おとなの民話

賽 の 河 原 紀 行


薄ぼんやりとした暗闇を抜けて、急に視界が開けた。いったいここはどこなのか。その前に、そもそも私はどうしてここにいるのだろうか。意識ははっきりとしているのだが、身体が心許ない。生身の肉体の感覚がしないのだ。
「夢を見ているのだろうか?いや違う。夢ではない。
先ほど自分の身体から抜けだしたような感じがした。つまり魂だけで、抜け出たようなのだ」
そんなことを思いながらも、次第に、目の前に広がる景色へと関心が移っていった。

もやがかかってかすんでいるが、広い河原である。恐ろしく静かである。だが目が慣れてくると、そこには数多くの影がうごめいているのがわかった。
誰かが頭の中で、賽の河原だと教えてくれた。
「え、まさか。私は死んだのか?」
「まだ死んではいないから安心しろ。だが、あまり長くいてはいけない」
そう教えてくれた声の主は、すぐそばにいるように感じられたのだが、姿は見えない。

人は死ぬと三途の川を渡ってあの世に行くという。その三途の川の渡し場あたりが、賽の河原と呼ばれる場所である。亡者の魂は、皆一度ここに来て、それから現世での行いに応じて行く先が別れていくという。その意味で、ここはまだこの世の続きにあり、幽界などとも呼ばれたりもする。その為、常に多くの魂が集まっている。
現世で善行を積んだ清らかな魂は、迎えに来た舟に乗って三途の川を渡り、あの世へと旅立っていく。悪行を重ねた魂は、舟に乗っても川の途中で舟が沈み、そのまま地獄へと落ちていく。
死んだことに気がつかない死者や、この世への強い未練があってあの世にいけない魂は、この賽の河原にたむろしたり、現世と隣り合わせの幽界に行ったりと、いつまでもあの世へ旅立てないでいる。そんな亡者の魂が数限りなく浮遊している場所である。それにしては、不気味なほどに静かなのだが。

ゆっくりと周囲を見回してみた。
そもそも賽の河原のある、三途の川そのものがよくわからない。どちらが上流なのかもはっきりしないうえに、上流も下流も白いもやのようなものでかすみ、その先がまるで見えない。川の流れは一見すると穏やかで、水も透き通っている。深さもさして深いようには見えない。歩いてでも渡れそうである。
どうして舟が必要なのか、どうして浅いのに舟が沈むのか、ちょっと見ただけではまったくわからない。

賽の河原には、ジャリ石を敷き詰めたきれいな場所と、ごつごつとした岩や石がごろごろしている場所とが、まるで決められているかのように整然と混在していた。
いたる所に亡者がいるが、何かしているもの、泣きわめいているもの、唯じっと立っているだけのものなど、実にさまざまである。他にも、人とは思えない生き物いや化け物や、得体の知れない鬼や妖怪の類いもいる。

奪衣婆(だつえば)

賽の河原には、亡者以外にも多くのものがいる。例えば、亡者の衣類をはぎ取る奪衣婆と呼ばれる鬼婆がいる。
着ている服を脱がすのは、この世での出来事を全て消し去るという意味でもあるのだろう。この世の垢を落として、純真な魂だけで船に乗る。そのとき、なぜか手に持っている六文銭を渡し賃として奪衣婆に渡す。それがこの世での最後の行いとなる。それをけちれば、船は川の中程で沈み、乗っている亡者は地獄へと落ちていく。
恥ずかしさから着ている服を脱がないという気持ちは、もはやみじんもなくなっている。この世の物はあの世では、想念によっていくらでも手に入ることができるのだから。だが身勝手さから着物を脱がなければ、やはり地獄行きとなる。

自殺と自死

賽の河原に、どこからか二人の若い女性が現れた。二人は一緒に自殺した女学生であった。あの世に無事たどり着くには、ここで船に乗って三途の川を渡らなくてはならない。
女学生はお互いに、相手は地獄行きだと思い、別々の船に乗ろうとした。そのような事は考え無くても、ここではどんな幼子も一人でそれぞれの船に乗るしかないのだが。

お互いのことを悪く思う気持ちだけでも十分舟は沈みそうになるが、自殺はそれよりもはるかに重い罪となる。なぜなら、与えられた寿命を全うすることなく、人生を放棄して逃げたのであるから。現世の人間世界の理(ことわり)と死後の世界のそれとは必ずしも同じではない。あの世とこの世の連環を生きる魂において、それはどのような言い訳もけっして通じることのない罪なのである。
あの世の理から見て、本人だけの責任ではない自殺もむろんある。その場合には、舟は沈んでもすぐに浮かび上がってくる。そうで無い場合にも、一度地獄に落ちて反省し、自分の過ちに気がつけば、程なくして賽の河原に戻ってこられる。

昔のサムライが、そのお役目故に切腹して果てたり、国のために戦争で死ぬことは、自死で有り、自殺とは全く別の物である。どのように周囲に追い詰められた結果の行為であっても、自殺は自分の為の死で有り、自死は自己のためではなく社会や他の人の為の死の選択である。これがあの世での理である。

結局、二人が乗った舟は、共に三途の川で沈んでいった。その時になって、亡者それぞれの守護霊が、なぜに地獄へ落ちねばならないのかを教えてくれる。が、もう遅い。

それでも、地獄に落ちるのはまだ幸いなのである。人それぞれであるが、たいていは何年かすれば、再度賽の河原に戻れるからである。それよりも、幽界や賽の河原にとどまったままの魂は、誰かによって導かれる、つまり救われない限り、永遠の時をそこで過ごすことになる。生きることも、死ぬこともかなわぬ魂、これほどの苦しみがあるだろうか。それもすべては、本人の思いひとつなのだが。

あの世に行けない魂

子供のようである。船着き場から舟に乗ろうとしていた。すると、どこからかクモの糸のようなものが伸びてきて、子供の身体に巻き付いた。子供は必死でそれをふりほどき舟に乗ろうとする。だが巻き付いた糸に引きずられて河原に戻されてしまう。何度も繰り返していたが、とうとうあきらめたのか、河原に戻ってきた。するとたちまち巻き付いていた糸は消えてしまった。一体これはどういうことなのであろうか。

あの声が聞こえた。
「あわれ。親が子供の邪魔をするとは」
まだ小さな子供に先立たれた母親が、必死で子供に戻っておいでと語りかけていたのである。たとえ母の愛であっても、死んだ子のいく末を無視し、いたずらに一方的で執着した情は、糸となって子供に絡み、あの世への旅立ちを邪魔してしまうのだ。戻るはずもない命への異常な執着は、歪んだ愛情と言わざるを得ないのだろう。

「死んでもある期間は、魂が幽界や賽の河原にとどまっている。その間は、泣くだけ泣いて別れをおしむのがよいだろう。だがそれを過ぎたら、魂を自由にしてやることも大切なのだ」と声がささやいていた。

恨みの石つぶて

三途の川に何艘かの舟が浮かんでいる。亡者が乗っているのだが、何か様子がおかしい。よくみると、どこから落ちてくるのか、大小様々な石が舟に降り注いでいる。亡者は当たらないようによけながら、舟に落ちた石を拾っては川に投げ込んでいる。だが、やがて船底に石が当たって穴が開き、そこから水が入ってきた。それでも、石は容赦なく落ちてきて、ついにはその重みで舟は沈んでしまった。そんな舟がいくつも見える。

声の主による説明は、かなり厳しく恐ろしい内容でもあった。
落ちてきた大小の石とは、亡者に対する恨みの念が固まったもの。亡者が生前に受けていた、他人からのさまざまな恨みや怒りの念なのだそうである。生きていれば、他人の恨みをかうことは珍しくもない。だが、それも限度を超えれば、死んでから大変な事になるのだろう。

この恨み、実にやっかいなのである。というのも、暴力をふるったり、騙したり、盗んだり等々、恨まれても致し方ない恨みばかりではないのだ。嫉妬や、逆恨みなども含まれていて、善悪に因ることがないのである。

自己中心的な経営者がリストラをしたり、大金持ちが強欲なうえに人を見下したりというのなら、石が降るのも当然であろう。だが、本人は自覚せずに冤罪を起こしてしまった検察や裁判官、逆に悪人を無理矢理無罪にした弁護士なども、三途の川では同じ目に遭う事がある。

恨みを初めとする人間の情に善悪の尺度は存在しない。あるのは怨念や情念など、その人間の思いの強さだけである。人間らしさの証であるさまざまな感情が、時に刃ともなるのだから恐ろしい。
宮沢賢治の「雨にも負けず」では、バカにされながら生きていく姿が描かれている。あれこそが、人が生きていくうえでの理想の姿なのだろう。バカにされているかぎり、いかなる人からも恨まれることはないのだから。

死んだとわからない魂

事故や突然の災害で命を奪われたとき、自分が死んだ事を自覚できないことがある。いつものように家に帰るが、誰も相手にしてくれない。家族がなぜ泣いているのかもわからない。自分の亡骸を見てもなお、どうしても信じられないと思ってしまう。こういう死の自覚なき亡者は、自分が死んだ現世の場所で時をすごし、時々賽の河原に来ては、唯何もせずに立ちつくしている。そんな魂が河原にはたくさん彷徨っている。
あの世からでも、この世からでも、亡者には死んだ事を悟らせねばならないのだ。さもなければお迎えの舟も来ないのだから。

この世への未練

若い女性が、川岸に立っている。迎えの舟がきているのに乗ろうとしない。むしろ反対の方ばかりを気にしている。すると突然、彼女の姿が消えた。
どうしたのかと意識が向いたとたんに、目の前にテレビ画面のような映像が映し出された。

女性がいるのは、自分が住んでいた家なのであろうか。仏壇の前にいる若い男性が、幼子を膝の上に乗せて、仏壇の写真に向かって何か話しかけている。
「この子のことは心配しなくていいよ。僕が君の分まで一生懸命に面倒を見るから。だから迷わずに成仏して、空の上から二人を見守ってください」
生前の夫と子供なのであろう。彼女は残してきた幼子のことが心配で、この世を離れられなかったのである。夫の言葉を聞きながらようやく納得した妻は、涙をぬぐうと夫と子供を両腕に抱きかかえるようにした。もちろん触れることはできないのだが、お互いの心はそれでも十分に伝わる。

賽の河原に戻った彼女は、そのまま舟に乗り込んだ。一度だけ振り向いたようだが、後はまっすぐに前をみすえていた。舟は穏やかに向こう岸へと消えていった。

「この世への未練が強すぎると、素直にあの世へ旅立てない。だが、ここにいても何もしてやることは出来ないのだから、早くあの世に行ってそこから見守るのが正しい道。この世に残されたものも、いつまでも思いすぎていてはいけないのだ」
あの声がそう語った。

舟がひっくり返る

どこかで見たような顔である。つい最近死んだ有名な文化人のようだ。
乗り込んだ舟が川の中程に進んだところで、急に舟が大きく揺れだした。男は必死で舟縁をつかんで、落ちまいとするのだが、揺れはさらに大きくなり、そのまま川の中に放り出されてしまった。河原にずぶ濡れでたどり着いた男は、寒さと恐怖に震えていた。しばらくして、ようやく落ち着きを取り戻した頃、またもや舟が迎えに来た。再度乗り込むのだが、結果は前と同じであった。もうあきらめれば良いのに、なぜか幾度となくそれを繰り返してやめようとはしないでいた。

現世ではテレビにも数多く出て、世界平和や弱者の人権などを叫んでいた人物が、どうしてなのだろうかと不思議でならなかった。すると、あの声がそのわけを教えてくれた。

「全てが偽りの言葉だったのさ。すばらしいことを言っているという自己満足と虚栄心、有名人なのだという傲慢な心でいっぱいだった彼は、本当の思いやりも他人への暖かさも、全く持ってはいなかった。
残念ながら現世に暮らす多くの人は、心まで見通せる正しい目を持っていないから、簡単にだまされてしまうのだよ」

何度も舟から投げ出されるうちに、自分の邪悪さに気がつき、ようやく地獄に落ちることができるのだそうである。いったいいつになれば地獄に落ちる事ができるのやら。

石塔場と地獄の鬼

何人かの幼子が、河原で石の塔場を積んでいる。もう少しで積み上がりそうになると、どこからか鬼が来て塔場を崩して邪魔をする。涙を流し大きな声で泣きながら鬼に抵抗するのだが、いかんせん相手が悪すぎる。大きな声と言ったが、実は声は一切聞こえない。ここは、声も音も一切ない無音の世界なのだ。それでも心の叫びは聞こえてくる。

そこへ一人の男の亡者が通りかかった。初めは見て見ぬふりをしていたのだが、やがて絶えきれなくなったのだろう。完成しそうな石塔場を壊しに来た鬼の前に立ちはだかった。不思議なことに鬼どもは、手向かいもせずにだまって姿を消してしまった。

しばらくすると女性の亡者がやってきた。子供の母親のようだ。ふたりは、しっかりと抱き合って再開を喜んだ。
母と子、それぞれの舟に乗って川岸を離れたが、二艘とも途中で沈んでしまった。幼子を助けた亡者が乗った舟もまた川の途中で沈んでしまった。これは一体どうしたことなのだろうか。

わけがわからない私は、声の主にこちらから尋ねてみた。
「どうして、このようなことに。それぞれ現世で悪いことをしていたのでしょうか?」
質問に対する説明は、とうていこの世の人間には思いも寄らない事であった。

そもそも塔場は亡くなった人を供養するためにある。賽の河原に塔場を立てるということは、その人をこちらに呼び寄せる事に他成らない。
幼子は、「石を積めば母親に会えるよ」とだけ、邪悪な何者かに吹き込まれたのであろう。そしてそれは嘘では無い。

実は鬼どもは、地獄の閻魔の家来達であった。石の塔場を完成させるということは、その相手をこの世からつれてくること、つまりは殺す事を意味していた。だからこそ、幼子に親殺しをさせないために、鬼は塔場を積むことを邪魔していたのである。

死んだ我が子に会いたいと強く望んだ母親は、賽の河原から呼ばれ、自らの命を絶ってしまった。結果として親を殺した幼子と自殺した母親は、共にその罪で舟が沈んだのである。救いなのは、無知故の行いなので、二人ともすぐに地獄から浮かび上がって仲良くあの世へと旅立てることである。

子供を助けた男も罪を犯す手助けをしてしまったことで、舟が沈んだ。これも無知故のなせる業であろう。だが、もしも真実を正しく見極めることの出来る眼を持っていたならば、こんな事にはならなかったであろう。

この世における見せかけの姿や真実など、その多くは偽りの本質を持つ事に気づかねばならない。声の主が諭してくれた。

魔 物

賽の河原には、亡者そして奪衣婆や地獄の鬼の他にも、さまざまな妖怪やイキモノがやってくる。
賽の河原の遠くの方に、奇妙な姿のイキモノがおり河原全体をみている。その姿は、魔界に住む魔物の姿形だとおもえるのだが、大きさは人間の足ほどしかない。形もぼんやりとしており、定まっていないようにさえ見える。昔の絵双紙に出てくる邪鬼のような姿にも見えるのだ。

「みるな。意識を向けるな」
これまでとは明らかに違った厳しい声が聞こえてきた。
人の魂はたとえ悪人であっても、地獄に落ちて反省すれば、いずれは賽の河原に浮かんで来ることも出来る。だが、地獄にすら落ちる事のできないものもいる。
悪の限りをつくし、ついには人としての心すら失ったものは、最後には魔となってしまう。魔界に落ちたものは、もはや再生する魂すらもってはいない。ただ、神仏の目を逃れて闇に潜み、人間や亡者を誘っては仲間にしようとする。それだけが、彼らの存在意義なのである。

輪廻の輪からもはずれた魔界の住民は、助けようと神仏が手を差し伸べたり、見つめたりしただけで、完全に消滅してしまうのである。彼らに救いはない。あるのは永遠の消滅だけである。
彼らは邪悪な心を見つけると取り付いて、さらなる悪行をするように仕向ける。「魔がさす」とは、彼らがとりついたことを意味しているのだ。そうなれば、もはや自分ではどうにもならない。

だが、恐れることはない。清らかな心、正しい行い、真面目に生きている魂には、彼らは近寄ることすらできない。常日頃の生き方が、魔物を拒絶することになる。心の醜いモノに興味を持ってはならないのである。
私はあわてて視線を魔物から遠ざけた。

空飛ぶ舟

どこからか、みすぼらしい身なりの亡者が賽の河原に現れた。腰をかがめ、足を少し引きずるようにして、歩いてくる。粗末な衣服で、見るからに乞食やルンペンなどとさげすまれ、他人から見下された生活を送ってきたように見える。だが、どうしたことだろうか。川に向かって歩く姿は、いつしかしっかりとした足取りに変わり、その顔つきもおだやかそのものである。しっかりと前を見据えた両眼は、鋭さの中に温和さをたたえて輝いていた。
船着き場につくと、着ていた物を自ら脱いで丁寧にたたむと、その場にかしこまっている奪衣婆に手渡した。お婆がうやうやしくそれを受け取った時には、すでに人物の身体は淡い光に包まれて舟の上にあった。動き出した舟は、水の上をすべるようにみえた次の瞬間、ゆっくりと空へと舞い上がって行った。やがて舟は小さなきらめきを残して、空の彼方へと消えてしまった。

あっけにとられて見送る私に、かの声が話をしてくれた。
「良いものをみたな。現世にも多くの善人がおり、さらに修行の最終段階を終えた魂もある。
あの人物はこの世であらゆる辛酸をなめながらも、人を恨むことも、己の人生を呪うこともなく、唯ひたすら与えられた命を大切に生きてきた。人生の最後には残飯をあさりながらも生活保護を辞退したのは、くだらない意地のためではなかった。自分が保護をうければ、それを負担するのは社会の他の人々であり、その分苦しむ人が世の中に出来てしまう。そう考えたのだ。善意の施しはありがたく受けながらも、最後は飢えて命を落とした。いや戻ってきたのだ。

この世への未練も、いかなる思いもなく、最後まで自分の命を全うし尽くした清らかな魂は、あの世でも神界の高みへとのぼっていく。
現世でその事に気がつくことが出来る魂は幸せである。そなたも励めよ」

諭すようにして語り終えた声の主が最後に言った。
「さあ、もう戻りなさい」
その声に、素直に従うことにした。
帰ろうと思った瞬間、すでに賽の河原を離れて、自分の部屋の天井あたりにいることがわかった。
眼下に自分の身体が見えた。妙に懐かしくてうれしくなった。大急ぎで近寄ると身体の中に自然と吸い込まれていった。
はっと我にかえったのだが、もはや何も覚えてはいなかった。
「いま、夢を見ていたようだけど。あれ、どんな夢だっけ」
布団の温もりを感じながら、ぼんやりと考え続けていた。

令和元年(2019)5月12日


民話
秋山鷹志

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