最終製品を作れなくなったのも気質
日本初の世界的な商品が出なくなってから久しい。元ソニー社長の出井が、「日本企業はものづくり神話から脱却を」で日本社会では以前から分断が進んでいた。その分断が新しいビジネスを生む邪魔をしていると論じている。
彼が言う「分断」とは官僚機構に代表される組織の縦割りである。官庁をまたがる政策などでは、およそ官僚は動かないし、中央だけではなく地方政治でも全く同じだという。さらに地方は中央のことしか見ていないと嘆く。
分断、縦割り、どう言おうとも良いのだが、縦だけでなく横も同じであろう。要はくくりへの撞着が病的段階にまで進んで、あらゆる新しいことを妨害していると言うことに他ならない。「縦割り」というのはもはや誰でもわかる一般的な言葉になったので、便利なのだが、時に認識を間違えさせる恐れもある。彼をそれを意識していたのかどうかはわからないが、分断という言葉を使ったのだろう。
彼の話はさておき、いくつか指摘しておきたいことがある。ソニーも今ではハードメーカではなくソフトの企業なのだとよく言われ、実際売り上でもそうなのだろう。しかい首をかしげるのは、なぜアップルやダイソンのようにハードで成功できなかったのかという疑問である。その問題から目をそらしている限り、日本企業のさらなる飛躍は難しいのではないだろうか。正直、なぜガラケーからスマホに舵を切れなかったのだろうか?
個人的な経験からの話は自慢ととられるので避けたいのだが、通信とソフトの世界にいた人間としての話である。
まだガラケー携帯が全盛期の頃であった。種々のアプリやサービスを考えたとき、一つの壁がハード、つまりユーザ側の端末の問題であった。この当時すでに我々の世界では今のスマホのような端末は、考えられていたのである。だが、その話を国内のメーカにぶつけても相手にされなかった。実際、メーカーでも同じ考えの技術者は複数存在していた。だが、彼らのアイデアが採用されることも、必要な投資もなされはしなかったのが現実である。
別に経営者を責める目的でこの話を持ち出したわけではなく、ハードとかソフトとかという区別を考えること自体が、製造業の基本から外れているのではないかと言いたいのだ。必要なのは、エンドユーザが手にしたいサービスを、最終製品としてどのように作り上げるかというところにある。ユーザが手にしたものが、ソフトで出来ていようが、ハードだろうが、クラウドだろうがなんだろうが、ユーザにはどうでもよいのである。日本からまともな最終製品が生まれなくなってしまったのも、ハードだソフトだ、いやAIだと手段ばかりで、目的が不明瞭になってしまったからではないだろうか。
日本の製造業全般はすでに世界から見れば遅れており、「ものづくり神話」という言葉が示すように、過去の栄光はまさに神話になってしまったのである。今でも日本の中小企業は頑張っている、世界に優れた部品を提供していると自慢するのは良いが、ならばなぜそれらを組み立てた最終製品を作り出せないのか。このことを問題としたり、取り上げたような論をメディアなどでもおよそ見かけたことがない。人件費がどうのなどという話は論外であろう。つまり、物事の本質をはきちがえているのではないかという疑問である。
日本社会が最終製品を生み出せなくなったのは、まさにくくりへの病的撞着と付随する気質の影響である。ここでそれらの集団農耕型気質の弱点を取り上げるのはやめておく。なぜならすでにいやというほど取り上げてきたし、とんでもない長い話になってしまうからである。(「日本人の気質」「歪んだ人達」等)長所である気質が、逆に短所として足をひっぱっているのが、今の日本社会全体の姿である。
いつも同じような指摘で終わるのは、悲しいことだ。もっとダイナミックに変化する激動の日本を見てみたい。
令和3年1月2日(土)