個人と組織の意識の落差

 今の日本人の危機意識の希薄さは、もはや語るも恥ずかしいのだが、ロシアのウクライナ侵略はそれを少し変えてくれたようである。他人の不幸を喜ぶようでいやな物言いとなったが、許していただきたい。

 しかしすべての日本人が脳天気で危機ぼけ人間なわけではない。組織の中には、きちんとした考え方や意識を持った人がいる。それもかなり昔から。

 警察庁の初代サイバー捜査課長の記事があった。今年(2022年)4月にサイバー警察局が設けられ、サイバー空間での犯罪の捜査・検挙を各都道府県警と行う事になった。いまごろようやくサイバー犯罪ですか、と言いたくなるのだが。設立の動機の一つに国民からインターネット犯罪の取り締まりを警察に要望する意識調査の結果があるという。国民の方が、まともだったというわけだ。


 1990年代後半、日本のインターネット黎明期に、インターネットに関係する仕事をしていたことがある。当時のインターネット関係者が集まる会合があったのだが、そこに警察庁からある人が来た。インターネット上の犯罪や不正アクセスなどについて意見交換させて欲しいというものだった。私自身は、この会合に参加しなくなったので、その後どうなったのかは定かではない。だが、警察庁にこの頃からサイバー犯罪部門が組織されていれば、もう少し違っていたかもしれない。

 つまりいつの時代でも、危機意識を持つ人はちゃんといるのだ。ところがそれが所属する組織全体の意識にまでひろがらないのである。とくに社会の実権を握る人々は、現状の自己のくくり(組織)に満足しているので、およそ危機意識の希薄な人が大半である。

 警察庁という組織一つでこれなのだから、日本国という組織における政治家のひどさ、危機意識のなさは言うまでもあるまい。サイバー犯罪同様に、国民の意識と乖離してしまっているのである。国民もこの意識の落差を認識しないと、悪影響は結局国民にふりかかってくる。

 あらゆる組織は長く続くことで、現状の環境が永久に続くような錯覚に陥る。その油断に、悪人や独裁者達はつけ込むのである。

令和4年6月1日(水)

 

2022年06月01日|分類:安保, 政治, 社会