菩薩・小林麻央と醜女・○○ どちらが日本女性か

 長い闘病の末、小林麻央が旅立っていった。夫海老蔵の会見を見ていたら、彼女がまるで菩薩の生まれ変わりに思えてきた。自分の苦しさよりも周囲の人を気遣う行為は、まさに自分の身を捨てて人に尽くす菩薩に他成らない。そんな彼女が、最後の力を振り絞って「愛している」と言って息を引き取ったという。最後に自分の心を、夫にもう一度自ら伝えたかったのであろう。結婚会見では、「初めて会ったときに運命的なものは感じなかったのだが、次の世でもまたその次の世でも、一緒にいたい」と海老蔵に言われてうれしかったと述べている。つながった心の絆を、旅立つ前にもう一度言葉に残したのだろう。

 出しゃばることも、自己主張を前面に押し出すことも、不平不満も態度には出さないで、常に明るく、やさしく、周囲に気を遣いながら日々を懸命に生きてゆく。いわば、昔ながらの大和撫子の典型のような女性である。だからといって決して芯もなく流される女性ではないし、アナウンサーというばりばりのキャリアウーマンでもあった。

 
 一方で、同じくキャリアウーマンの典型のような醜女が世間を賑わした。東大法学部卒で、厚生省のキャリア官僚からハーバード大学の修士を経て、政治家になった。大方の日本人が一目置く経歴の持ち主。だが、その実体は、特に官僚に多い面従腹背の典型。強いものや上にはへつらい、弱いものには威張り散らす。自己尊大で、自信過剰、人の痛みをわかる心など全く持ち合わせていない。心の醜女である。

 日本人の気質で、日本人がラベルやレッテルに弱い事や、特定の能力(ここでは学力)と人格は別なのに混同するのが、大方の日本人(集団農耕型)だと書いた。まさに、そのとおりの実例である。



 大和撫子というだけで、戦前の女性蔑視の意識だとか言われてしまう時代。女性らしさを失い、男と同じように弱肉強食を好み、攻撃的で、他の人への共感や愛情を持つことも出来ない、そんな女性が理想なのだと本気で思っているのだとしたなら、それは精神の奴隷であり、また砂漠のような社会であろう。

 このような高学歴の心の醜い人間(男女ともに)ばかりが目立つ今の日本社会において、菩薩のような女性がまだまだいる事に、心からの安らぎを覚える。日本人の純粋性、清らかさが、そこに生きている。こういう日本を失いたくはない。
 
 菩薩はあの世に姿を移しただけなので、ここでは冥福を祈る事も無いのかもしれないが、合掌。

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(CM)醜女と菩薩については、「おとなの民話」で、「鬼面観音」という小作品を書いてみました。興味ある方は、こちらです。

平成29年6月23日(金)

 

2017年06月23日