介は少し気になって、もう一度
薫の部屋に入ってみたが、普段と変わったことはなかった。そのまま何気なく玄関に行
くと、最近薫が雨に備えて買ったお気に入りのレインシューズがなかった。さらには、
自分の傘と薫がいつも使うビニール傘の両方がないことに気がついた。
 はじめて、敬介はあわてた。もしかしたら、駅に迎えに行ったのかもしれない。
 敬介は、あわててカッパをひっぱりだしてきて着こんだ。ついでにもう一つカッパを
胸の中に押し込んで、マンションの外に出た。このとき雨脚はさらに激しくなって、ま
るで台風か最近多い集中豪雨のようであった。
 風を気にしながらも、周囲を注意深く見回しながら、敬介は駅への道を急いだ。

 敬介が帰ってくる少し前、薫は時計を見てそろそろ帰ってくる時間だなと、窓の外を
のぞいてみた。強い風と雨が、窓を激しく叩いていた。
 (大変だ、大変だ)と自分に言い聞かせながら、お気に入りの長靴を履いて、敬介ご
愛用の傘とビニール傘を持って外に出た。
 激しい雨であった。迎えに行くのをあきらめるのかと思ったのだが、そこが薫である。
 「こなくそ。負けるもんか」
 誰に言うともなく、つぼめた傘を頭にかぶせて、薫は駅への道を歩き始めていた。
 激しい雨が容赦なく体にしみこんでいく。風もそれをおもしろがって手伝っていた。
ビニール傘などすぐに役に立たなくなった。むしろ傘の骨がむきだしになり、危険でさ
えあった。それでも薫は離そうとはせず、わきに抱えた敬介の傘を守るようにして道を
いそいだ。風雨に足を取られて、急いでもなかなか前には進まなかった。
 ようやく最後の難関、駅前の歩道橋についた。しかし、それが限度であった。橋の上
で突風にあおられて、とうとう薫の壊れた傘は飛んで行ってしまった。あわてて薫は、
二、三歩追いかけたが、とうてい無駄であった。
 「う〜ん」
 唸りながら傘の行方を見ていた薫は、「あ」と叫んで、振り向いた。わきに抱えてい
た敬介の傘が、その辺にほうりだされていた。
 「まずい」あわてて、今にも飛んでいきそうな敬介の傘を、足でふんで捕まえた。
 「つかまえた。もう観念しろ」
 それを拾うと、大事にわきに抱えようとしたのだが、橋の上の強い風は、せせら笑う
ように、薫をほんろうした。
 敬介の傘は勝手に開いて、おまけに、折り畳みでもないのに、骨の一部が二つ折りに
なっていた。お猪口になった傘を必死で戻そうとするが、何せ場所も悪い。風は一向に
おさまらず、どうにか抑えた傘を両手で抱えると、薫はよろよろと歩きだした。
 ようやく駅に着いたが、この雨である。人影はほとんどなく、タクシーの空車すら停
まってはいなかった。

 急いで向かった敬介が、ようやく駅に着いた時、駅の周辺は閑散として異様に静かだっ
た。周囲を見回しながら駅の入り口までくると、何かうづくまっているものがあった。
よく見ると薫だった。
 近寄ってみると、全身ずぶぬれになりながらしゃがみこんでいた。づたづたに壊れた
敬介の傘を、何とか元の姿にしようと一生懸命になっていたのだ。時折、怪訝そうな顔
でそばを通り過ぎる人をまったく気にすることもなく、ただひたすら壊れた傘と格闘し
ていた。その一途な姿に、敬介は胸が熱くなるのを感じた。
 「薫・・・」
 振り向いた薫が、敬介の顔を見ると驚いて傘を後ろに隠した。
 「ごめん。迎えに来てくれたのか」
 薫を立ちあがらせながら、「さあ、帰ろう」と敬介はやさしく言った。
 すると突然、薫は半べその顔になった。
 「傘が、傘が、敬介の傘が・・・」
 「ばかだな。そんなもの。それよりも、びしょぬれじゃないか」
 敬介は薫の頭をハンカチでふいてやったが、すぐに絞れるほどびしょびしょになって
役には立たなかった。
 敬介は、自分のカッパの中にいれてきたもう一つのカッパを取りだすと、薫に着せて
やった。

 薫を抱きかかえるようにして雨の中にでると、ふたりは今来た道を戻って行った。
 「ごめんね。敬介が大事にしていた傘を」
 まだ気にしているらしい薫に、敬介は気にするなと盛んに言い続けた。

 ふたりが歩き出すと、少し雨も弱まってきたようである。そんな余裕からか、薫がお
とくいのぶつぶつ唄を口づさみ始めた。

  カッパ カッパ だからびしょびしょ
  カッパ カッパ お皿がないからさみしいな
  カッパ カッパ でもでもヘノカッパ

 即興で口から出まかせのようであるが、何ともおかしな節回しと歌詞だった。

 ようやく家に戻ったふたりは、身体を拭き服も着替えて、落ち着いて向かい合った。
ソファーで並んで座るよりも、こうしてダイニングテーブルで、向い合せに座る方がな
んとなく落ち着いて居心地がよかった。
 「すまなかったね。もう少し早く電話すればよかった」敬介が謝ると、薫もまた、
 「敬介の傘、壊してごめんなさい」と応じた。
 他から見ていたら、かけあい漫才みたいなのだが、それでも当人たちは結構まじめな
のであった。
 敬介が言葉をつづけた。
 「ふたりとも傘が壊れたから、今度はおそろいの傘を買いに行こうか」
 その言葉が終るや否や、薫は黙って立ちあがると、とことこと敬介の部屋に入って行っ
た。
 すぐに戻ってきたその手には、敬介の鞄が握られていた。そして、それをいきなり床
にたたきつけた。
 「なにするんだ。壊れるだろう」
 あわてて敬介が止めようとしたが、薫はやめようとしないで言い放った。
 「壊してるの。だって、薫の鞄、壊れちゃったの。敬介のも壊れれば、新しいの買っ
てくれるでしょう」
 この素直さは少し怖いと思いながらも、どこか憎めない薫に、敬介は苦笑しながら言っ
た。
 「わかった。買ってあげるから、それは壊さないでくれ」
 そう言いながら、もう他にはないだろうなと、心配になる敬介であった。

           ―――○○――― 
 
 その日、薫は珍しく帰りが少し遅くなった。
 駅からいつもの道である。途中、歩道から見える小さな公園がある。公園の中にぽつ
んとひとつ街灯がついていた。なにげなく、そのあたりを見た薫の眼に、ベンチに座る
人影が飛び込んできた。
 はっきりとはわからないのだが、女性のようである。よせばいいのに、好奇心旺盛な
薫は、わざわざベンチの近くまで行ってみた。見覚えが有る顔だった。
 初めて敬介におんぶされた時、であった同じ階の住人、北園絵梨に間違いなかった。
あのあとにも、何度かマンション内であいさつ程度はかわしていた。
 彼女の方も、近寄ってきたのが薫だと気付いたようである。たちあがりかけていた腰
をもう一度おろした。
 「こんばんは」薫から声をかけた。
 「こんばんは」かぼそい、今にも消えそうな小さな声だった。敬介と話をしていた時
ほどの元気がなかった。
 薫もベンチに腰をおろすと、「今おかえりですか」そんなたわいもない会話から始まっ
た。
 絵梨は大学で経済を学び、社会では男性に負けないで仕事も頑張るつもりでいた。会
社も歯車の一つではなく自分の能力を発揮できるようにと、敢えて大手企業を選ばずに
就職した。だが、それはみな裏目に出ていた。
 大手ではない、さりとて、完全な孫請けの零細企業でもない。そんな中途半端な規模
の会社では、かえって昔ながらの悪しき習慣が横行していたのだった。仕事をもらうた
めに、大手にゴマをすり、買いたたくために、下請けを呼んではおごらせたりする。
 なまじの美貌も災いした。いまどき、大手では影を潜めつつある接待が横行するこの
会社では、接待役として彼女を事あるごとに使ったのだった。
 どうせ、自分の感情を殺さねばならないのなら、機械の歯車のほうがまだましである。
くだらない、卑しい人間の相手ほど疲れることはない。

 絵梨は心底疲れきっていたし、今の自分の仕事にどうしようもない絶望感を抱き始め
ていた。やりたくても仕事がみつからなくて苦労した薫とは、全く質の違う苦労かもし
れなかった。だがともに、社会への憤りと人間への不信では、共通するものが有った。

 話をしていた薫が、とつぜん携帯電話を取りだしてどこかにかけはじめた。
 すでに家に帰って、くつろぎながらテレビを見ていた敬介の携帯が鳴った。取ると、
薫からだった。
 (なんだろう)と思いながらボタンを押すと、いきなり薫の声が飛び込んできた。
 「どこにいる」
 「きょうは、もう家にいるけど。どうした」
 「公園にすぐ来て。今すぐにね」
 それだけで、わけも言わずに電話を切ってしまった。
 (何なんだ薫のやつ)と思いつつも、すぐに公園に向かうのが敬介のやさしいところ
であった。
 暗がりの中で、公園のベンチに人影が二つ。敬介が近寄ってみると、確かに薫だった。
 「薫、どうしたんだ」
 声をかけながら、もう一人を見てびっくりした。まさか、北園絵梨がそこにいようと
は想像もしなかったのである。
 「こんばんは」彼女もまた、バツが悪そうに挨拶をした。
 そんなふたりのことなど無視して、薫が敬介にとんでもない要求をした。
 「敬介、彼女をおぶって家まで帰って」
 「な、なにを言ってるんだ」
 あわてたのは、敬介だけでなく、絵梨も同じだった。
 「彼女、とても疲れているの。だから、ね」
 「私大丈夫です。すみません。もう大丈夫ですから」絵梨が立ち上がった。
 「こんな往来でそんな事できるわけないだろ」
 不満そうな薫を挟んで、ようやく三人でマンションに戻ってきた。
 エントランスをはいり、エレベータホールに来た時、敬介は周囲を見渡した。三人の
ほかには誰もいなかった。
 扉が開いたエレベータの前で、敬介は絵梨に背中を向けて中腰になった。とまどう絵
梨の背中を薫が無理やり押して、敬介に背負わせてしまった。
 いかに三人だけとは言え、絵梨には男性の背中におぶさるなど初めての経験であった。
耳まで真っ赤になりながら、それでも暴れもせずに、敬介の背中につかまった。
 上昇していたエレベータが停まる間際、彼女は自分の身体を敬介の背中にそっと押し
つけてみた。子供のとき、父親にもこうしたのかもしれない。そう考えながら、どこか
なつかしく温かいものが絵梨の心を満たしていった。
 そんなささやかな時も、すぐに終わってしまった。
 彼女の部屋のまえで、敬介が「つきましたよ」といって、やさしくおろしてくれた。
 恥ずかしさがこみあげてきた絵梨は、「おやすみなさい」との挨拶もそこそこに、逃
げ込むようにドアを開けて中に消えていった。

 部屋に戻って、にやけている敬介の顔をのぞきこんで薫が言った。
 「よかったね」
 「うん。あれで、少しでも元気になってくれればね」
 彼女の感触をおもいだしながら、敬介が答えた。
 「違うよ。敬介だよ」
 「え」
 「私の時と違って、喜んでおんぶしていたよね」
 「そんなこと・・・」
 ズバリ言われて、敬介は狼狽していた。

          ○

 だが、せっかくの敬介と薫の親切も、無駄に終わったようである。いやもしかしたら、
ふたりのおかげで決心がついたのかもしれないのだが。
 ひと月ほどあとに、絵梨がふたりの部屋を尋ねてきた。
 引っ越して田舎に帰るという。いまの会社を辞め、田舎で知り合いのパン屋に勤める
ことにしたそうである。
 「お世話になりました。おかげで、踏ん切りがつきました」
 「そうですか、お元気で」力なく敬介が言った。
 「おんぶしていただいて、嬉しかったです」敬介の顔が少しだけ輝いた。
 「薫さん、赤パンありがとう。わたしきっと幸せになります」
 (赤パンを彼女にやったのか。なんてやつだ)敬介はそう思いながらも、なんとなく
絵梨の赤パン姿を想像していた。だが、どうしても想像できない。赤パンをはいた人の
顔が、絵梨ではなく薫で、しかもそれがすぐに夢で見たピンクの豚の化け物に変わって
しまうのだった。
 
 都会では、多くの人間が性も根も尽き果てるほどに疲れてしまう。気を取り直した敬
介は、絵梨の後姿を見ながらそんな事を考えた。だがすぐに(いや、ここにひとり例外
がいる)と薫を見ながら思い返していた。

 部屋に戻り、いつものテーブルで向かいあって座ると、薫が言った。
 「敬介、彼女が好きだったんでしょ」
 「うん。薫の次にね」敬介も、こういう会話に慣れてきていた。
 「薫も敬介が好きだよ。二番目に」
 (二番目かよ)「じゃ、一番は?」
 「タヌちゃん」
 どこまでいっても、薫には勝てない敬介だった。

    
                           [第3章終わり]