On草子

ラブコメ 一緒に死んでよ

ラブコメ

第4章 トイレランチ(後編)

          ―――○○――― 

 薫が同じ派遣社員のひとり、三輪良子と初めて出会ったのは、奇妙な偶然からだった。
 その日の昼休み、化粧室でいつものように丁寧に両手を洗っていた。化粧室に置いて
ある石鹸は、泡が立たないものが多い。というか、初めからその種のものが用意されて
いる。
 手を洗うというより、そのアワのたたない石鹸でシャボン玉を作ろうと遊んでいると
いうのが、本当のところかもしれないのだが。
 その時、化粧室には薫の他に人影が見当たらなかった。
 シャボン玉作りに熱中している薫の耳に、変な物音が聞こえた様な気がした。ゴホッ
というような声だった。気にしないでいたのだが、しばらくすると今度はかなりはっき
りと、人が物をのどに詰まらせたような、少し咳き込むような声が聞こえた。
 薫は手を拭きながら、並んだ個室の方をみた。とくに変わった様子もない。いちばん
奥の個室だけが閉まっているようであった。
 好奇心の塊でもある薫は、奥の個室の前に行き耳をそばだてた。
 少しガサゴソという音と人の気配が、中からしていた。
 薫は無言のまま、トントンと扉をたたいた。中からの応答はなかった。
 こうなると、薫の本領発揮である。
 ドアについた小さなノブを両手でつかむと、ガタガタと揺らしては思い切り引っ張っ
た。しかしいくら引っ張っても、ドアはガタガタゆれるだけで開かなかった。
 中からはなんの音もしないどころか、むしろ声をひそめたような気配さえ感じられた。
薫はさらに、背伸びをしながらドアの上部のあいている部分に手を入れて、壊れんばか
りに思い切り揺らし始めた。
 ガタゴトという音だけが、化粧室に響いていた。
 中と外、無言の押し問答が続いたところで、カチャという音がした。急に開いたドア
が、薫の額の上あたりに激しくぶつかった。
 (イテテテ)と頭をさすりながらも、すぐさまあいた扉の中にもぐりこんだ。

 個室の中には、一人の女性が蓋をした便器に腰をおろしていた。膝の上には小さなお
弁当箱がのっており、彼女は箸を握りしめていた。
 物に動じない薫も、さすがに一瞬戸惑ったのだが、すぐさまこう言った。
 「おいしそう。手作り?」
 この言葉に、言われた方も面食らった。
 なんと言えばよいのか、頭が廻らなかった。そんな良子をみて薫はつづけた。
 「今日は天気がいいから、いっしょに屋上で食べよう」
 またも思いがけない言葉に驚く良子だったが、『いっしょに』というフレーズが妙に
心に引っかかった。
 薫はなかなか動こうとしない良子を半ば強引に、屋上へと連れ出していった。

          ○
 一時期、ネット上で、『便所飯』という言葉がはやったことが有る。文字通り、便所
での飯、トイレで食事をすることを指す。むろんスラング(俗語)であって、正式な用
語ではない。
 これに似たような言葉として、『ランチメイト症候群』というのもある。こちらは、
精神科医による命名ではあるが、こちらも学会に承認された正式な医学用語ではないよ
うである。ランチメイトとは、昼食をともにする仲間のことで、学校や職場でそのよう
なランチメイトがいないことに、一種の不安(あるいは恐怖)を覚えるという精神症状
の一つとされる。
 昼食を一人で取るということは、自分にはランチメイトがいないということを意味し、
周囲の人間からそのようにみられることが嫌で、一人では学食や外食にいけない若者が
いるという。
 友達がいない、一人ぼっちということを極端に嫌い拒否する。そのために昼食も一人
では食べられない。いっしょに食べてくれる友達すらいないのかと、周囲に見られるこ
とを恐れるあまり、一人では食堂にもいけなくなる。
 それが講じた結果、誰にも見られることなく落ち着いて一人で食事ができるところと
して、トイレが登場してくる。トイレの個室に入って、食事をする人間が実際に存在す
る、しないということで、便所飯なる言葉が生まれたのだった。
 現代の日本の若者、いやすでに若者だけではなくなっているが、日本人全般に精神的
な問題が数多く露呈してきている。昔なら笑い話ですんでしまうようなことが、真剣に
議論される対象になってしまうところに、現代の日本社会や日本人が抱える心の闇の深
さが浮き彫りになる。
 少し前ならこの手の症状は、不安神経症の一種ぐらいで済まされたかもしれない。今
は精神症状についても、その症状ごとに異なる病名が付されるなど複雑になってきた。
ちなみに不安神経症という言葉も、もはや正式な医学用語としては使われていない。パ
ニック障害とか、全般性不安障害などと分類して呼ばれるようである。

 いづれにせよこのような社会的不適応とも言うべき症状も千差万別で、まったく社会
生活を送れない人達ばかりとは限らない。三輪良子もそんな一人だったのかも知れない。
 彼女は同じ派遣社員でも、薫とは仕事の内容もフロアーも違っていた。そのため、お
互い顔見知りではなかった。彼女は、各種データをパソコンに入力する仕事を主に担当
していた。大量に出るデータなら外部の入力専門会社に任せるのだが、会社のデータと
いうのはそうとばかりは限らない。様々な種類のデータが不定期で発生する。そこで彼
女の様な派遣社員が、各フロアーごとに雇われていた。
 この仕事は、人との接触がそれほど多くはないので、内気な彼女にはむしろ向いてい
た。だが自分から積極的に人の輪に入れない彼女は、いつか社内でも孤立して、昼食も
隠れて食べるようになってしまったのだった。

          ○

 屋上では、良子が居心地の悪そうに周囲を気にしながら、片隅のブロックに座ってい
た。そこへ薫が息せき切ってやってきた。
 「おまたせ。さ、食べましょう」
 いいながら、薫は持ってきた小さなパックを開けた。中には、のりを巻いたおにぎり
が二つだけ。他には惣菜はおろか、漬物も何もはいっていなかった。
 (敬介のやつ起こしてくれないし、先に行っちゃうし)と朝の事を思い出して、また
腹を立てている薫だった。
 毎日きまってお弁当をつくるわけではなかった。寝坊したら何も作らなくてもと思う
のだが、そこが薫の薫たるゆえんである。時間がないのに大急ぎでおにぎりだけを作り、
パックに詰めてきたのだった。

 「寝坊しちゃった」 
 あっけらかんとしたものである。周囲の眼を気にすることもなく、堂々とおにぎりだ
けのパックを広げている薫だった。
 おにぎりをつまんで口に運びながら、良子にも早く食べなよと促すのだった。
 恐る恐る良子が、自分の小さな弁当箱を開いた。なかには、すこしずつ色々なおかず
が、ところ狭しと詰まっていた。
 「おいしそう」
 色鮮やかな良子の弁当箱をじっと見つめながら、薫が水筒のお茶を一口飲んだ。
 「良かったら、どうぞ」
 良子が弁当箱を差し出すよりも早く、待ってましたとばかりに、薫の手が伸びていた。
手づかみで玉子焼きをつかむと、「いただきます」とそのまま口に放り込んだ。
 「おいしい。料理じょうずなんだね」
 そんなほめ言葉をめったに聞かない良子は、無性にうれしくなった。
 「そんなことも・・・。よかったら」と言って、さらに弁当箱を薫の前に差し出した。
 「じゃあ」といって、今度は薫が、一つ残ったおにぎりを差し出した。こういうとき
薫は気前がいい。
 「いいんですか?」
 良子は嬉しそうに、それでもおずおずと手を差し出して受け取った。
 「これ、おいしい」初めて良子の顔が輝いた。
 「でしょ。ミルキークイーンだから、さめても硬くならないの。おにぎりにはおすす
め」自慢そうに、薫が説明した。

 簡単な昼食を取り終えたふたりは、おなじように空を見上げた。
 「いい天気」
 「ほんと」
 答えた良子は、すぐにまた暗く沈んだ顔を見せていた。
 「今日もミスして怒られちゃった。私ってドジだから」
 「気にしない、気にしない。そんなの誰でもあるから」
 「もうだめ、ほんとに。私、死にたい」
 その言葉に、薫の眼が光った。
 「じゃあ、いっしょに死のうか。ふたりならさみしくないし。ね、そうしよう」
 戸惑う良子に、薫は自分も死ぬための相手を探しているんだと告げた。はじめは、お
どろいて、本気にしなかった良子だが、熱心な薫の話に次第に引き込まれていった。そ
してついに薫との心中の約束を、半ば強引に取りつけられていたのだった。
 「明日も、ここでね」
 薫は満足そうに言うと、足取りも軽くその場を離れていった。

 こんなふうに、ふたりして屋上で昼食を取る日が、幾日か過ぎて行った。
          ○
 その日、薫はいつものように屋上に出てきた。いつものところで良子はすでに待って
いた。だがいつもと少し様子が違っていた。腰かけた良子のかたわらで一人の男がたっ
たまま、彼女と口をきいていた。初めて会ったときより、ここ数日で明るくなってきた
良子だが、そのときは特別で、笑顔さえこぼれていた。
 薫はふたりの間に割り込むようにして、腰を下ろした。
 男性はバツが悪そうに、「じゃ、またあとで」というと、その場を離れて行った。
 「だれ」詰問口調で薫が言った。
 「わたしと同じフロアーにいる男性(ひと)」
 「ふ〜〜ん」
 ふたりの関係にさして興味もない薫は、それ以上深く尋ねることはなかった。ただ急
がなくては、という動物的な感が働いていた。
 食事がおわると、薫は早速切り出した。
 「それじゃ、明日例の事を決行しましょう」
 「え」良子が、驚いて薫の顔をみた。が、そんなことにはお構いなしで、
 「明日仕事が終わったら、ここで待ってるから。必ずよ。いいわね」
 命令口調の強い調子で言われた良子は、しぶしぶ「はい」と答えていた。

           ○
 翌朝、敬介と薫は久しぶりにふたり揃って朝食を取っていた。これから会社に出かけ
るという間際になってから、例によって薫が真剣な表情で切り出した。
 「大変お世話になりました」
 「はい」
 またかと思いつつも敬介は、素直におうじた。だが、ふと気付いたことがある。
 「今日は平日だぞ。死ぬのはいいけど、会社は?」
 まるでごみを出す日を間違えたかのような言い方であった。これまで薫が死ぬと言っ
て家を出るのは、たいてい休みの日だったので、思わず口をついてでたのだ。
 「はい。会社はちゃんといきます」
 「あ、そ。なら、いいか。気をつけてね」
 「はい」
 「出来るだけ早く帰ってくるんだよ」
 「はい」
 このときばかりは、敬介も薫の考えてる事が分からず、いつも首をかしげるのであっ
た。

 その日の夕方、仕事が終わったころ、敬介は、やはり薫の事が気になっていた。そし
て、ふと気づいたことがあった。
 (会社にもいくけど、今日死ぬというのは、・・・まさか、屋上?)
 気になった彼は、大急ぎで非常階段から屋上へとかけ上った。
 もうあたりはうす暗く、屋上には人影もなかった。ゆっくりと歩きだした敬介の目に、
隅のほうでうずくまる人影が見えてきた。近寄ってみれば、薫だった。そばにはスマー
トフォンが転がっていた。
 敬介は携帯をひろいあげながら近づくと、静かに声をかけた。
 「どうした。大丈夫か」
 その声で顔を上げた薫は、敬介の顔を見ると半べそになった。
 「逃げた」
 「逃げた?豚でも逃げたのか」
 敬介の軽口に、薫がきっと睨みつけた。
 (おそろしいな)「人には色々と都合があるから、しかたがないさ」
 敬介のそんな言葉に、薫は黙って自分の携帯電話を敬介の胸に押しつけた。

 敬介が屋上に上がる少し前、薫は一人で良子が来るのを待っていた。約束の時間はと
うに過ぎているのだが、彼女は一向に姿を見せない。
 とうとうしびれを切らせて、切っていた携帯電話の電源を入れた。するとさっそく、
留守番電話が飛び込んできた。それを再生して聞いた薫は、その場にうずくまってしまっ
た。

 敬介は、いわれるままに薫の留守電を聞いてみた。
 『良子です。私、今日会社で初めてデートに誘われました。だからそちらにはいけま
せん。ごめんなさい。これからはいじけないで、薫さんの様に明るく生きていこうと思
います。ありがとうございました。さようなら』
 (ふー。ヤレヤレ。デートの方が良いに決まってるもんな。それにしても、これじゃ、
また何かおいしいものでも食べに行くしかないか)と敬介は自分にいいきかせていた。
 「さあ、薫いくぞ」
 立ちあがった敬介を見上げながら、薫が言った。
 「おんぶ」
 「ば、ばか。何をいってるんだ。ここは会社だぞ」
 「お・ん・ぶ」
 こうなると、ただの駄々っ子である。
 「そこの非常口までだぞ」いいながら、薫に背を向けて中腰になった。

           ―――○○――― 

 「う、寒い、寒い」
 そう言いながら、薫は敬介のベッドにもぐりこむと、タオルケットを自分の身体に巻
きつけてそのまま寝てしまった。
 「な、なんだ」
 眼が覚めた敬介は、すぐには状況が分からずにいたが、ベッドにもぐりこんできたの
が薫だと気がつくと、(よばいにきたのか)などとよからぬことが頭をよぎったりもし
た。だがとうの薫は、すやすやと寝ていた。
 「薫、なんだよ。寝ぼけないで自分のベッドでねろよ」
 こうなると梃子でも動かないのを敬介はよく知っていた。しかたなく起きだして、薫
の部屋の前まで行ってみた。
 わずかにあいたドアの隙間から、猛烈な冷気がふきだしていた。
 「寒い、なんだこの寒さは」
 部屋に入ると、ごうごうと大きな音を立てて、エアコンから冷気がこれでもかとばか
りに吹き荒れていた。
 ベッドのわきに落ちているリモコンを拾うと、暴走エアコンに向けて操作してみた。
が、何をやってもエアコンの温度は変わらないし、おまけに電源まで切れない。ランプ
はついているので、どうやら壊れているようであった。
 しかたなく、イスを持ち出してきて、エアコンの電源をコンセントから抜いてしまっ
た。さしもの、暴走エアコンも、「ヒュン」という音とともに静まった。

 「薫、エアコン停めたから、自分の部屋に戻りなさい」
 敬介の説得は、あえなく無視された。仕方なく狭いベッドのすきまに身体を横たえる
と、またまた(ダブルベッドを買おうかな)などと、妄想がわいてきた。が、すぐに睡魔
が勝って敬介も仲良く眠りに落ちた。

 敬介は夢を見ていた。
 なぜか、薫を背中におんぶして、広い何もない道を歩いていた。てくてくと歩いてい
たら、とつぜん北園絵梨が現れた。敬介は思わず笑みがこぼれたのだが、絵梨の顔は笑っ
ていなかった。それどころか、何かわめき散らしながら、ものすごい勢いで怒っている
ように見えた。敬介を指差して何か言うと、そのまま消えてしまった。
 何気なく背中におぶった薫を見ようと、敬介は頭を後ろにむけた。背中におぶさって
いるものと眼があった。が、それは薫ではなく、孫悟空に出てくるような豚の化け物で、
額には角が生えていた。さらになぜか、その豚の化け物だけが、部分的にカラーでピン
ク色をしていた。
 驚いた敬介が、「わー」と叫んで、夢から覚めた。

 ところが、眼が覚めてもなぜか身体が重くて動かない。(これは夢なのか、それとも
金縛りというやつか)早とちりだとすぐに気がついた。
 敬介の身体を使ってブリッジでもするように、薫が斜めに覆いかぶさっていた。
 「重いよ。どいてくれ」
 必至で薫の身体の下からはい出すと、ようやくのことで、まっすぐに寝かせなおした。
 そんな毎度お騒がせの顔をのぞいてみようと敬介は思いついた。横顔をかわいいなと
思いながら、自分の顔を近づけてみた。すると、彼女の頬に涙が一筋こぼれ落ちた。
 はっとした敬介は、薫の身体を背後から抱きかかえるようにして(おやすみ、何も心
配しないで)と心で話しかけた。

 実はその時、薫も夢を見ていたのだった。似た者同士なのであろうか、こちらも動物
が登場していた。
 原始人の格好をした薫は、棍棒を持って草原をにらみつけていた。
 そこに、どこからか豚が現れた。コロコロと太った豚だった。逃げる豚を追いかけま
わして、ついに薫はブタを仕留めた。
 その豚を丸焼きにしようと、口からお尻に串の代わりの太い棒をつきさし、そのまま
火にかざしていた。薫はおなかをぐうぐうと鳴らし、よだれを垂らしながら豚が焼ける
のを待っていた。
 こんがりと焼けた豚のおいしそうな匂いが漂ってきた。ニコッとした薫は、その丸焼
けの豚のお尻辺りにかみついた。すると丸焼けのはずの豚が、とつぜんブーとないて、
身体に串を刺したまま逃げ出したのである。あれよあれよというまに、串刺し豚の姿は
見えなくなってしまった。
 「ごちそうが、ごちそうが逃げた〜」と薫はわめきちらしながら、涙を滝のように流
していた。

 敬介がこの夢のことを知ったなら、どんな顔をするのやら。こうして、男と女はいつ
もすれ違うのだった。

    
                           [第4章 終わり]