オン草紙の和歌集

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『雨水(うすい)』です
若竹 雨水 ヤマトタケル夢幻の道 和暖流 赤鳥居

小さい風 大きい風

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春の中 小さな風が 忍び寄り
       花びらひとつ つかんで舞った


春が過ぎ 大きな風が 舞い降りる
         梢を鳴らす 花の渦潮



 詩を書こうと思いながら結局やめた。その言葉の一部を使って和歌にしてみた。本当はこれも長歌にでもできればよかったのだろうが、そこまで考える根気がなかった。いや、能力が...。

 で、すでに季節外れの春の歌ができあがった。日本人の繊細な感性は、自然の営みひとつでも、その感じ方が微妙に異なる。風ひとつとっても同じ事が言えるのだろう。

 花びらが一枚だけひらひらと舞う。本当は風の仕業ではないかもしれない。でも、おしとやかで物静かな小さな風がそっとやってきて、遠慮がちに花びらを一枚だけつかんでゆく。そんな風情を嫌う日本人はいないだろう。

 春の盛りになると、早くも花吹雪が至るところで舞い始める。大きな風は、枝も折れよとばかりに木を揺さぶり、梢は悲鳴を上げる。多くの花びらはその乱暴狼藉を逃れるかのように空に舞う。花びらで作られた渦潮が、あちらこちらの虚空に舞い上がる。


 日本人の感性の原点のひとつかもしれない。むろん桜の花見は、そんなに古い時代ではない。しかし、縄文時代でも、野に咲く花、名も知らぬ古木の花に、同じ感情を抱いたであろう事は間違いがないだろう。



手をかざす

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どれも同じ情感を詠んでいるのだが、後の二首は少々古い言葉で飾られているので、一首目を詠んでみた。




   山すそに 手をかざしたる わが思い
        届けてほしい 山並みはるか


   あやぎぬの 袖振る我を 山並みよ
        伝えておくれ 峰を揺らして


   薄衣に 透けし乱れの 花模様
        散らせし君の 知るよしもなく


 いうまでもなく、「袖振る」には、さまざまな呪術的な意味があるが、恋しい人を思い再会を願う儀式ともなる。
 それを現代風に詠むのは結構難しい。そもそもいまでは和歌がほとんど詠まれないので、さまざまな言葉が新しく生まれてこないのだ。そんななかで、パワースポットなどの流行により「手をかざす」行為は、いまでも通用するようである。普通は大木などに手をかざして、その霊気をもらうのだが、ここでは逆に、自分の思いを山裾に伝えている。

 日本は国土の70%が山の山岳国家である。連なる山並みの景色は誰でも必ず目にしており、昔は連なる山並みのその先に思いをはせたことであろう。その感性はいまも変わらない。なればこそ、遙か遠くの人にもこの山並みは続いているだろうから、思いも伝わるだろうと。



春を着こなす

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   雨水の日 告げる女性の あかるさは
       花より先に 春を着こなす


 お天気お姉さんの呼称は、差別だと叱られるかもしれないが、やっぱり天気予報士では味気ない。「あかるい」のは、その衣装だけでなく顔つきも、全体の印象すらも華やいで見えてくる。カンザクラのようなしとやかで控えめな、柔らかい鮮やかさ。まさに日本の美。絹のような柔らかさとうすく透けている感じで、どぎつい原色はなくても十分に春の明るさが表現されている。

 雨水(うすい)とは言うまでもなく、雪から雨に変わるころ。カンザクラの便りと共に伝えられることも多い。テレビ画面の中の女性の服装も華やいでくるころである。淡い暖色や白色が増え、色から柄に変化してくる。引きこもりの多いこの頃では、自然の景色よりも女性の服装で、季節の変化を感じているのかもしれない。それでも、窓を開けて外の風を引き込むと、春の柔らかさが感じられるようになってきた。もうすぐ春だな。

 女性が着こなす『春』、男性はどうも鈍いのか変化に乏しい。私も、昔のように紫色のスーツでも着たくなった。心が弾むように。



おめでた だって!

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  週一で 届けるだけの 若妻(ひと)なのに
     おめでたと聞き 心晴れ晴れ

 「ヤクルトを届けてくれる若妻の おめでた聞けばこころもなごむ」
と詠めば素直な歌が...どうも良い語彙が見当たらない。解説ナシなら、こちらの句でないと意味が伝わらないかも。だが、どうしても強調したかったのは、ほんの少しの縁しかない人のことでも喜べる、心が和むというより霧が晴れるようにさわやかさが広がった事なのだ。


 ここ数年、宅配の乳酸菌飲料を飲んでいる。きいているのかいないのか、正直よくわからない。ただ、宅配をしてくれる方が非常によく変わるのには驚いた。が、それも今の人になってから落ち着き、多分1年くらいは、続いたようである。
 勧められるまま他のものも時々購入していると、月にそれなりの額となり、貧乏人には結構つらいものがあった。が、いまの若い人妻さんは、【え、どうして知っているんだって?それは、ある商品について「うちの主人も飲むと『とてもよくきく』と言ってます」と以前に聞いたからです】無理強いはしないで、すぐにひっこめる性格の善い女性だったので、長く続けてしまった。

 何か言いたそうな顔で、「じつは」と切り出したので、「あ、また変わるんだ」と先回りしてしまった。すると「赤ちゃんが出来まして」その一言を聞いた途端に、なぜか私の心まで晴れ晴れとした気持ちになったのだ。全く知らない赤の他人で、週に一度、一言ふたこと、言葉を交わすだけの仲なのに。まるで、身内か親戚のおめでたのように、素直におめでとうと言えたのだ。

 人間同士の縁とか、関係性がもたらす潤滑油のような、ほんの些細なやり取りが持つ不思議な力を感じてしまう。最近の脳科学では、他人が喜ぶ姿を見ると自分の脳内にも快感物質が出るという事がわかってきたと言うが、そんな小難しい理屈以前に、人間は細やかな心の機微を理解できていたのだ。ただ、最近その人間同士のささやかでもほっとするような関係性が、失われてしまったような気がする。そんな社会は、どんなに高度な文明や経済的豊かさがあろうとも、砂漠のような乾いた社会でしかないだろう。大げさに言えば、そんなことも思いながら、この歌を詠んでみた。


終わらぬ雪の舞

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 東京では昨年2月の大雪ほどにはならないとの予想であったが、ここでは朝からの雪がまたさらに激しさを増している。降りしきる雪の舞は、果てることのない永遠なものを感じさせてくれる。雪国と違い、たまの雪なればこそ、感慨も深いのだろうが。

 風に揺られベランダの奥まで舞い込むのは、まさに雪の精か、いたずらな雪小僧か、それとも雪女の悲しい涙なのか。雪はあまりにも多くの感情を呼び起こす。だがそれはとどまることなく、次々と虚空の静けさにうめられていく。

空うずめ こずえを隠し 地もねむる  雪 なお降り止まぬ 消せぬ想いに

 空も大地もすべてを包み込んで消してしまう雪でさえも、わが心の奥底に燃える小さな灯(ひ)を消すことは出来ないでいる。その灯が、いかなる想いなのか、今ではそれすらわからないのに、それでも小さな炎は燃え続けている。はるか昔、青春の残滓か、あるいは命のともしびなのか。ただ、知らぬ間に静かで透明な時が流れているだけ。

老いらくの恋

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 花冷えに 風より凍る 冷たさは
    雪舞(ゆき)眺めたる 独り身のうえ


 もう春なのに。花冷えの風よりも、季節外れに舞う粉雪よりも、心がしんしんと冷えていくのは、やはり人のぬくもりのない独り身の寂しさがなせる業なのだろうか。
ああ、老いらくの恋でもしたいな。



ところで、まだ1月2日なのですが...。今年は寒さが厳しいから、早く暖かくなってほしいという気持ちが出たのかも。

希望の年に

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 新しい年が明けた。平成27年(2015年)は、希望に満ちた明るい年となることを祈らずにいられない。

 生かされし 命かかえて 歳経るも
      すべてを包む 初日の光輝(ひかり)

 毎年毎年、だまっていても年は改まる。だが歳の方は、むやみやたらと無駄に重ねているようで、何とも居心地が悪い。それでも元旦になれば、「今年こそは」と、なんとなく意気込むのも日本人なればこそであろう。

 政権が安定しているというのであれば、内憂外患の現状を打破すべく、たとえたった一つでも良いから、政権の命運を賭して改革に挑んでほしい。絶望の20年の間に、多くの日本人が、あまりにも挑戦することを忘れてしまった。
 だが同じ時期、この世に出てきた若い人たちは、新しいこと、世界に挑戦することに、何のためらいもない。まさにサムライの心意気である。あ、ここでいうサムライは、孤高武士型気質の意味合いだから、男女の別も職業の違いもないよ。詳しくは、「日本人の気質」を読んでほしい。ん、宣伝になってしまった。


「星の砂」を聴いたら

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 偶然、久しぶりで小柳ルミ子の「星の砂」を聴いた。そしたら、なぜか、遠い昔が思い出された。触発されて詠んだのが、この歌と「幼き恋」の歌である。

 平凡な 名前でしょうと 微笑んだ  君を 初めて 知りし よろこび

 夜間の専門学校で知り合った彼女だった。偶然、私の席のすぐ前に座った。それから卒業までの1年。彼女はずっと同じ席に座り続けた。
 初めて、二人だけで喫茶店の片隅に座った。向かい合わせに。そして、自分の下の名前を教えてくれた。笑いながら、「平凡な名前でしょ」と。その輝くような笑顔に、一瞬私は、聞いた名前を忘れてしまいそうになった。名前などどうでもよい。彼女が、はじめて自分のことを、クラスの他の人が知らないであろうことを教えてくれた。その嬉しさは、歌にも詠めないほどであった。
 「そんなこと...」彼女がどう受け取ったかはわからないが、そう答えるのが精いっぱいだったのだ。

 東京は冷たすぎるとつぶやいた 終わりし恋に 声すらなくす

 彼女は、私より一つ年上で、すでに働いていた。私はまだ、貧乏学生のまま。目立つほどきれいな彼女が、女性ばかりの職場で、周囲から妬みや嫉妬、いじめを受けるのは、ある意味当然であった。よく疲れたと言っていたが。  「東京の人は冷たいから、田舎に帰ろうと思うの」
 それが、別れの言葉であることは、よくわかっていた。そして、彼女が何かを期待したのかも。今のろうたけた私なら、両親を投げ出して、学校もやめて、田舎についていったであろう。だが、当時の私はまだまじめだった。言葉はおろか、声すら発することが出来なかった。高ぶる感情の渦の中、自分がどこにいるのかすらわからなかった。


幼き恋

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 若い恋というにはあまりにも恋愛経験がなく、幼い恋であった。貧乏が当たり前の時代、全学連の喧騒をよそに、私は大人の恋をした。大人と言う意味は、子供のころの淡い初恋でないというだけで、実体は、幼い恋そのものであった。お誕生日が近いと聞いて、好意を持っていた女性にバラの花を一輪とつたない詩もどきを渡した。初めてのラブレターだったのだろうか?いまなら、もう少しましかもしれないが、バイトしながらの学生には、それが限度だった。

     バラ一輪 幼き恋の あかしなる 枯れ行くままに なすすべもなく

 幼い恋は、お互い様であった。幼さは時に残酷ですらある。純粋なるがゆえに、お互いを傷つけてしまう。遠くから見かけても近寄れず、すれ違っても、声すらかけられない。それが、お互いの気持ちなのだと誤解が生まれ、そのまま、遠くかすんでいった恋心。それでも、見かけるたびに、心は熱く、息苦しさは増すばかりだった。なすすべもなく。

     身を捨てて 永遠の命を得た君に  老いさばらえる 我が身 悲しき

 言葉をかわさなくなって2年が過ぎたある日のこと、彼女は自らの若い命を絶った。永遠の若さと命を、彼女は手に入れたのである。無常は世の常、すべてのものが移り行く。なのに、なぜ、彼女への憐憫の情、思慕の情、後悔の念、すべてを流してくれる川がどこにもないのだろうか。探し続けたが、この世のどこにも見つからない。

     うつろえし 世の習いとて 身に染むも  思いのたけを 流す川なき

 ひたすら老いて、なすすべもなく無為の時を刻む我が身。それでもなお、この身を捨てることすらできない。その哀れさに、彼女は何を思うのであろうか。


新しき年

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 伊勢・出雲の遷宮後、はじめての新年[平成26年(2014)]が明けました。新しい御宮と同様に、凜とした精神で、これから迎えるであろう激動の時代を、毅然として、かつ柔軟に生き抜いていきたいものです。

 家の前の公園で、1羽はぐれたハトがいました。群れが集まって同じ場所でえさをついばむのを遠くから見ていました。群れが飛び立つのも見送って、加わろうとはしませんでした。一夫一婦キ言われるハト。まだ一人いや1羽なのでしょうか、それとも。思わず顔をのぞき込んだら、逃げもせずに私の顔を見つめてました。なんとなく、同病相哀れむの感がありました....。


国見(くにみ)とは

 国見(くにみ)というのは、昔、天皇や権力者が、山など高い所から自分の所領や人々の暮らしを見たことを言う、と解説されています。また、これは神聖な宗教行事のひとつでもあったそうです。しかしこの行為、支配地の確認とか領民を見るとかいう特定の目的でなければ、およそ日本人なら誰でも行う事ではないでしょうか。

 国土の7割が山地の日本では、小高い丘、峰、山の頂、周辺に有るちょっとした高見に上って、景色などを見ることは、当たり前の風景です。そして、その目的も、そこで味わう感慨も、人それぞれ時々の状況で、まったく異なるものになります。
 全国には、「国見峠」や「見返峠」と言う地名が残っていますが、その数は意外に少ないです。それは、逆に、この行為が日本人にとって、あまりにも日常の風景であったことを意味しているのでしょう。そこに暮らす人々にとって、あまりにも当たり前の事は、それを表す単語がないことがあると、言語学でも言われていますから。

 別れ、望郷、帰郷の喜び、愛の確認、自然への憧憬、登る朝日、沈む夕陽等々、様々な感情がわき上がる場所、それが国見などの『高見』なのです。したがって、歌にもっと多く詠まれても不思議はないのですが、言葉にするよりも、それぞれ自分の心の内に大切にしまってしまうのかもしれません。

 国見は言い換えれば、峰から、頂から、小高い丘の上から、絶壁から.....そんな言葉になるのでしょう。
 そんな、国見いや高見をいくつか詠んでみました。

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@を現代風で詠めばAに、Bが同様にCになる。かな?

Cで、故郷(ふるさと)に『待つ』ではなく『置く』にしたのは、植物の名前が二つ入ることを避けたのと、待つという相手からの視線ではなく、こちらからの視線『おいてきた』を強調したかったからです。

橘(たちばな)

 ところで、橘(たちばな)は日本古来の植物で、日本人にとっては特別な感慨をもつものだったようです。橘の姓もあれば、家紋もあります。いまでも花シリーズの香水には、必ず橘が入っています。日本人が愛して止まなかった香りの植物。それがいま絶滅危惧種に指定されています。寂しい限りです。古代日本人が愛したものを愛せなくなったと言うことは、彼らの持っていた豊かな感性を失うことにもつながっているからです。自生しているわずかな橘を、大切に守りましょう。吉武利文さんと言う方が、「橘の香り」という本を書いています。

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 愛する人に会えない寂しさを、笛の音で紛らす。交通網が発達し、携帯まである現代では、この切ない気持ちも、すでに理解できない感情になっているのかもしれませんね。





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 眼下に広がる遠い海、風もないのに磯の香りが感じられるようだが、気の性だろうか。波もなく穏やかで静寂の海に面した入り江からは、まるで人々のざわめきが聞こえてくるかのように感じられる。句頭を、『風』でなく『波』にしたのは、下の句のざわめきに対する静けさを強調したかったのです。さらに、波も見えないほど遠くの海から磯の香がするような。あまり解説するのは野暮ですね



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 結局は、こういうことでしょうか。高見に立って眺める人の数だけ、思いや情がある、と。







蓐(しとね)とは

 ここで蓐(しとね)とは、寝床というような意味です。『座るときや寝るときに下に敷く物。しきもの。ふとん。』なので。

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 日本武尊(ヤマトタケル)ではありませんが、遠征の旅。昔は、野宿が当たり前だったのでしょうか。過酷な旅のなかで、ひとときの安らぎの時間。うたかたに見る夢は、うつつか幻か。愛しい人の膝枕のぬくもりが、夢でもうれしい暖かさでしょう。このような状況であればこそ、詠まれる国見の歌も切なくなります。




かぐや姫

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 かぐや姫は月からの迎えに際して、羽衣を着る前に、不老長寿の薬を天皇に残して別れを告げたと言います。羽衣を着ると、もはや人間界での出来事は全て忘れて、月の姫に戻るからです。

 羽衣を身にまといながら、どのような別れの思いをかさねたのでしょう。それにしても、悪いことをして月を追い出されたかぐや姫。いったいどんな悪いこと、オイタをしたのだろうか?気になると眠れずに、月を見てしまいます。

花 巡る


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 「春の名残をいかにとやせん」と辞世の句を詠んだのは、有名な忠臣蔵の浅野内匠頭。ほんと、潔く、さらさらと散りゆく桜に、どうしたらそんなに達観出来るのかと、聞いてみたいものです。 
 散っても、翌年にはまた帰ってくる。無常でありながら、その繰り返しこそ永遠の証なのでしょう。明日無き人間も、いつかはまた舞い戻ってくるのでしょうか?

秋山鷹志

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