指導者の暴力にみる無能と気質

 日体大の駅伝監督による暴力とパワハラが問題に。いやはや、いやはや、まさに泥沼のような日本のスポーツ界である。セクハラ、パワハラ、暴力、権力者の独善、みな同じ内容ばかりである。「日本人の気質」で、集団農耕型気質の人間が、少しばかりの権力や力を手に入れると傲慢に成り、歯止め無く暴走していくのは、気質の特徴であると述べた。したがって、それを繰り返す気はない。
 ここではスポーツ指導者が、指導内容の一部として暴力的な行為や、高圧的なパワハラによる心理的圧迫を加えるのはなぜなのか、それだけ見てみよう。

 戦前の軍隊を描いた映画では、上官がよく部下を殴るシーンが出てきたりした。スポーツの指導者が、選手に振るう暴力も、全く同じ気質によるものなのである。ひとことでいえば、己の無能さ無知さを暴力という隠れ蓑によって隠蔽しようとしているのだ。つまり、これまでも繰り返し述べてきたように、「教える技術」と言うものを無視している、日本社会の欠陥が露呈しているだけなのである。名選手が名監督にあらずと全く同じで、経験者が、優れた指導者なのではない。人に教えるというのもひとつの技術で有り、才能なのである。

 したがって、すべての人間が指導者になれるはずなど無いのだが、そこを無視してきたのが、日本のスポーツ界である。指導者には、指導するのに必要な資質に加えて、それなりの最低限の知識が必要なのである。この指導するための知識がほとんど無いから、どのように指導したら良いか、科学的に何をすれば良いかがわからない為、無能な指導者が多く出てきているのだ。

 もういいかげんで、もう少しまともに指導のための学問を習得した人以外には、指導者の資格を与えないシステムを導入すべきだろう。むろん、スポーツの指導と「道」の指導は、全く異なる物であることは、言うまでもない。○○道は、追求したい人間だけがやるべきである。

平成30年(2018)9月7日(金)

2018年09月07日