On草子

ラブコメ 一緒に死んでよ

ラブコメ

最終章 ふたたび(後編)

 山への道はまだ通行止めが多い。そのなかで、生活道路なのであろうか、脇道が何本
かあった。その一つを選んで車をすすめると、次第に道は険しくなっていく。ようやく
道幅が少しだけ広くなっていて、車を充分停められる場所を見つけた。敬介はそこに車
を停めた。

 薫がリュックから水筒を取りだすのを横目で見た敬介は、静かに運転席から前方に遠
く続く山々を見つめていた。その時、とつぜん薫が覆いかぶさってきた。と思った瞬間、
目の前に薫の顔があった。美しいと口にする間もなく、少し開きかけた唇に薫の唇が重
なった。
 やわらかい。思う間もなく押しつけられた唇から、温かな液体が敬介の口腔に流れ込
んできた。ほんのり甘酸っぱい梅の香りがした。
 のどがゴクッとなった。もう流れ込んでくる液体はなかった。敬介は、両手を薫の背
中にまわすと強く引きよせた。そして、こんどは敬介が薫の唇に強く押しあてた。

 ようやく薫は何も言わずに身体をはなすと、リュックをもって車から先に降りた。
 いまのはなんだったのだろうか、と夢見心地の敬介も、気を取り直してキーを抜くと
車外に出た。
 (寒い)雪こそ降ってはいないものの、予想以上の寒さだった。これは急がなくては
いけないと思った。
 車を停めたすぐわきの斜面をふたりで登り始めたが、雪に足をとられて思うように進
めない。それでも何とかそこを乗り越えると、視界が開けて、すぐ先に大きな一本の木
が見えた。
 (あそこにしよう。あそこなら道路からもすぐだし)敬介は薫の身体を抱えるように
して、木の根元までようやくたどり着いた。
 ふたりは大きく息を吐きながら、お互いの顔を見合わせて、ちょっと笑った。
 薫は背中からリュックをおろして、そのあたりに軽く投げ捨てた。
 木の根を枕に、ふたり並んで雪の上にあおむけとなった。敬介は伸ばした手を薫の手
に重ねると、そのまま空を見上げた。信州のどんよりとした冬の空が広がっていた。だ
が、不思議といやな気分はなく、むしろ青空を見ているような晴々とした気分だった。

 どのくらい経ったのであろうか。ハッとして敬介は気がついた。一瞬であろうか、そ
れとももっと長かったのか。いつのまにか気を失っていたようだ。まずいと思った敬介
は、急いで起きあがろうとしたのだが、なぜか身体がしびれて思うように動かない。お
まけに猛烈な眠気が襲ってきた。またすぐにでも意識が遠のきそうであった。
 必死で身体をよじり、うつ伏せになって膝を曲げた。薫の横顔がみえたので声をかけ
てみたが、その声は出ていなかったし、薫からの返事もなかった。
 (とにかく起きなくては)太い幹ににじり寄ると、反対側に少し低い梢が見えた。そ
の低い枝に手を伸ばして、ようやくそれをつかんだ。それがいけなかった。次の瞬間、
木の上の雪が落ちてきて敬介の身体の上に覆いかぶさった。続く雪の落下で、彼の身体
は完全に雪に埋もれてしまった。
 敬介は息苦しさとともに、次第に意識が遠のいていくのを感じていた。

          ○

 「さむい」
 薫は叫ぶと、上半身を雪の上に起こした。
 「さむい、寒いよ」
  雪の上で這いずりまわるようにして、周囲を見回した。
 「あった」
 埋もれかかったリュックを見つけて、這うように近づくとリュックの口を急いで開け
た。水筒を取り出すと、蓋を取るのももどかしく、そのまま口をつけて一口飲んだ。ゴ
クッと喉がなった。
 「うまい。やっぱり寒い時はホット梅酒、これに限る」
 独り言を言っていた薫だが、ふと自分の置かれた立場を思い出したようである。
 (そうだ、敬介は)
 あわてて周囲を見回したが、どこにも姿は見えない。横になっていたあたりの雪を手
でかいて、「敬介」と呼んでみたが返事はなかった。
 「敬介、どこにいるの。けいすけ〜」
 次第にどうにもならないほどの不安が薫を押し包んできた。
 「そんな、まさか、敬介が逃げた・・・」
 これまでの相手同様、もしかしたら敬介も逃げ出したのでは。そんな考えが頭の中を
駆け巡っていた。なおも、彼の名を呼び続ける薫に、どこからか声がした。
 「どうしたずら。こげなとこ」
 薫の声を聞きつけて、道から上がってきたらしい地元の男性が、驚いて声をかけた。
 「おめさんひとりかや」
 薫は、小さくうなずくしかなかった。
 「はよ。はよえべ。まぁず死んでまうずら」
 おじさんは、薫を無理やり立たすと、引きずるようにして道路にでてきた。

 そこには小型のトラックが一台停まっていた。
 薫を助手席に乗せると、おじさんは黙って走り出した。山を降りるとすぐに、小さな
駅が見えてきた。
 「若いだから、もうばかなこと考えるでねえずら」
 駅前に車を停めてそれだけ言うと、降りるように薫に促した。薫は軽く頭をさげて、
「ありがとうございました」と車を降り、再度深々と頭を下げた。
 軽トラックが見えなくなるまで頭を下げていた薫は、ようやく駅に向かってとぼとぼ
と歩きだした。そして駅構内にある古びたベンチに腰をおろしたが、呆然として頭の中
は真っ白だった。
 どれくらい時間が過ぎたのだろうか。すでに、陽は落ちてあたりは暗くなっていた。
よろよろと立ちあがった薫は、ホームへと向かってようやく歩きだした。

           ○

 親切なおじさんがわざわざ車で送ってくれた駅から、ここまでどうやって戻ってきた
のか、薫はまったく覚えていなかった。ただ気がつくと、マンションの入り口にひとり
立っていた。
 薫は、マンションの上のほうを見上げた。敬介がベランダから顔でもださないか、そ
んな事をふと思ったのだが。
 薫はぼんやりとした頭が次第にはっきりしてくると、駆け足で部屋まで戻っていった。
ドアの前で少し躊躇したのだが、ドアノブに手をかけると勢いよく開けて中に飛び込ん
だ。
 「こら、敬介」
 廊下と言わずそこかしこで、「敬介。どこだ」と連呼した。
 「敬介。どこにいる」
 敬介や自分の部屋は言うに及ばず、お風呂場も、クローゼットもあけてのぞき、挙句
の果てはトイレの便器の中まで覗き込んで名前を呼んだ。
 「ひきょう者、出てこい。こら、敬介」
 しかし、どこからも返事はなかった。散々探し回った後、ようやくあきらめてリビン
グに戻ると、放心したようにいつものイスに腰をおろした。
 冷え冷えとした空気だけが、淀んだ空気とまじりあってあたりに漂っていた。
 薫はひとつ小さなため息をついた。
 そのまま、しばらくじっとしていた。自然と涙がほほを伝わってきた。一度あふれだ
した涙は、滝のようにとめどなく両頬を流れ落ちていった。
 「あいつ・・・」
 言葉にはならなかった。いま自分が何を感じているのかすら、よくわからなくなって
いた。頭の中に真っ白い霧が漂い、胸の奥では、ヒューヒューと風が鳴いていた。
 薫は涙をぬぐいもせずに、つぶやいた。
 「会いたい。敬介に会いたいよ〜」
 静かな空気が、部屋をいっぱいに満たしていた。静かな時も流れた。

          ○

 それからどのくらいの時間が過ぎたのだろうか。いやほんの一瞬だったのかもしれな
い。
 「会いたい」
 もう一度つぶやいた時、空気がかすかに動いた。止まっていた『時』もとつぜん動き
出した。
 「薫」声がしたようだった。
 「かおる」
 今度は、はっきりと聞こえた。薫の身体中の血が動き出した。
 驚いて振り向くと、そこには敬介が立っていた。
 「け・・・」声にならない声を絞り出した。
 薫は夢中でその胸に飛び込んだ。敬介も薫の背に両手を回して抱きとめながら、その
両腕に力を込めた。
 腕の中でしっかりと薫を抱きしめながら、感動の再会シーンがまだしばらくの間は続
くと考えた敬介は甘かった。
 すぐに、腕の中の薫が頭を上げた。そこに、もう涙はなかった。かわりに唇をへの字
に曲げていた。
 (あ、まずい)と思ったのだが遅かった。
 薫は他人に声を荒げて怒るようなことはおよそなかった。だが、敬介に対してだけは
別である。それが敬介への愛情でもあったのだろうが、ここではそれはどうでもよい。
 「あんたね。いっしょに死ぬっていったくせに。うそつき」
 すでに、いつもの元気な薫であった。鉄砲のように次々と打ち出される言葉の洪水に、
敬介はなかなか口をはさむすきがない。
 「おちついて。ま、とにかく落ち着いて話をしよう」
 ようやく薫の両腕を抑えて、無理やりイスに座らせることができた。

 「どこにいっていたのよ。自分だけさっさと逃げ帰って」薫が再度聞いた。 
 少し落ち着くのを見計らって、敬介が口を開いた。
 「僕は逃げ出したりしていないよ。約束どおり、死んだんだ」
 思いがけない敬介の言葉に、薫は一瞬ぽかんとした。
 「もちろん、死ぬ気なんかまったくなかったけど。それどころか僕は君とふたりで、
これからいっしょに暮らしていきたいと思っていたんだ」
 愛の告白なのだろうが、いまひとつ意味がわからず喜べない薫だった。敬介は続けた。
 「でも僕は死んでしまった。だけどあれは事故だったんだ」

 ふたりが雪山について、車から降りようとした時、薫が口移しで飲み物を敬介に与え
た。そのとき薫は飲物を口に含む前に、睡眠薬を口にいれていたのだ。それを飲物と一
緒に、敬介に飲ませたのだった。
 もちろん、敬介が確実に死ぬようにと小細工したわけではない。
 死ぬまで少しでも寒さを感じないようにと、いわば薫の最後のやさしさだったのだ。
 そうとは知らない敬介は、薫とふたり、木の下に身体を横たえた。すぐにでも起きだ
して、薫を連れて帰るるつもりでいた。だが敬介が身体を雪の中から起こそうとした時、
すでに薬がきき始めていた。
 「ねむい・・・ばかな、こんなに早く凍死するわけがない。が、眠い・・・。まさか
・・・」
 必死で身体を起こそうと手を伸ばして木につかまったのが、かえって悪かった。ゆす
られた梢の雪が、大量に落ちてきた。そして、倒れた敬介の身体を覆い隠した。
 すでに、敬介の意識はなくなっていた。

 薫をみつめながら、敬介はやさしく言葉を続けた。
 「だから、あれは事故だったんだよ。心中したわけではないけど、結果として君との
約束通り僕は死んだんだ」
 薫は、まだ話がよく飲み込めずに、ぽかんとしていた。
 「死んだ・・・?うそ。敬介生きてるじゃん」
 「そうか。どうしたらわかるのかな・・。そうだ、僕の足元をみてごらん」
 薫はいわれるままに、敬介の足元をみた。向う脛のあたりから下に何もなく、そのま
ま床が見えていた。
 「べつに、死んだら足がなくなるわけじゃなくて、どう見せるかだけだけどね」
 そんな説明まで加えたのだが、薫は益々混乱した。
 「足がない。おばけだ〜」
 (よく言うよな)「薫、君も死んでいるんだよ」
 いきなり、敬介が追い打ちをかけるように言い放った。一瞬薫の動きが止まった。
 「何言ってるの、私はこうして生きてるでしょ」ようやくそれだけ言った。
 「君はとうに死んでいる。嘘だと思うのなら、そこの鏡をみてごらん」
 薫はいわれるままに鏡をのぞいたが、そこには自分の顔が映っていた。
 敬介が諭すように言った。「よーく自分の顔を見るんだ。そして、思い出すんだ。何
が有ったのか」
 薫がじっと見つめていると、鏡の中の自分の顔がだんだん薄くなっていく。そして、
ついにはその姿が消えた。自分の顔が消えた鏡をさらにじっと覗きこんでいた薫は、次
第に頭の中にある記憶がよみがえってきた。

          ○

 それは薫が敬介と出会う、ほんの少し前の出来事だった。
 戦後の復興、そして成長・繁栄と坂道を上ってきた昭和の後半の時代と異なり、平成
という時代は、バブルの崩壊の中で始まった。経済の繁栄とは必ずしも結びつかない時
代である。ご多分にもれず地方ではなかなか仕事がなくバイトすら難しい時代に、言葉
の上では学歴不要と言いながら、中卒の薫には働く場を見つけることは、容易なことで
はなかった。
 十七歳になった時、決心をして東京に出てきた薫は、ほとんどの地方出身者がそうで
あるように、いわゆる非正規社員として、首都圏各地を転々としながら何とか仕事を見
つけて生きてきた。しかし突然の解雇や勤め先の倒産などは、ごく日常のありふれたこ
ととして、薫の身の上にふりかかってきた。
 長時間労働で疲れ切った身体を、風呂すらもない狭い寮代わりのアパートの一室に横
たえながら、これがかつては経済大国と詠われた国なのかと、ただただ疲れて眠い頭の
片隅で考えていた。
 つらい仕事は耐えられる、貧乏にも慣れている、ただどうしてもやりきれないことが
有った。それは、自己中心的で、すぐ隣で困っている人がいても手を差し伸べることも
ない、ぎすぎすしてすさんだ心をもつ人たちとのかかわりであった。仕事もろくに教え
てくれない同僚や上司、挨拶をしても無視する正社員たち。好きあらば身体だけを求め
てくるつまらない男たち。そんなすさんだ日々の生活は、貧しくとも母親の愛情いっぱ
いに育てられた薫には、いたたまれないものであった。
 いつしか、人なつっこい明るい笑顔は消え、人との付き合いもほとんどしなくなって
しまった自分がそこにいた。目まぐるしく変わる職場では、まさに働くものであり、友
達など出来ようもなかったのである。

 その日の朝、もう何回目になるのかわからない突然の解雇通知を、薫は他の同僚とと
もに受け取った。そのまま僅かな荷物をバックに入れて、追い出された寮を後にした薫
は、あてもなく歩いていた。
 若い女性である。繁華街でその身体を使えば、当座はしのげることは分かっていた。
だが、薫はけっしてそれを選ぼうとはしなかった。悪い事をしたくないという以外にも
理由があった。そんな生活は一時しのぎで長くは続かないことを、そしてただ生きるの
ではなく、どう生きるかが「生きる」ことだと信じていたからである。たとえ短い命で
あっても、自分に恥じず精一杯生きたなら、野垂れ死にしても悔いはなかったのだ。薫
はそう想う女性だった。

          ○

 そんな薫の足が、自然と有る場所に向かっていた。
 電車とバスを乗り継ぎ、薫がその場所に着いた時には、もう昼をとうにまわっていた。
そこは富士山の裾野、いわゆる青木ヶ原の樹海である。テレビでは自殺などの暗い話題
で取り上げられることが多いが、実際には、樹海の中を歩くハイキングコースなどもた
くさん整備されており、河口湖から連なる一大観光スポットである。
 樹海の中を横切る国道からはじまる遊歩道を普通に歩く分には、反対側の駐車場につ
ながる道に問題なく出られるのである。ただ、遊歩道から外れて森の奥に入ると、周囲
がどこもおなじようなので、それなりの装備がないと、方向感覚を失い道に迷ってしま
うことがあった。冬などそのままだと、夜はかなり寒く危険である。

 人影もない遊歩道を少し入っては、また戻ってくる。薫は、そんな事を何回か繰り返
した後、駐車場の隅で人目を避けて座り込んだ。

 ずいぶんと時間が経っていた。夕暮れ時の茜色が空を染めていた。
 一台の車が、駐車場に滑り込んできて、音もなく停まった。中から、一人の男が降り
てきた。男はまったく迷いもせずに、遊歩道の中に歩みを進めていった。それを見てい
た薫は、まるで誘われるかのように黙ってその後をついて行った。
 男は、しばらく遊歩道を歩いていたが、急に道から外れた森の中に入って行った。そ
のまま薫も後をつけたのだが、すでにあたりは暗くなっていた。慣れない森のなかで、
時々男の影を見失いそうになった。
 暗闇で木の根につまづいて、転んでしまった。あわてて起き上がった時、すでに男の
姿は前方にはなかった。ハッとして周囲を見わたしたが、すでに森は闇に包まれていた。
急いで元来た道を戻ろうとしたのだが、暗闇と恐怖からすでに冷静な判断ができなくなっ
ていた。
 薫は、森の中をさまよい歩いた。
 木にかけられたロープをみては、その場を逃れようと必死で駆けだした。何回ころん
でも、小さなくぼみに落ちようとも、そのたびに、死に物狂いではいだしては、また歩
いた。はじめは転んだ傷の痛みを激しく感じたが、そのうちに痛みも感じなくなった。
それ以上に、焦りと恐怖が、薫を支配していたのだった。

 とうとう力尽きて、木の根元に座り込んでしまった。
 「たすけて。誰かたすけて。お母さんたすけて」
 薄明かりの中で、両膝を抱え、顔を膝がしらに乗せると、ガタガタと震える身体の震
えを止めようと、体中の筋肉を固くさせた。こんどは、歯が鳴りだした。薫は、舌を強
くかんだ。痛さが、少しでも恐怖をやわらげてくれるように。
 「死にたくない。いやだ。死にたくないよ」
 声にならない悲痛な叫びが、森の闇に飲み込まれていった。
 「このまま、一人ぼっちで死ぬなんていやだ」
 朝まで我慢すればきっと助かると、自分に言い聞かせては、聞こえてくるいろいろな
動物の鳴き声や梢のざわめきに、顔を膝にうずめて耳をふさいだ。
 「助けてください。死にたくない」
 かすかな希望と絶望のはざまで、薫の小さな体力は次第に失われていった。
 その時ガサッという音がした。音のする方を恐る恐るみると、先ほど見失った男が歩
いていた。薫は最後の力を振り絞って立ち上がると、男の方に向かって歩き出そうとし
た。二、三歩踏み出して、暗闇に生い茂る草をまたいだその瞬間、薫の身体が宙に浮い
た。道がなくなっていたのだ。崖下に落ちた薫の意識はすでになかった。

          ○

 すべてを思い出した薫は、呆然として鏡をつかんだままだった。敬介がやさしく声を
かけた。
 「思い出したかい。あの時、君は死んだ。でも本当はまだ死にたくなかった。おまけ
にたった一人きりで死んだのがさみしくて、さみしくて仕方がなかった。だから、せめ
て誰かいっしょに死んでくれる人がいないかと、そういう思いが君をこの世にとどまら
せてしまったんだよ」
 薫の胸に、あの時の言いようのないさみしさが、またこみあげてきた。
 「僕もこんなに早く死ぬなんて、思いもよらなかった。君と一生暮らしていきたいと
思っていた。でも、あの心中癖だけは何とかしなくては思い、ふたりで雪山に行ったん
だ。雪山で笑いながら死ぬのをやめて、そのあと温泉にでも行こうと考えていた。そし
て、そこで君にプロポーズするつもりだった。だけど、とんでもない計算違いだった」
 敬介は少し笑って、間をおいた。
 「だけど、ぼくは後悔はしていないよ。確かに短い人生だったかもしれない。でも、
君も僕も、けっして自ら死んだわけではない。事故だったんだ。人生はやり終えたんだ
よ」

 敬介の話を聞きながら、薫はようやく落ち着きを取り戻していた。
 「人には、この世で果たすべき役割が有るそうだ。君は、自分を犠牲にしてでもわが
子のために一生懸命に働く喜びを、ご両親に伝えた。心中相手といいながら、君はいつ
も相手を助けていたのだよ。何人も何人もの人の命を救ったんだ」
 敬介はここで話すのをやめて、薫の顔をあらためて見つめなおした。
 「そしてなにより、君は、僕に心底から人を愛するということを教えてくれた。たと
えどんなに短くても、立派に生きたんだ。もう充分だろう」
 薫が、ようやく口を開いた。
 「でも、敬介は。敬介は私のせいで・・・」
 さえぎるように、敬介が笑った。
 「たしかに、思ったより短かったかもしれない。でも僕は、かけがえのない人を愛す
ることを学んだ。そしてなによりも、僕の大切な役目は、こうして君をむかえに来るこ
とだったんだ。さあ、行こうか。ここは、僕たちがいつまでもいるべき所ではない」

 敬介の言葉はやさしく、心に染みた。それでも敬介にすまないという気持ちで、薫の
胸は張り裂けそうであった。そんな薫に、敬介がおどけて言った。
 「も〜う、タヌちゃんにきいてごらん」
 「タヌちゃん・・」
 ようやく大事にしていたぬいぐるみのタヌキを思い出した。懐かしくタヌキを見たが、
とくに何も言ってはくれない。なにげなくぬいぐるみに近づいた薫の瞳が、いたずらっ
ぽく輝いた。
 タヌキの首には、それまでかかっていたネックレスの代わりに、細い紐がかかってい
た。その紐に通されて、重厚な光を放つ指輪がぶら下がっていた。
 薫は指輪をつかむと力任せに引っ張った。紐がきれ、タヌキがはずみで床にころがっ
たのだが、もう薫の眼中にはなかった。あのタヌちゃんへの愛情より、今は指輪へのそ
れがまさっていたのだった。
 薫は手にした指輪を掌に乗せて、おずおずと敬介の前に差し出した。敬介は黙ってそ
れを受け取ると、あらためて薫の左手をやさしくとった。指輪は、薬指にきれいに収まっ
た。
 薫はまるでケーキを死ぬほど食べたときの様な、明るくて満足げな笑顔を見せていた。
しばらく指輪を眺めながら、自分の手によく合うなと一人悦に入っていた。

 (うれしいな。けど、この指輪いくらかな?もしかして百万円もしたりして。そうだ
とすると)いつぞやの百万円でどのくらい食べられるのか、という計算が再び頭をもた
げてきた。
 (いや、どうせわからんし、それにもう食べることはないんだし)薫も少しは成長し
たようであった。

 「さ、いこう。僕たちの世界へ」敬介が力強く言った。
 薫は何も言わずに敬介の前にたって、その顔を見つめた。
 「わかったよ、さあ」
 敬介は、背中を向けて少しかがんだ。薫はだまって、その背におぶさった。
 薫は着けたばかりの左手の指輪を敬介の背中に押し当てて、磨くようなそぶりを見せ
ていた。
 「じゃ、いこうか」と敬介が、首を後ろに回して言った。
 「敬介、お願いがあるの」
 「うん」背中にこたえた。
 「今度生まれてくる時も、いっしょに生まれてきてね」
 敬介は、とつぜん両手の力を抜いた。薫が、なすすべもなくドスンと床に落ちた。
 「イテテ、なによ。なにすんのよ」
 「もう、いやだ〜。もう、いいよ〜」
 「どうしてよ」
 「やだよ〜」
 「なんで、逃げるのよ。こら〜、待ちなさいよ」
 空にぽっかりと浮かんだ白い雲の中に、ふたりの明るい声が響き渡っていた。

 その雲よりもさらに上空から、声がしたようだった。お正月に神宮の森で聞いたよう
な声なのだが。
 『やれやれ。ようやく来たか。遊んでいないで、はやくおいで』

    
                           [ 完 ]