想定外の好きな集団農耕型気質

 今回もまた「想定外」という言葉が飛び交っているらしい。北海道で7歳の男児が行方不明となり、6日後に無事保護された件である。連日警察や消防などが、大規模な捜索をしたが発見できなかった。発見されたのは、行方不明の場所から直線で6-7キロも離れた、自衛隊演習場内の建物であった。

 捜索は、発見場所のある北側地域ではなく、逆の南側を重点に行われ、捜索範囲も狭いものであった。そのために捜索範囲の設定に不手際があったのでは無いかと、批判が起きている。『7歳の子供では「10キロ離れた場所にいるはずがない」「険しい山道に入っていくわけがない」』つまり想定外だったというのが、捜索した側の言い分である。


 この「想定外」という言葉、大きな事故や自然災害のたびに使われるようになった。これでは慣用句であって、本当の意味の、思いも寄らない、想像だにできなかったという意味が薄れてしまう。一種の免罪符でもある。

 東日本大震災でも多くの「想定外」が乱発された。そもそも、想定外の地震地域、想定外の地震の大きさ、想定外の津波の大きさ、そして何より想定外の原発事故。43名もの犠牲者が出た25年前の島原普賢岳の大火砕流も、初めて見た想定外のものだった。熊本で続く地震活動も、震度7の地震が2度も連続するなど想定外であり、新しい建築基準でも家屋が倒壊したのは、想定外だった。

 当事者の責任逃れに利用される場合も無くは無いが、それよりも、ここでは集団農耕型気質の思考傾向が、このような「想定外」事象を生み出すのでは無いかと言いたいのである。

 官僚・役人に代表されるように、過去を手本として、それ以上の新しいことや異なることはやろうとしない行動傾向は、多くの集団農耕型の特徴でもある。わかりやすく言えば、自分の理解可能な範囲でしか危機的な状況や、現実を理解せず、自分に都合の良い認識像を自らの中に作り上げるのである。

 「子供が出来るわけ無い」と思うのは簡単であるが、「いや人間死に物狂いになると何をするかわからない」、「子供だからと言うのはおとなの思い上がり」なのでは、と想像の翼を広げられれば、全く異なる行動になる。だが、そうなると、自分の経験値や知識から外れることを考えなくては成らなくなる。それは非常に大変な作業であり、あげくにどうしたらよいのかわからなくなってしまう。判断が出来ないのである。

 過去に従っていれば、簡単だし、何かあってもやるべき事をやったとして責任も問われない。だが、全く異なることをやるには、その指揮をする人間などが、自らの責任においてその全体の行動を決めていかなくては成らない。それが出来るのは、孤高武士型気質の人間なのである。

 想定外を想定して考えたり行動を起こすとは、そもそも何をどうすれば良いのか、集団農耕型人間には、訓練も思考回路も希薄なのである。


   有る実話を。幼稚園の女の子が、台東区谷中から新宿の祖父母の家まで、一人で三輪車に乗ってきた。一体どうやって道がわかったのか。なんとバスで何回か来たことがある経験から、道をたどったのだ。交差点に来て方向がわからなくなると、バスが来るのを待ち、その方向に進んできたというのだ。にわかには信じられないような話である。しかし、今回1週間近くも水だけで命をつないだ人間の生命力や、本来備わっている不思議な力は、大人になってなまじ知識を身につけることで、失われていくのでは無いだろうか。いつでもそう考えて謙虚であれば、子供だからと言う言葉は出てこないだろう。

 想定外とは、自分にとって楽な思考や行動しかしてこなかった集団農耕型人間の発する言葉だということを、もう一度考えて見てはどうだろうか。そうすれば、あらゆる事がちがってみえるし、社会も変わっていく。


 とにかく男の子が無事で良かった。幸運が重なったというのは、目に見えない守護が有ったのだろうと思う。

平成28年6月4日(土)

2016年06月04日