今や誰もが「コロナ後」予言者、評論家

 武漢発の新型コロナウイルスの感染拡大が起きてから、すでに半年が過ぎた。全世界では1220万人が感染し、55万人以上が亡くなったが、いまなお世界的な流行(パンデミック)は治まっていない。

 そんな状況下、世界中に大きな影響を与えてしまったコロナ以後の世界について、語られることも多い。曰く「コロナ後」「コロナと共に」「ウイズコロナ」など、様々な表現で、コロナが変えてしまった世界の現状と将来について語られている。それも一人や二人ではない、実に多くの人が、まるで優れた批評家か予言者にでも成ったかのごとく、したり顔で語っている。SNS時代だからなのかも知れないが。その語られている中身は、傾聴に値するものはほとんど見当たらないように思える。

 中身の話はさておき、こうして多くの人々がもの知り顔で語るとき、何かが大きく欠落している、いや欠けていくような、そんな気がしてならない。今のSNS時代においては、誰でもが、もの知り顔で何かを語ることが出来る。私もその一人である。そうなると、多くの人によって語られる内容が、あたかも真実であるかのように一人歩きを始める。そして、今や自らの頭で考える事を停止したテレビなど多くのメディアが、それを再生産して煽り続ける。

 そんな人々の発言の洪水とは関わりなく、事実や世の中は進んでいく。少なくともこれまではそうであった。だが、今後もそうなのであろうか。語られた言葉によって、世の中自体がその方向に動いていくのではないのだろうか?実際、事実を正しく認識していないにもかかわらず、単に有名人だと言うだけの人間の発言が、値千金であるかのような重みを持って語られてしまう。そしていつしか、それが事実となる。嘘も100回続ければ本当になるように、誤った発言や、したり顔の講釈でさえも、多くの人による圧倒的な賛成があれば、それが世の中の真実として通用してしまう。

 これって、どこかで見たような気がするのだが。そう、かっての全体主義が生まれるときの過程と全く同じではないのだろうか。これまでの全体主義的な動きと、今の情報優先主義的な動きと何が違うのだろうか?

 形は違っても、何かひとつのつくられた方向性が、真に正しいものかどうか、冷静に判断して行動しないと、簡単に世論誘導や特定の思想洗脳に染められてしまうことになる。

 「コロナ後」という言葉が聞こえると、なぜか身構えてしまうようになった自分がいる。

令和2年7月10日(金)

2020年07月10日