タリウム事件で思う日本社会の無邪気さ

 タリウム事件と言っても、あまりにも時間が経ちすぎているので、ぴんとこない人も多いだろう。
3年前の2014年(H26)に名古屋のアパートで知人の女性を殺害し、6日後に仙台に帰郷した際、放火で3人を殺害しようとして、当時19歳の女子大生が逮捕された事件である。犯人は、それ以前の高校生時代にも、同級生2人に硫酸タリウムを飲ませて殺害しようとしたとされる。

 検察は、無期懲役を求刑。弁護側は、重い精神障害を理由に「責任能力はなかった」とし、全ての事件で無罪を主張。名古屋地裁は、求刑通り無期懲役の判決を言い渡した。


 さて、これまでも特異な殺人事件などにおいては、犯人の責任能力が争われた。そのうえで、人格障害や精神障害を持っていたとしても、それをもって責任能力なしとはしない判例が定まってきている。つまり、精神障害があればいつでも無罪だということでは無いという事である。被害者の遺族感情などを配慮した判決と言えるのだが、なかなか判断が難しいのも事実であろう。


 この手のサイコパス的な犯罪者において、犯行当時の責任能力の有無を判断することが果たして本当に正しいことなのであろうか、という疑問がわいてくる。もちろん、すべて無罪にとか、無条件で障害を無視しろというのではない。そうではなく、現在のように精神疾患や人格障害の加害者を裁くのに、正常な人と同じ尺度を当てはめようとすること自体、無理があるのではないかと思うのだ。

 そもそも責任能力に応じて刑罰の量刑が決まることが、正常ではない加害者にどれほどの意味があるのだろうか?元々犯罪を犯すことに対する道徳心を持たなかったり、普通の感情を持たない人間を相手にして、刑務所で反省を促すことに効果があるのだろうか?ほとんど無いだろう。なぜなら、はじめから持っていないものを呼び起こす事など、ほとんど不可能なことなのだから。


 昔は、精神に病を持つ犯罪者は、刑務所で無く病院に閉じ込めておく処置がよく行われていた。薬で廃人同様にしてしまうその処置に批判が高まり、このような事は行われなくなったのだが、今度は逆に行きすぎて、すべて正常な人と同じ扱いをするような感じになってしまった。もうこのあたりで、一度どのようにすべきか考えて見るべき時なのでは無いだろうか。

 しつこく確認しておきたいのだが、ここで対象にすべきと言っているのは、サイコパスのようにいわば生まれながらに道徳心や良心を持ち合わせない、あるいは歪んでいる人、感情が希薄で普通の人と同じような感情を持つことが出来無い人を対象としているのであり、単に精神的な病を持っているとか、人格に障害があるすべての加害者を対象としたものでは無い。むろん、ここの境を見極めるのもまた非常に難しいことではあるが。
 さらに対象としては、レイプなどの性犯罪を繰り返してやめられない人間も該当するだろう。この異常性を持つ性犯罪者に対しては、すでに海外では強制的な薬物治療なども行われているようである。

 これらの犯罪者に共通していることは、本人の努力だけでは更正がむずかしく、薬物を含む精神治療の必要性がある。現行制度でも、刑務所でもそれなりの治療は施されているというが、果たして効果はどうなのだろうか? 根本的な対処をしていかないと、とんでもない再犯が起きる可能性が無いとはしない。考えすぎだろうか?オーム真理教のテロは、サイコパスと宗教の融合によるものだとの指摘もあるくらいなのだから。


平成29年3月26日(日)

 

2017年03月26日