成人になる教育-1


 大人になるということは、人生において重大な区切りの出来事であり、そこでは個人もまた大きく変わる時です。昔の日本においては、とりわけ武士は元服すれば、すべての責任と義務もまた一人前として扱われたので、その意義は非常に大きなものがありました。しかし、今の日本の現状をみるとき、子供と大人の明確な境もなく、単に未成年ならば犯罪を犯しても罪が軽くてすむというような特定の一面だけが、強調される始末です。

 まず、議論しなくてはならないのが、成人は何歳からかということでしょう。人の寿命が短かった時代においては、当然早く大人になります。それでいけば寿命が飛躍的に伸びた現在では、逆に成人するのはずっと遅くなってからでよいことになります。しかし、現実はどうもそうでもありません。むしろ逆に20歳から18歳に成人年齢を引き下げろという声が多いようです。なぜなのでしょうか?
 いくつになっても親離れできないで、子供のまま、精神性が大人になりきれないとされる多くの若者が出てくる始末です。病気あるいは障害としての発達障害の問題は、ここではひとまずおいておきましょう。

 一方で、すでに述べたように、未成年者の凶悪な犯罪や、未成年であることを悪用する事例が出ているのも事実です。ま、これも、精神が子供だから犯罪などを犯すのだ、ともいえなくはないですが。

 いずれにせよ、今の日本の社会では大人になるということがどういうことなのか、きちんと教えていないような気がします。
 昔、丁稚奉公に出された子供はその年齢によらず、社会というものを厳しく教え込まれました。そのなかで、一人前の大人になっていったわけです。いまは、単に成人式という、大人が新成人に媚を売るかのような儀式をしておしまいです。世界にはまだ厳しい成人になる儀式を習俗として維持している人たちもいます。ですが、それらはどちらかといえば文明的に発達の度合いが遅れている地域とみなされており、いわゆる先進国でそのような厳しい儀式はもはやみかけません。実際、儀式が過酷なのかどうかではなく、いかに大人としての心構えや自覚を、きちんと持たせられるかなのでしょう。

 大人になるということについてのこのような問題を踏まえながら、具体的な方策のひとつを述べてみることにします。

 まず前提として、成人年齢についてです。現在の20歳から18歳に引き下げてかまわないと思っています。これだけ教育が普及し、情報も過剰なほど入手可能な時代ですから、精神が18歳ではまだ未成熟なままにとどまるとは思えません。

 実際、心理学や脳科学的にも、人間の発達段階は、いくつかの段階があり、その時々の身体的、精神的特徴が見られることになります。ですが、最近の発達心理学では人間の死ぬまでのすべての期間が、それぞれの段階として捉えられるために、いわゆる大人になる明確な年齢という考え方がなくなってきています。青年期という概念にしても、20歳くらいまでと言う考えや、30歳、あるいは39歳までなどといろいろな区分があります。  青年期(思春期)の始まりが12歳ぐらいからということは大体一致していますので、その身体的変化が落ち着く18-20歳くらいを、ひとつの時期と見ることができます。

 こうして考えてくると、結局、大人になる時期というのはその社会や文化との関係の中から、国民的合意の中で形成されてくるもの、ということができるでしょう。

 18歳、つまり高校を卒業すると大人になる、ということになります。ならば、この高校時代に大人になるために教育をきちんと設けるべきでしょう。むろん、建前でいえば、教育全体が大人になるためのものだといえますが、もう少し社会人、あるいは自律(かつ自立)した精神を持つ人間になるために、役立つような事柄を教えるべきでしょう。

 具体的にいえば、高校2、3年のときにテーマごとの短いビデオを見せてその内容を考えさせるというものです。たとえば、実践的なことでいえば、振り込め詐欺、結婚詐欺などさまざまな詐欺が待ち構えているのが現実社会であり、甘い考え方は通用しないのだということをわかってもらうためのビデオです。

 各ビデオは10分から長くても30分くらいの短いもの、テーマをひとつに絞ったものがよいでしょう。以下でどんな内容のものを取り上げるのか考えていきますが、たぶん50項目くらいでよいのではないでしょうか?とすれば、週1回で1年分。休みなどを考えて、高校2年生からでちょうどよいでしょう。もちろん各テーマは、普段の授業の中でも取り上げられるものですが、あらためて絞ったテーマとして取り上げることの意義は大きいと考えます。

 高校に進学しなかった人はどうするのか。こういう点にも気配りをすることこそが、政治や行政の役目です。もし、週に1回程度その授業だけ参加できるというのであれば、近くて都合のよい高校で参加してもらいましょう。昼間働いていて学校にこれないのなら、夜間でも受講できるようにすればよいのです。学区がどうの、事業料がどうの、指導要領がどうのとくだらないことをいう人間を排除した社会、それこそが新しい柔軟な社会です。教育機会の均等というのならば、相当な覚悟をもって柔軟な社会を作らなければ、絵空事の題目を唱えるだけで終わってしまいます。

(続く)平成24年1月

2012年01月12日|烈風飛檄のカテゴリー:edu