ハレとケの喪失

 日本社会にはハレとケの区別があって日常生活が動いていました。それが、現代では区分の意識が人々から薄れてしまいました。このハレとケの喪失では、二つの事が考えられます。ひとつは、ハレの日常化によるハレとケの境界の曖昧さが、他の領域にも及んでいるのではないかということ。もうひとつが、直接ではないにせよ、どこかでつながっている生と死の喪失、とりわけ人の死の喪失です。


見なくなった人の死

 現代人は、他人の死と自分の死が直接的に結びつかなくなってしまったようです。また痛みや怖さというものを経験することなく育ったゆがんだ心は、死に興味があるといって平気で人を殺そうとさえします。中学生が小学生の女の子の首を切り付けた事件でも、そういう動機を加害者が語っていたそうです。
 この中学生の犯人は小学生を切り付けた後、そのまま自分の家へもどり着換えて、平然といつものように塾に行っていたといいます。完全に精神の一部が崩壊しているように見えます。

 好むと好まざるとに関わらず、生と死は人間が向き合う大きな問題であり、そこには明らかな境界が存在しています。ところが、死を身近に見る事が無くなってしまった現代社会では、死は忌み嫌う物であると同時に、他人の死は自分には無関係なものという感覚を生み出してしまいました。死は自分には関係が無く、他人の死は自分にとって価値が無いものなのです。だからこそ、平気で人を殺す事が出来てしまうのです。

 また死を極端にいやがり忌み嫌う風潮は、今の自分がすべてであるという考えが根底にあります。自分は自然の連なりの中、あるいは過去の先祖からの連なりの一部という考えかたがまるでないのです。意識を持っていきなり出現した全能の神のような感覚なのです。家族よりも個人が大事だという考え方も、この延長線上に生まれるのでしょう。自分が全てなのですから、家族も持たず、子供もいらないということになるわけです。


公を失った人達

 お笑い人気芸人がラジオの番組で、「風俗にも行けない」というリスナーの手紙に応えた発言が問題になりました。「このコロナが終息すれば、風俗にはお金に困ったかわいい女の子が短気で来るから、それを楽しみにすればいい」というものでした。
 NHKもこれを問題視しないと言い、さらには、この発言を擁護する人さえもいるのですが、その意味が全くわかりません。どう言いつくろうが、公の場で許されるような発言ではありません。普段、女性の権利を声高に叫ぶリベラルな人達が、今ひとつ騒がないのが不思議です。結局風俗に行く女などという差別意識が、彼ら彼女らのどこかにあるようにしか思えないのですが。これは間違いなく女性蔑視の考えでしょう。結局金で買うのだからいいじゃないかというのは、奴隷制を認めた西欧的な価値観と通じる物です。

 それはさておき、ここで問題にしたいのは別の話です。それが「場」をわきまえない発言だということです。まさに時と場所を全く無視した言動で有り、自覚のなさでしょう。ネット社会になってから、この時と場所を選ばない言動がより目立ちます。特に芸能関係者と政治家でしょうか。傲慢さと、自分は選ばれた人間なのだとの選民意識が、間違いなく共通しています。

 発言内容に少しでも正しい部分(事実)が含まれていれば、許されるというのなら、盗人にも三分の理であり、殺人者にも言い分はあると言うことになります。したがって、したり顔で擁護発言をする一部のメデイア出演者などには、唾棄するほどの憤りを感じてしまいます。

 つまりハレとケの境が無くなったという事は、様々な時と場所の認識が正しく出来なくなったと言うことでもあります。特にネットを使う上で、ネットが公の場であると言う意識が薄れています。芸能人や文化人、政治家などメディアに露出する人達は、ネットだけで無くさらにテレビなどのメディアでも同じ過ちを犯しています。

 ハレとケの喪失は、単に非日常性が失われたと言うだけでは無い、より大きな問題が裏に潜んでいるように思えるのです。

令和2年5月9日

2020年05月09日