On草子

ラブコメ 一緒に死んでよ

ラブコメ

第3章 なみだ雨(前編)

 こうして始まったふたりの共同生活であるが、奇妙といえば奇妙であった。
 家事も、どちらが何をやるかあらかじめ決めているわけでもないし、やらないと決め
ているわけでもない。
 基本は、とにかくお互いを束縛しないで自由に任せることだった。

 朝も先に起きたほうが朝食の支度をしたり、時にはふたりで朝マックや喫茶店のモー
ニングセットを食べに行くこともあった。商社だからというわけでもないが、割合に多
い海外との電話会議ともなれば、時差の関係から朝早くか夜遅くになってしまう。した
がって、こうだと決めつけることはしないで臨機応変にしていたのだ。そう、時には朝
食抜きの腹ペコでもかまわなかった。

 昼も同じようなものである。朝早く起きて、薫がふたり分のお弁当を作ることもあれ
ば、持たないでいくことも多かった。夕食も、せっかく作ったのにとか、なにも用意さ
れていなくて怒るというような事だけは、お互いに避けていた。
 夕食を何かの都合で食べなかったりすることがある。そんな場合、たいてい薫は翌朝
早く起きて、残りものでお弁当を作るのが常だった。どんなおかずでも、たとえそれが
お弁当にむいていなくても、仕立ててしまうのが驚きではあるが。
 ただ食事の後かたずけだけは、ふたりの共同作業になっていた。とくに薫は洗い物が
好きだった。ふたり並んでキッチンにいると、新婚生活はこんなものかなと思うことも
あった。むろんそんな事を考えるのは敬介だけだったが。

 掃除も気がついた方がまめにやっていたが、自動掃除機ルンバもそれなりに活躍して
いた。
 洗濯は、薫が好きな家事のひとつであった。ぐるぐると回る洗濯槽の中を、あきずに
いつまでもながめていたりした。が、敬介は自分の下着まで洗おうとする薫に、いつも
必死で抵抗していたのだった。

 お互い会社勤めの身の上である。帰りが遅くなる時もあった。
 「ただいま」
 「おかえりなさい」
 「おなかがすいた」
 まるで世の中の夫婦の様な会話が続く。
 「まだたべてないの?」
 「食べずに帰ってきた」 
 「じゃ、ちょっとまってね」薫が席をたった。
 この言葉に期待をしてはいけないのである。ここは、世の中一般とは違うのだ。
 薫は自分の部屋から、タヌキの首にかけていた袋を持ってきた。中から、色々なお菓
子をだして机に並べる。そのなかで、ポッキーをとると、「はい、これ」と敬介に渡し
た。
 「ポッキーか」
 「チョコがいやなら、新しいショコラもあるよ」
 (甘いのはな〜。野菜のポッキーでもないのかな)」
 「嫌いなの?」
 「嫌いじゃないけど、おなかがすいているから」
 「変な敬介。だから遠慮しないで食べていいよ、ポッキー」
 薫にとっては夕食がポッキーでも、とくに何も問題がないのである。
 それだけこれまで食べるものに苦労してきたからなのか、単なる「お菓子変人」なの
かは、敬介にも良くわからなかった。
 「大事なポッキーは後でもらうよ。とりあえずカップラーメン食べてから」
 相手の気持ちを大事にする敬介の心遣いであった。世の旦那様もみならうべきであろ
うか。

 とにかく一事が万事こんな具合だから、とくに大きな喧嘩もなくふたりの共同生活は
毎日楽しく続いていた。

          ―――○○――― 

 薫は非正規社員ではあるが、落ち着いた環境で働くようになってから、すでに三ヶ月
近くが経っていた。これまではほとんどが製造工場の工員として、一日中流れる機械を
前に、ひたすら身体を動かす仕事だった。誰かと話をする余裕もなく、ただただ機械と
にらめっこをしているだけの単調な、しかし精神的には逆にかなり疲労がたまる職場で
あった。
 人づきあいが好きなほうではなかったが、それでもたまには人とのうわさ話でもした
いと思った。しかし、根がまじめで仕事に集中しすぎる薫は、休憩時間には疲れ果てて
口をきく気力もなく、昼休みも食事と身体を休めるので精一杯であった。
 むろんそんな職場に不満を持っていたわけでも、嫌っていたわけでもない。いやむし
ろ、こんな境遇の自分を働かせてくれる、そのことにひたすら感謝さえしていたのであ
る。だがそんな薫も、派遣の身では簡単に解雇される境遇にあった。

 日本は二十年もの長きにわたって、バブル崩壊後の不況から抜け出せないでいる。そ
こに、リーマンショックとやらの金融不況が世界に拡大して、先進国の景気は軒並み落
ち込んでしまった。政治の無策と、国民の自己本位な風潮が、だめになった制度や組織
をこわすのではなく、ひたすら温存する事に力を注いだこの国は、結局さらに地盤沈下
が進んでしまった。
 大手企業は、どこもリストラを繰り返し、それが安易な利益確保の経営手段として定
着してしまった。会社を守ると言えば聞こえはいいのだが、結局、社会全体に迷惑をか
けても自分たちがよければかまわないという身勝手な論理なのだが、それを面と向かっ
て批判する心ある知識人もメディアもほとんど見かけることはない。
 そんな状況下ではあるが、阿久紅商事はそれなりの業績を保っていた。商社はバブル
以前の七十年代、八十年代に『商社冬の時代』と呼ばれる構造的な不況期をすでに経験
していた。そこを乗り越えてきた企業は、それなりの体力を維持していたのだった。
 それでも、昨今の風潮から阿久紅商事でも社員の1/3は非正規雇用の社員達であっ
た。

 こんな会社での薫の仕事は、営業アシスタントと呼ばれるものだった。かっこよくい
えば営業社員のサポート役、パートナーであるが、悪く言えばなんでもありの雑用係で
あった。
 単純な事務系の仕事と異なり、実に様々な仕事を言いつけられる。その雑用ぶりが嫌
で長続きしない派遣社員も多かった。同じような仕事で、待遇だけに差が有る、そんな
ことが露骨にわかるような職場でもある。だが薫はここの仕事が楽しかった。様々な雑
務も、変化に富むと考えれば別のものになる。

 そんな薫だが、周囲の女性たちからは同情の眼で見られていた。というのは、パート
ナーというお相手の営業社員が、問題の「お局様」だったのだ。
 ふつう、お局様というと、女子社員の中で古参の社員が若い社員をいじめるというイ
メージが多い。だがここのお局様は、少し違っていた。バリバリのキャリアウーマンで、
女性社員としてはトップクラスの出世を遂げて、営業部の次長にまでなった女性だ。
 出来る人で嫌われるタイプには、同じようなタイプの人間が多い。彼女もその典型で
あろうか。自分が出来るが故に、他人への思いやりに少しかけ、自分以上に出来ないと、
その人間を認めないでばかにしてしまう。
 そのために彼女についた多くの派遣社員は、短期間でやめていった。正社員は、それ
が正社員の特権とばかりに、派遣の社員に彼女の世話を押し付けて、出来るだけ近寄ら
ないようにしていた。
 そんなお局様のアシスタントの一人に薫は成ったのだった。苦労して育った薫は、本
質的には人を警戒するところがある。したがって人見知りするし、他人との付き合いを
好む方ではなかった。
 その一方で、貧しくても両親の懸命な愛情に育てられた彼女は、性格がひねくれたり、
いじけたりはしていなかった。むしろ明るくて素直に人の言うことを聞いた。
 また、学校こそ中学しか出ていないが、いわゆる頭が良かった。回転が速く、他人の
言うことをいち早く理解できた。
 素直で反抗しない、いつも明るくどんな仕事でもえり好みしない。いまどき珍しい女
性かもしれない。これならお局様といえども、いやな気はしないはずである。
 周囲が腫れものに触るような態度なのに、薫はまったく動じることもなく、他の人と
同じように接していた。そんなことから、いつの間にかお局様にも嫌われない存在になっ
ていた。むろん、周囲の眼は同情的かつ猜疑的であったのだが。

          ○

 ときどき急ぎの書類を、といっても本当に急ぐ時はバイク便を頼むのだが、直接相手
まで届けに行く仕事があった。届け先の相手の様子を見るという意味もあったのだろう
が。薫はオフィースから外に出られるこの仕事が、わりにお気に入りであった。

 いい天気である。梅雨間際のこの時期は、一年の中でもすごしやすい時期の一つであ
る。こんな日はとりわけ外出の仕事が楽しくなる。薫は、頼まれた書類を大事に抱えて、
外にでた。
 東京の南部、多摩川を越えればそこはもう神奈川県、その手前側が大田区である。そ
の一番はずれにあるのが六郷土手。会社からは、地下鉄から電車に乗り換えて、外の景
色を見ながら出かけるのに、ちょうどよいくらいの距離にある。六郷土手の名前が示す
ように、目の前には多摩川の土手が広がっている。川を越えれば、川崎だ。
 薫は、反対の雑色方面に戻りながら、おもむろにスマートフォンを取り出した。日頃
はあまり携帯を使わない彼女だが、こういう時は別であった。道案内のナビを使って、
迷うことなく目的の工場にたどり着くことができた。

 薫は、ほどなく目的の町工場を見つけて中に入って行った。事務所の様なところを見
つけると、中にいる中年の女性に声をかけた。
 「あの。阿久紅商事です。社長さんはいらっしゃいますか」
 「いま席を外していますが。どんなご用件でしょうか」
 丁寧な応対だった。職場の人間の対応や雰囲気を見れば、会社がわかるという。ぎす
ぎすした会社ではなさそうである。だが、あまり活気が有るようにもみえなかった。ご
多分にもれず、町工場はどこも不景気である。
 普通の人であれば、そこで書類を社員に託してしまうのだが、薫は妙に責任感が強かっ
た。直接手渡さないと気が済まなかった。
 「書類をお持ちしたのですが、どちらにいらっしゃいますか」
 「たぶん、裏の倉庫にいると思います。呼んできましょうか」
 「いいえ私がまいります。ありがとうございました」
 事務所を出て、狭い工場の中を通り抜けながら、薫は自分がメーカーで働いていたこ
ろを思い出していた。

 裏手の角のほうに小さい建物が見えた。両開きの引き戸の扉はあいていた。恐る恐る
中を覗いた薫の眼に、ある情景が飛び込んできた。
 「待って、ちょっと待って」
 叫ぶなり、薫は急いで中にはいり奥まった方へと駆け寄っていった。小さな箱のうえ
で、初老の男性が首にロープをからませていた。
 「ちょっと、待ちなさいよ。一人で死ぬなんてダメ。死ぬんなら私もいっしょに」
 言いながら、薫は男の身体に飛びついた。箱ごと床に倒れ込んだ男の首に巻きついて
いたロープが、はずみできつくしまった。
 「く・・・苦しい・・・」
 死のうとしてたはずの人間でも、思いもかけない形で死にそうになると、必死で抵抗
するものである。
 もがき苦しんでいた男は、ようやく首に絡まったロープをゆるめると、ぜいぜいと荒
い息をついて、その場にへたり込んだ。
 男は一瞬訳がわからなくなり、一体何が起きたのかと、薫の顔をまじまじと見つめて
いた。
 「一人で死ぬのはもったいないです。死ぬんなら、私も一緒に死にますから」
 男には薫が何を言っているのか、興奮した頭ではなおさらわからなかった。ただぽか
んとして薫の顔を見つめていた。
 「あ、その前に。ハイ、これ。頼まれた書類です。確かに渡しましたからね」
 持ってきた書類を、まだ動けないでいる男の胸に両手で押しつけた。片手でそれを受
け取りながら、ようやく男は言葉を口にした。
 「確かに」
 「それじゃ、仕事も終わったことだし、あらためてふたりで死にましょうか」
 笑顔さえみせながら、まるでピクニックにでも行くような薫の言葉に、どうしてもつ
いていけない男であった。
 そんな男のことにはかまわず、薫は男がようやく首からほどいたロープを手にすると、
ほつれをほどき始めた。さらに転がった箱を元の場所にもどすと、天井を見上げた。
 「あれか。結構高いな。届くかな」
 つぶやいていた薫が、男のところに戻ってきた。まだ胸に抱えている書類を男の手か
ら奪い取ると、その辺にぽいと投げすてた。
 「じゃ、そろそろいきますか」
 そういうと男の首にロープをかけて、そのまま引っ張り始めた。男は訳もわからず薫
のなすがままに従っていた。
 箱のところまでくると、男を先に箱の上に乗せて立たせた。薫も小さな箱の上に無理
やりにのった。ふたりの重みでバランスがくずれて、箱はぐらぐらしている。
 「ちょっと、動かないでよ」
 自分の首にもロープを巻きつけると、そのロープの先を天上の張りめがけて投げつけ
た。なかなか思うように、ロープが張りにかかってくれない。そのうち男のロープがま
たきつくなって、男がうめき声をあげた。
 「く、くるしい」
 「我慢しなさい。なかなかうまくいかないんだから」
 半ば叱りつけるような調子で、薫は安定の悪い箱の上で、ロープと男とを動かした。
何度目かにロープを天上に向かって投げたとき、男のロープがさらにしまって、男は暴
れ出した。箱がかたむいて、そのままふたりは箱から落ちてしまった。
 「た、たすけて・・・助けてくれ」
 恐怖にひきつりながら、我に返った男が大声で叫んだ。
 その声を聞きつけて、社員が何人か駆け込んできた。
 「社長、どうしたんですか」
 「大丈夫ですか」
 「まさか、社長」
 社員たちは、ふたりの首のあたりにからんだロープを外しながら、口々に叫んだ。
 苦しがって口もきけない男と、心配そうに見守る社員たちを横目に見ながら、
 (なんだ、つまらない。また邪魔が・・・)そう心でつぶやきながら、薫は立ちあがっ
た。そして、そのまま黙って町工場を後にした。

 会社に戻った薫に、書類を託した社員が聞いてきた。
 「御苦労さま。社長には会えた?」
 「はい。直接渡しました」
 「ありがとう。で、どんな様子だった、会社とか、社長とか・・・」
 「別に、とくに変わったことは」
 「そうか。それならいいです」
 敬介以外に、薫の言葉の真実を理解できるものは、そうざらにはいなかった。

 夕刻、かの町工場から会社に電話が入った。薫に社長の自殺を思い留めてもらい大変
お世話になりました、というお礼の電話だった。これから再出発して社員一同頑張りま
す、とも。
 その話はすぐに、人事の吉川から敬介の耳にも届いていた。だがその晩、敬介はとく
に薫に何も話さなかった。薫が何をしようとしていたのか、わかる気がしたからであっ
た。

           ○

 「ただいま」
 いつもと違い力のない声で、薫がリビングに入ってきた。そんな薫をみて、敬介は外
食でもしようと誘った。
 「薫、今日は外でお寿司でもたべようか」
 「はい」
 いつもなら喜ぶ話なのだが、今日は返事にも明るさがない。やっぱり心中に失敗して
しょげているのか、それともお寿司があまり好きではないのかなと思いながら、敬介は
薫を伴って外に出た。

 駅の反対側に回り、路地を一本入ったあたりにある回転寿司に入ったときには、もう
陽も落ちてあたりは暗かった。敬介が普通の寿司屋を選ばずに、わざわざこの回転寿司
に来たのにはわけが有った。普通の寿司屋のカウンターにふたりならんで『お好み』を
つまむ姿が、何かしっくりこなかったのもある。が、他にも理由はあった。
 夕食時を過ぎていたので、空席はすぐに見つけられた。ふたりで腰をおろすが、いつ
もと少し様子が違っていた。新しい店に来るとはしゃぐはずの薫が、周囲に眼を輝かせ
ることもなかった。
 回転しながら、皿が回ってきた。とくに何も言わなくても、薫は黙って回ってきた皿
を取り自分の前に置いた。
 皿の上のものを口に運んでいた薫の表情がみるみる変わっていった。にこりとしたの
か、にやりとしたのか敬介にはよくわからないのだが、とにかく顔が崩れた。
 「おいしい」
 どうやら、寿司が嫌いなのではなく、これまでh、ぱさぱさの安い、あまりおいしく
ない寿司しか食べたことがなかったので気乗りがしなかったのだ。
 だがおいしいとなれば、話は別である。すぐに次の皿に眼を移して、すばやく回転す
るレーンから取ってくる。
 薫は続けて三皿ほど食べたところで、ようやく少し落ち着いて回転するレーンをなが
めはじめた。
 そこへ、目の前をかなりのスピードで通り抜けて行ったものが有る。薫はすぐに立ち
上がって、それを追いかけようとしていた。敬介は、あわてて薫の腕をつかんで引き留
めた。
 「いま、説明するから。ま、おちついて」
 この回転寿司店では、通常の回転レーンとは別に、特急レーンが設けられていた。タッ
チパネルで注文すると、新幹線やら飛行機やらの乗り物の形をしたトレーで、注文者の
前まで直接運んでくる仕掛けであった。回る皿の中から選ぶのではなく、自分で注文が
でき、しかもそれが自分の前に運ばれてくるのである。子供でなくても面白いし、なに
より自分専用というのがプライドを満足させてくれる。

 敬介が試しに、パネルで一つ注文をしてやった。薫は食べるのも忘れて、レーンのか
なたを見つめていた。しばらくすると、飛行機型をしたトレーがレーンの上をかなりな
スピードで走ってきた。飛行機は、薫の前でぴたりと止まった。
 先程まで沈んでいたのがうそのように、薫の顔には明るさと笑顔が戻っていた。皿を
おろすと、飛行機はまたレーンの上を滑るように走って幕の後ろに消えた。それを見て
大満足だったのであろう。大急ぎで皿の上の寿司を頬張りながら、タッチパネルに向か
う薫だった。
 こうなればもう、普通に回転している皿には眼もくれない。ひたすら、特急の注文を
している姿は、まるで子供のようであった。
 また新幹線が走ってきた。当然自分の前で止まると思っていた薫は、手を軽く上げて
停めるふりをした。が、新幹線は、無視して薫の眼の前を走りぬけて行った。
 「こら・・・」
 敬介は、たちあがりかける薫の口を手で押さえ、もう片方で腕をつかんでやっと座ら
せた。
 不満そうな薫が、敬介の手の中で何かつぶやいていたのだが。
 「あれは、薫の注文したやつではないよ」
 敬介が周囲の眼を気にしながら、ようやく小声でささやいた。
 薫にとって特急は自分だけのものであり、他の人が使うなど思いもよらないのであっ
た。それでもしぶしぶ納得した薫は、その後も注文を繰り返していた。気がつくと目の
前には、皿が二十枚近くつみあがっていた。
 さすがに、すべてを食べるのは無理だと悟ったのか、ようやく落ち着いた薫はお茶を
飲みながらつぶやいた。
 「明日もまたこよう」
 動くものには眼がない薫であった。

 帰り道、満足げな薫は、例のぶつぶつ唄を歌っていた。

  おすし おすし おすしが 飛んでく ビュンビュンビュン
  イカ・たこ・はまち シャケ・まぐろ
  やっぱり 玉子だ ドンドンドン
  やっぱり かっぱだ ドンドンドン
  おすし おすし おすしが 飛んでく お口のなかに

 やれやれと思いながらも、元気になった薫をみて、ほっとした気持ちになる敬介であっ
た。それにしても、どうして薫は心中などしようとするのか、敬介にはいくら考えても
わからなかった。

          ―――○○――― 

 薫には、世の大方の女性が狂喜乱舞するような、ブランド志向はまったくなかった。
むろん興味があったとしても、その置かれていた経済状況が、そんな高価な買い物を許
す様な状況ではなかったのも事実であろう。
 そんな彼女が、どうやら趣味の一つと呼べるものを見つけたようだった。
 それは、ハチミツ探しだった。
 ハチミツには中学時代の特別な思い入れがあったからだろうか、それとも敬介の家で
初めて食べたハチミツがあまりおいしくなかったからであろうか。いづれにせよそんな
理由はどうでもよいであろう。いま薫は、それを楽しんでいた。

 給与をもらうと、ハチミツ専門店に出かけては、気になる花などのハチミツを物色し
ては、気に行った小瓶を三つほど買い求めてくる。けっしてそれ以上は買わないし、非
常に高価なものも買うのを避けていた。
 とはいうものの、世界には一千種類以上ものハチミツがあるという。本気でやったら、
結構お金のかかる趣味ともなる。

 買い求めたハチミツの小瓶を眺めすかし、ようやくふたを開けて存分に香りをかぐ。
それから、きれいな小さじでほんの少しだけ舌の上に乗せて味わう。まるでワインか何
かのソムリエのようである。
 味の特徴やら何やらをノートに記入しているようであった。そこには、紅茶、ハーブ、
梅酒などの飲物、あるいは様々なパンには、どの種類のハチミツがあうか、ハチミツを
使った料理のレシピなど、自分の独断と偏見で大いにうんちくを傾けているようであっ
た。

 ブランド志向の人間の多くが陥るわなは、結局買ったものでは満足できず、さらに別
のもの、高価なものを欲するようになることであろう。肥大化する欲望は歯止めが利か
ない。そしてついには、幸福を単なる金銭的な多寡と混同してしまう事になる。
 そんな大方の人達から見れば、薫のささやかな趣味など、貧乏くさい負け犬の趣味と
一笑されてしまうかもしれない。だが、そんな薫のおだやかでこの上ない幸せそうな顔
を見ていると、人間の幸せは結局その人の心が作るものだという当たり前の「青い鳥」
をいまさらながら強く感じる敬介であった。幸せは、自ら求めれば手に入るものなのだ
と。

 そんな敬介は、時々、薫が手を出さないような高価なハチミツを買ってきては、プレ
ゼントしていた。その時、決まって言うセリフがあった。
 「こんな変なハチミツを見つけたぞ。良くわからないから、調べてくださいな。ハチ
ミツ博士」と。
 敬介は、その時の得意そうな薫の顔が、何より好きであった。
 そんなことが何回か重なれば薫にも、敬介のプレゼントなのだということはわかって
いた。だが、敢えて口に出しては言わなかった。代わりかどうか、ハチミツノートには、
敬介からもらったハチミツだとわかるように、ハートの中に「ケ」と書かれた敬介マー
クが書かれていた。

          ○

 一方で趣味というのは、他人にとっては大して価値がなくても、本人にとっては非常
に大事な場合が有る。このすれ違いが、もめごとの元凶となることも少なくない。

 「ただいま、あー疲れた」
 残業でバタバタしていた敬介が、ようやく帰宅して来たとき薫の姿は見えなかった。
着替えもせずに、冷蔵庫から飲み物を出してくると、いつものイスに腰掛けて飲み始め
た敬介が、テーブルの上に小皿などがいくつか置いてあるのをみつけた。
 いつも、きれいに片している薫にしては珍しいなと思いつつ、飲み終えたコップとと
もにそれらを流しに持って行った。
 「お帰りなさい」
 敬介がただいまというより早く、薫がすっとんきょうな声を上げた。
 「ここにあったお皿は?」
 「え、かたしたけど」
 「なんですって、あれはようやく調合できた貴重なハチミツなのよ」
 「なんだ、そうか、ごめん。かたしちゃった」
 「ごめんじゃ済まないでしょ。どうしてくれるのよ」
 「そんなの、また作ればいいじゃん」
 「そんなの?冗談でしょ・・・・」
 ふたりのバトルなどきりがないので、このあたりにしておこう。
 いくら敬介が謝っても、薫のけんまくは一向に収まる気配がない。つい敬介も言って
はならない一言を口にした。
 「そんなに大事なら、こんなところに置いとかないで、自分の部屋でやれよ」
 だいたいこの手の言葉が致命的になる。
 薫は自分の部屋に入ると、普段は少しあけているドアを完全に閉めた。まずいと思っ
た敬介が、あわててドアの外から声をかけたが返事はなかった。

 翌朝も、薫はろくに口もきかずに出て行ってしまった。
 どうやって仲直りをするか、仕事中もそればかり考えている敬介だった。だが、これ
といった妙案も浮かばないまま夕方になってしまった。
 世の中の旦那様達が家に帰りたくないと言うのはこういう心境なのか、などと敬介は
くだらないことを思ってもみたりした。いつもとは違う駅で降りて、あてもなくぶらぶ
らと付近を歩いていた。ふと気付くと、おもちゃ、それもアニメやフィギュアなどを飾っ
たお店が有った。この手の物に興味が有る敬介の足は、自然と店内に向いていた。
 (ねんどろいど フェイト・テスタロッサだ)彼の目が輝いた。
 かわいいのだが、どこかで見たような気がする。そうだ、薫だ。髪形などはむろん違っ
ているのだが、大きなクリクリした目とか、全体のやんちゃな雰囲気が似ていたのだ。
 いくら興味が有っても、次々とフィギュアを集めるようなマニアとは違うはずの敬介
が、一目見ただけですぐに購入してしまった。さらに、トモエもいいかなとか思いなが
ら。

 帰宅するとすでに薫は帰ってきていた。
 敬介はいつもの場所に座ると、おもむろにフィギュアを取りだした。そして、薫に聞
こえるように一人芝居を始めた。
 「薫姫、薫姫。ようこそ我が家においでくださいました」
 薫は見て見ぬふりをしていた。
 「このヘアー似合いますね。すてきですよ」
 口ではほめそやしながら、反対に、手では頭をたたいたり髪の毛をひっぱってもちあ
げたりと、さんざんにいじめていた。
 黙ってみていた薫が、とつぜん手を伸ばしてフィギュアを奪った。
 「かわいそうでしょ。いじめちゃ」
 「俺の薫姫に、何をするのも俺のかってだろう」
 「同じ薫として許さない」言いながら、大事そうにフィギュアの頭をさすったり、身
体のあちこちを動かしたりして遊び始めた。

 ようやく会話ができた。ケンカなど、口を聞くようになれば自然と収まるものである。
内心ほっとした敬介だが、薫の方が一枚上手であった。

 今度は薫が一人芝居を始めた。
 「なあに、薫姫。何がほしいの。対馬の野生の日本ミツバチのみつ?それに、宮崎マ
ンゴーのロールケーキも。薫も食べたいな。でもごめんね。薫は貧乏だから買えないの」
 聞こえよがしの大きな声である。
 (直接言えばまだ可愛いものを。にくたらしい)だが、ここで怒っては元も子もない。
 「薫、薫姫に伝えておくれ。明日にでも探して買ってきますと」
 薫だけでなく、フィギュアまでいっしょになって、にやりとしたようだった。
 その後、この薫姫行方不明となった。敬介が家中さがしまわったのだが、ようとして
行方はつかめなかった。もっとも、薫のタヌキがはいた赤パンのおしりが膨らんでいる
のには気がつかなかったようだが。

    
                           [第3章前編終わり]