靖国神社参拝に感じるモヤモヤ

安倍氏は参拝後、「終戦の日にあたり参拝した。先の大戦において、祖国のために母や父、友や子、愛する人を残し、祖国の行く末を案じながら散華(さんげ)され、尊い命を犠牲にされたご英霊に尊崇の念を表し、御霊(みたま)安かれとお祈りした」と語った。

岸防衛大臣は13日午後2時前、東京 九段の靖国神社に参拝しました。
参拝を終えたあと記者団に対し「先の大戦で国のために戦って命を落とされた方々に対して、尊崇の念を表すとともに、哀悼の誠をささげた」と述べました。


 尊崇は「尊びあがめる」事で祖先などによく使う言葉です。哀悼の意は、「人の死を悲しく思う気持ち」で、これも死者への言葉ですね。みな神と言うよりも仏への言葉や感情です。ここに、何か割り切れないモヤモヤを感じてしまうのです。あくまで個人的にですが。


 亡くなった人の御霊安かれと、神社で祈ることへの違和感が私にはあるのです。むろん、お墓と同じでそこに神式でお参りしただけと言う考え方も出来なくはないが、それならそれで神ノ社(やしろ)とはしないのではないだろうか。

 神社はあくまで神を祀る場です。したがって、靖国に参拝したなら、国家安寧を祈念するのが本来のような気がします。まだ神になっていない仏の成仏を終戦の日に祈ることへの違和感があるのです。言い方を変えれば、戦没者慰霊を神社で行う事への違和感である。

 たしかに、たたる人物を神として祀ることは、日本の歴史においては普通にあることなのです。典型例が太宰府天満宮の菅原道真でしょう。しかし天満宮に参拝して、菅原道真の霊の昇華、成仏を祈る人はまずいないのではないだろうか。仮に道真が成仏していないとしてもそれは別の話。この世に仇をなすほどの力(神通力)に対して、その力の一部を貸してくださいと祈るのです。

 神として祀られながら、まだ仏の領域におられると考えてしまう多くの英霊のことを思うとき、真に安らかな成仏を願うのなら、それを願って手を合わせれば良いのです。千鳥ヶ淵の戦没者の碑と変わらないはずです。そうではなく、神として神社に祀ったのであれば、神に対する畏敬の念で手を合わせるべきではないでしょうか。この両方がない交ぜのままに感じられてならないのです。


私のような考え方をする人には、残念ながらこれまであったことがないですが。神ながらの道(日本の信仰心)などと関係して話が長くなるので、ここでやめておきましょう。

長く勤めた会社が靖国神社のすぐそばにあり、昼休みにはよく出かけたし、花見の季節にはござを敷いて席取りをよくやったものである。日常のなかにあったからか、本殿参拝はほとんどしていなかった。だが、このようなモヤモヤ感があったのも確かなのだろう。裏手にある茶屋や池は、静かで良かったが、最近はどうなっているのかわからないのですが。

何はともあれ、静かな心で、無心に手を合わせることが、最も大切なことなのでしょう。

終戦の日に前から思っていたことを書いてみました。

令和3年8月15日(日)

2021年08月15日|分類:政治, 社会