On草子

ラブコメ 一緒に死んでよ

ラブコメ

第5章 別れ(後編)

 少し前の話になるが、それは薫が初めて敬介の会社につとめることになった時の事で
ある。
 その時、ちょっとした事件が起きた。
 人事の吉川に伴われて、薫が実際に働くフロアーへ行き、上司に挨拶をしたときであっ
た。
 「今度こちらで働いてもらうことになった、木下さんです」
 見るからにキャリアウーマンという雰囲気を醸し出す女性に、吉川が言葉をかけた。
 「お局様、よろしくお願い致します」
 吉川が薫に相手を紹介する前に、彼女から進んで挨拶をしてしまった。
 敬介が後で聞いたところでは、一瞬その場の空気が凍りついたそうである。それは、
そうであろう。自分が陰で言われているあだ名くらいは知っていたとしても、まさかそ
れを面と向かって言われることなど想像もしないに違いなかった。
 それでも、お局様は両耳を真っ赤にしながら、冷静さを装った。
 「木下さん、この会社では、皆さん「さん」づけで呼ぶの。だから、私の事は、『小
野塚さん』でいいわ」
 「はい。わかりました。お・・・ノズカさん」
 吉川はおれ知らんとばかりに、その場から逃げ出していた。

 薫にすれば、お局様と様(さま)がついているから、良い呼び名なのだろうとくらいに
しか考えていなかった。
 このことがあってからも、薫はときどき間違えて「お局様、できました」などと言っ
てしまうことが有った。初めは言われるたびに腹を立てていたお局様、いや小野塚も、
薫に悪気のないことが分かると、いつしか気にならなくなっていた。それどころか、な
んとなく偉そうで、少々気に入り始めてさえいたのであった。

 びっくりしたのは、周囲の人間である。薫を捕まえては、寄ってたかって、『お局様』
が陰口なんだと言い聞かせた。だが、当の薫は、言われた時は「はい。わかりました」
と答えるのだが、すぐに忘れてしまう。

 今の日本では、とかく言葉狩りとでもいうような風潮が、横行している。様々な歴史
的に意味のある言葉が、単に悪い言葉として、葬り去られているのである。言葉は、基
本的には記号である。言葉自体に清濁などありはしない。
 どんなにきれいな言葉遣いで呼ぼうとも、使う人間が汚い心で使用する限り、言葉も
汚れていく。集団による特定の言葉狩りをする行為が行き過ぎれば、しょせん昔の村八
分と同じことになる。数による暴力と集団への依存的同調が、ろくな結果を生むことが
ないのは敬介でなくてもよくわかることであった。

          ○

 なんにせよ、問題とされるお局様のもとで働き出した薫である。いくら意地悪をしよ
うが、きつく当たろうが、働いているだけで幸せという薫には何も嫌なことなどなかっ
た。その素直で明るい態度に、小野塚の態度も次第に軟化していった。とくに、頭の回
転が速い薫の仕事ぶりには、彼女も文句はなかったのである。
 こうして、周囲からは首を傾げられながらも、ふたりの関係は平穏に過ぎていった。
一番ほっとしたのが、人事部門であった。女性として出世頭の営業次長に強くも言えず、
さりとて次々とやめる派遣社員の扱いにほとほと困っていたからである。

 そうして何カ月か過ぎたある日のこと、珍しく遅くまで残って仕事をしていた薫に、
小野塚が声をかけた。
 「そろそろ、帰らない」
 「はい。もう終わりましたから」
 ふたり揃って、ビルを出たところで、薫が小野塚に頭を下げて別れようとした。その
時、彼女が呼びとめた。
 「これから、付き合わない」
 「・・・」
 「いいから、たまにはつきあいなさいよ。それとも用事でもあるの」
 「いいえ、まったく」正直な薫である。
 「それじゃ」と言って、タクシーを停めるとふたりで乗り込んだ。
 別段不安ではなかったが、さりとて何か期待もなかった。ただ言われるままについて
行ったのだった。

          ○

 その夜、敬介はなかなか帰ってこない薫を心配しながら、いらいらして待っていた。
 「何やってんだ。こんな時間まで。電話ぐらいかけてくればいいだろうに」
 なにやら、世の奥様方と似ているようである。待つ身には、心配といらいらが募るの
は、男でも女でも同じということであろうか。
 いらいらが最高潮に達した時、インターフォンがなった。こんな時間に誰が来たんだ
と思いながら、敬介はインターフォンのモニターを覗いた。
 一瞬、ビクッとした。そこには何か得体の知れないものが映っているように思えた。
が、良く見てみると、カメラに顔を押し付けた薫であった。
 「けいすけ、あけろ」
 だまってロックを解きながら、酔ってるなとおもい、いそいで玄関までいって扉を開
けて待っていた。
 しばらくすると、壁につかまりながら、よろよろと歩いてくる人影が有った。まるで
ヤモリが壁をはうようにして、へべれけの薫が姿を見せた。
 「ただいま」
 敬介に気がつくと、ニコッとしながら、いつもよりさらに大きな声を出した。
 何を言っているのかわかったのはそこまでで、後はろれつも良く回らない薫を抱きか
かえながら、部屋のなかに連れて来た。
 敬介がもってきた巡茶を、二杯ほどものすごい勢いで飲みほした。
 その様子を見ながら、つい一言が出てしまった。
 「一体何時だと思っているんだ。こんな時間まで、どこで飲んでたんだ。電話ぐらい
しなさい」
 「うふふ、敬介の怒った顔かわいい」
 飲み終わったコップをその辺に放り出すと、そのままソファに倒れこんでしまった。
 この状態で何を言っても無駄だと悟った敬介は、引きずるようにして部屋に連れて行
き、ようやくのことでベッドに寝かしつけた。
 「敬介、愛してるよ」
 いきなり言われて、ドキッとした。その一言で、もう敬介の怒りは収まっていた。単
純なものである。
 「おやすみなさい」
 灯りを消して出ていく敬介の後ろ姿に、薫がなおも続けていた。
 「敬介、アイス・・・・・。アイスがたべたい。敬介アイス食べたいよ」
 敬介のささやかな勘違い、いや聞き違いだったのである。まあそれで丸く収まるのな
ら、それでいいのかもしれないが。

          ○

 翌朝、いかにも二日酔いの顔で薫が起きてきた。いつものイスに腰をおろすと頭を抱
え込んだ。
 「頭痛い。何だこれは」
 「二日酔いだよ。昨日飲みすぎたんだ」
 ふーと大きく息をひとつ吐き出すと、ぽつりと言った。
 「コマネチがいけなかったか」
 「コマネチ・・・?」(何だそれ)
 勝ち誇ったように薫が言う。
 「敬介には飲めないよね。高級なコマネチは」
 (コマネチってなんだ?酒のことか?まさか、ロマネ・コンティ・・・。そんなはず
は・・・)敬介は別の事を聞いてみた。
 「昨日は誰と飲んでいたんだ」
 「お局様」
 意外な答えがかえってきたので、敬介のほうが驚いた。
 「お局様?」 
 「うん。でも内緒だから、言っちゃいけないんだよ、敬介にも」
 内緒話が、他の人にも知れ渡る典型的なやり取りだった。
 「どこで飲んだんだ」
 「若い、敬介よりかっこいい男ばかりの店。あ、一人、敬介程度がいたか」
 思い出し笑いをして、クスッとする薫に、益々不思議に思った敬介が尋ねた。
 「男ばかりって、もしかしたら、ホストクラブか?」
 「知らない。お局様がよくいくお店で、会社の人には内緒なんだって。おもしろかっ
たよ」
 楽しそうに話す薫に、(そんなことあるんだ)考え込んでしまった敬介だが、すぐに
邪魔された。
 「おなかすいた。ごはんまだ〜」
 (なに、二日酔いで食べるのか!)「パンに玉子くらいしかないぞ」
 「大盛りでお願いします」
 (こいつの胃袋は鉄製か)

 敬介おはこの目玉焼きにスクランブルエッグを載せた朝食を、薫はペロッとたいらげ
た。おまけに食べ終わるころには、頭の痛いのも忘れているようであった。
 「あ、そうだ」
 何か思い出したのか、バックの中を探っていたが、やがて小さなメモの様なものを取
りだした。
 「なんだ、それ」
 「敬介には内緒。フフフ」
 (だったら、隠れてやれよ)
 一人うなずきながら、紙切れに書かれた連絡先を見ては、楽しそうな薫だった。

          ○

 昨晩のことである。
 お局様こと小野塚知恵と薫が乗ったタクシーは、麻布十番にほど近い狸穴町の入り組
んだ細い路地を走っていた。小野塚の指示通り来たタクシーは、とある店の前で停まっ
た。
 目立たない作りの店構えで、レストランではなくクラブ系だということはすぐに分かっ
た。店の奥に通じる路地を、薫を伴ってすたすたと歩いて行く。奥の階段を降りたとこ
ろの右手に、クラブの入り口が有った。そのドアの前に立っただけで、中から扉が開か
れた。
 「いらっしゃいませ」
 彼女は常連なのであろう。居並ぶ若い男性の中で、黒服が丁寧に頭を下げてふたりを
奥に招き入れた。居並ぶ男たちからは口々に「いらっしゃいませ」の声が飛んだ。
 薫にとって、こんな初体験の場所は、ひたすら好奇心をかきたてる所でもあった。
 当たり前のように、奥の席に案内されたふたりは、少し硬めのソファーに深々と腰を
おろした。薫はひたすら店の中を見回していたが、知恵は別段それを咎めもしなかった。
 ここは、会員制のホストクラブである。
 ホストクラブといえば、新宿歌舞伎町や六本木、池袋などに多くの店が有る。麻布も
六本木とひとくくりにされることもある。事実、距離的にはきわめて近いが、街の雰囲
気は少し違うようである。
 とくにこの店は、歌舞伎町にある有名ホストクラブの様な大型店と違い、それほど広
くはない店内に、ホストも十名弱程度であった。どこか昔の秘密クラブの雰囲気が漂っ
ていた。
 「いらっしゃいませ」
 いつものホストが来たようである。
 まずは、小野塚の向かいに腰をおろすと「こちら、はじめてですか」と薫の事を尋ね
た。飲物のオーダーを聞くこともなく、少し濃いめのハイボールをつくりながら、薫に
も「同じものでよろしいですか」と形だけ聞いてきた。初めての客のあしらいにも慣れ
ているようだった。
 グラスが用意出来たころ、他のホストがぞろぞろと席にやってきた。それを機に、く
だんのホストは、小野塚の隣に座りなおした。
 クラブでは、初めての客は、初回についたり、あるいは指名したホステスが、以降そ
の客の担当となり、他のホステスは手をだせないとの不文律が有る。ホストクラブでも
同様であった。初めての薫が誰を指名するか、次々と自己紹介をしながらホスト達は、
指名争いで薫のご機嫌を取り結んでいた。
 そんなことは露知らない薫である。ただおもしろがって、お相手を勤めていた。
 一通りの紹介が終わったころ、一人の男が席にやってきた。名前は、広瀬達彦と、かっ
こいいのだが。これまでの、若くて見るからにスマートなホスト達と比べると、まるで
場違いな体形で、御世辞にもイケメンとは言えなかった。
 彼もホストといえばホストなのだが、初めから普通のホストとしては扱われていない。
いわば、太鼓持ちの様な存在であった。他のホストを引き立てたり、なじみのホストが
別の客についている間、不機嫌な女性客の憂さ晴らしを担当するホストであった。当然
指名などはなく、時には女性客から罵倒されたり、お酒をかけられたりすることさえも
あった。他のホスト達からは邪魔にされながらも、一生懸命お客様を盛りたてるのが彼
の仕事であった。
 薫にすれば、いくらイケメンであろうとも、お気に入りはすでに敬介という大事な男
がいた。それに、チャラチャラしたホストなどと話をしても、すぐに飽きてしまった。
そこに変わったホストがきたのである。飛びつかないわけがなかった。
 早速、『ブーさん』というあだ名をつけて、呼びまくった。次第に他のホストはいな
くなり、ブーさんだけが薫の隣に残った。
 生来の明るい薫のはしゃぎっぷりと、ブーさんのコミカルなしぐさに、知恵も気分が
良くなったと見えて、ホスト達との話にのめり込んでいた。その盛り上がりを、当然ホ
ストは見逃さない。
 黒服がうやうやしく掲げる高級なワインを指差して、「いれちゃいますか」とさりげ
なく勧める。たちまち、ホストが群がり、「入れちゃえ、入れちゃえ」の大合唱。おま
けに、薫までいっしょになって、「お局様、いれちゃえ、いれちゃえ」とはやし立てる。
 「ロマネ・コンティはいります」
 お局様は、支払い大丈夫なのだろうか。昔と違い今は接待で落とすことなどよほどで
ないと出来なくなっているのだがと、話を聞いた敬介の方がよほど心配していた。

 いっぽうで、薫はブーさんから、自分はホストなんて初めから無理だし、もう死んで
しまいたいという、接客業としては失格である話を聞かされていた。だがそれは、薫に
とっては、何よりのうれしい話であった。早速、いっしょに死ぬ約束を強引に取りつけ
たのだ。そのとき連絡先を書いたメモを受け取って、バッグに大事にしまっておいた。
 こうなれば、後は騒ぐだけ。
 「コマネチ、いれちゃえ」薫の声が、ホストに負けじと店内に響いていた。

 したたか飲んだ薫は、かなり酔っていた。それでも、知恵がタクシーでマンション前
まで送ってくれるまでは、上司と一緒である緊張感から意識がまだあった。だがマンショ
ンのエントランスに入ったところで、意識が飛んで行った。

          ○
 ブーさんこと広瀬の連絡先を見て喜んでいた薫は、早速連絡を取ると、心中する日を
この週末ときめてしまった。
 その週末、朝食の後、例によって薫が切り出した。
 「大変お世話になりました」
 (またか)「はい、はい」(お世話しました)
 「これから死んできます」
 「気をつけてね」
 「はい」
 「あまり、遅くならないようにね」
 「はい。いってきます」
 毎回、同じセリフが繰り返されていた。敬介は、今度の相手がホストクラブで知り合っ
た男であろうと、うすうす気が付いていた。
 クラブで心中の相談などあり得ないのだが、それにしても付き合う男も男であった。
もうこれは薫の病気だな、それもたちの悪い病気だと敬介は思った。そしてこの病気い
つか治さなくては、とも。

          ○

 待ち合わせの場所に、広瀬達彦は外車でやってきた。外車といえば聞こえは良いが、
いまどきどこを探したら、こんなぼろい車が有るのか、という代物であった。普通の
女性なら、このぼろ車をみただけで帰ってしまうかもしれなかった。
 安い外車が手に入るとだまされて、いやいや購入したものであったが、今回はそれが
役に立った。というのは、いまどきの排ガス規制に適応した車と違い、昔ながらのもく
もくと汚い排気ガスを出す車である。それで死のうということになったのだ。
 それにしても、走っているとエンジン音とは別にカラカラと音がするし、窓ガラスは
歪んで完全には閉まらない。アクセルを急に踏み込むとすぐエンストするし、そのくせ、
いくら踏み込んでもなかなかスピードが上がっていかない。坂道では、電動自転車に負
けるのではないかとすら思われた。

 そんなオンボロ車をなだめすかしながら、何とか、奥多摩の山道までたどり着いた。
上り坂の曲がりくねった道に、角のあたりが少し広くなっていて、車を止められる場所
があった。
 その奥まったところに車を止めると、ふたりは早速用意してきた道具を取り出した。
まずは、マフラーにホースをつないでガムテープで固定すると、もう一方のはじを後部
座席の窓から車内に差し込んで固定した。窓の隙間にもテープを貼り終えると、ようや
くふたりは落ち着いた。
 助手席に深く腰掛けた薫が、せかすように運転席の広瀬に言った。
 「さあ、いいわよ」
 「はい」広瀬はおずおずと答え、キーを回してエンジンをかけた。
 いきなり、すごい音が響いた。
 「はやくして」
 広瀬は言われるままに、恐る恐るアクセスペダルをふんだ。だが、なかなかエンジン
の回転が上がらない。
 「なにやってるのよ」
 いわれて、広瀬は強くアクセルを踏み込んだ。「ヒューン」という音とともにエンジ
ンが止まってしまった。
 呆れて睨みつける薫のけんまくに押されて、広瀬はすぐにエンジンスタートからやり
なおした。こんどは、アクセルを少しづつふかしていった。
 臭い排気ガスが車内に入ってきた。少し息苦しくなった。だが、すぐに車内に充満す
るようにも思えなかった。実はそれもそのはずで、後部座席の下の見えない箇所に大き
な穴があいており、そこから空気が自由に出入りしていた。
 苦しくなってきた広瀬は、あせって再び強くアクセルを踏み込んだ。それがいけなかっ
た。いや、おかげで命が助かったわけだから、良かったというべきなのかもしれない。
 エンジンはヒュンといったきり、後は静かになった。かわりに、ボンネットからは白
い煙が流れ出し、おまけに窓に挟んだホースもいつの間にか外れていた。

 「あ〜あ」
 薫がため息をついたとき、運転席の窓ガラスをたたく人影が有った。
 「あけてもらえますか。運転免許証を拝見します」警察官だった。
 「どうしたんですか」
 「ちょっと、車の調子が悪くて・・・」
 ボンネットを開けてみていた警官の一人が「こりゃだめだな。レッカーじゃないと」
ともう一人に伝えた。
 警察官のそばで小さくなっている広瀬に「整備不良で減点ですね」と声がかけられた。
『減点』の言葉に、彼は薫のことなどすっかり忘れて、ひたすら警官に頭を下げていた。
 「そこを何とか。お願いします」
 そんな彼をしり目に、薫は、もう一台駆けつけていたミニパトの婦人警官に頼み込ん
で、ちゃっかりと近くの駅まで乗せてもらうことにしていた。

          ○

 心中未遂から帰ってきたときはいつでも沈んでいる薫だが、この日は特別か細い声だっ
た。
 「ただいま」
 (やった。きょうも帰ってきた)と思いながらも、敬介は平静さを装い声をかけた。
 「お帰り。寒かっただろ」

 これでようやく今回の騒ぎも終わったと敬介は思ったのだが、お局様の騒動はまだ終
わってはいなかった。

          ―――○○――― 

 それからしばらくしたある日のこと、ふたりの刑事が会社の受付に姿を見せた。
 例のホストクラブのホスト同士が、客をめぐって争いとなり、ついには傷害にまで発
展してしまったのである。その女性客は小野塚ではなかったのだが、なぜか両方のホス
トが彼女の名刺を持っていた。そのために、参考までの事情聴取がおこなわれたのであ
る。
 初めは警察であることを伏せて、お局様との面会を希望したのだが、セキュリティ上、
名乗らない人は受け付けないシステムになっていた。それがお局さまに災いした。
 さらに間が悪かったのは、その時の受付嬢がいつもの派遣社員ではなく、たまたま頼
まれてその時だけ座っていた女性で、しかも社内ではスピーカーとして有名な一人だっ
た。
 刑事が小野塚に会いに来たことは、コンピュータよりも早く社内の一部に伝わってい
た。
 刑事と小野塚は、応接室で話を始めた。お茶を持ってきた女性が近づいた時には、刑
事たちは気を利かして話をやめたのだが、すでに遅かった。こういうときの女性は、集
音マイクよりも優秀である。わずかに『ホストクラブ』という単語を聞き逃さなかった。
 これだけあれば充分である。日頃、小野塚を快く思わない連中は、あることないこと
尾ひれをつけて、社内中に吹聴した。
 どこの日本企業にも必ずいる『ご注進』男が、ここにもいた。社内の噂を、上司に言
いつける輩である。早速、彼女の上司である部長に告げ口をしていた。
 上司でありながら、出世レースではライバルでもある部長は、この時とばかりに、担
当役員に報告したのだった。人事や役員の耳にまでうわさが入ったのでは、ただでは済
まなかった。
 早速、彼女は呼び出される事となった。なんとか、事件には関わりがないことをわかっ
てもらったのだが、ホストクラブ通いは否定できなかった。

 社内でのうわさが、大きくなりすぎてしまった。一週間もしないうちに、一通の辞令
が社内に張り出された。
 『小野塚知恵 沖縄・八重垣支社長を命ず』
 釣りバカ日誌の浜さんなら喜んだであろうが、支店長一人だけの新しい支店。沖縄好
きの会社員でも素直には受けられないだろう。
 しかし、さらに話は急転直下で動いた。辞令発表から二日後、小野塚は辞表を提出し
たのだ。直属の上司である部長を飛び越えて、役員に辞表を提出したのは、彼女のせめ
てもの抵抗だったのかもしれない。だが、会社にとっては予想の範囲内であった。とく
に引き留められることもなく、辞表はそのまま受理された。

          ○
 小野塚知恵の最後の出社日であった。長い間勤めたオフィースの出口で、花束を胸に
もう一度深々と頭を下げた。彼女が立ち去った後には、いつもと何も変わらない職場の
風景がそこにあった。
 一階のエントランスにまで見送りに来たのは、敬介と薫のふたりだけであった。
 他には人が誰もいないことを確認して、敬介は思い切って聞いてみた。
 「二、三年で戻れるでしょうに、どうして」
 すぐにニコッとして、知恵が答えた。
 「疲れたの。もう疲れ果てて、つくづくイヤになったの。これからは、木下さんのよ
うに自由に生きてみることにしたの」
 薫の方を向きながら、それが知恵の最後の言葉だった。
 「では」
 「さようなら」
 「お元気で」

 企業の論理などと並べ立てたところで、所詮はすべて人間が決めていること。己に利
益がないものなど、誰も手を差し伸べようともしないのが、今の日本の企業をはじめと
する集団組織に働くもののいつわらざる姿であった。
 (いつか、自分もこうなる時がくるかもしれない)と敬介は思った。もちろん敬介だ
けである。薫は、はなからそんな事は何も考えずに、自由に生きてきた。毎日を精一杯、
全力で自由奔放に。

 小野塚の最後の後姿を見送りながら、敬介は別のことを考えていた。
 (彼女には申し訳ないけど、これでよかったんだ。これで薫も、もうホストクラブな
んて忘れてくれるだろう)
 その薫は、(ああ、これでもうホストクラブで遊べないや、つまんない。そうだ。今
度は敬介に連れて行ってもらおう。まてよ、女じゃないと。いやいい考えが有る。敬介
に女装させよう)と連想の翼をひろげていた。
 敬介の女装姿を想像しながら歩き出した薫は、おもわず身体を揺らしてしまった。
 そんな薫の後姿を見ていた敬介は、(やっぱり、薫もさびしいんだな)とお得意の勘
違いをするのだった。笑っているのも泣いているのも、後ろ姿は似たようなものではあ
るのだが。


                           [第5章 終わり]