教師と免状
教育改革では、あらゆる改革が必要となるが、そのなかで当然、教師の質の問題は避けて通れない。最近では、教師が教師としての感性が鈍くなっているのではないかという指摘がある。たとえば、いじめにしても、それをいち早く感じ取れる感性がないというのだ。
教師の質が劣化しているのは、何も教師だけではなく、ここ20年間で日本人全体の質が明らかに劣化している。そのなかで教師も例外ではないだろう。だが、一般社会から隔離されたような閉鎖的な社会では、より高い見識や知性がもとめられるなか、教育者が労働者だと声高に叫ぶ現状は、明らかに限度を越えているのであろう。
さて、ではどのようにして教師の質を高めていけばよいのか。
文部省、教育委員会などの、構造的な改革は無論必要であるが、教師側の問題として、教員免状と教員養成の問題がある。
今の日本で教師になるには、教員免状を取得した上で、各都道府県の教育委員会の採用試験に合格する必要がある。これ自体がすでに大きな問題である。一般的には、大学でいわゆる教職を履修して、教員免状を取ることになる。日本の大学がもはや高等教育機関としての役割を果せなくなっている現実は、教員養成においてもまったく同じである。ビジネスと化した大方の大学では、人員を確保するために、ほとんど無試験に近い形で入学をさせたり、中国などから日本語も話せない留学生を大量に入学させている。こうして入った学生が、ところてんで卒業できるように、ほとんどなにも学ぶことなく教員免状を取得できてしまうことになる。
教師の質をほんとうに高めようとするなら、今の日本の教育体制すべてを、根本から改革しなくてはならないことになる。こうなると、改革が先か、改革できる教師の養成が先か、鶏と卵になってしまうところはあるのだが。
教育委員会が採用を決定するような仕組みにも問題が多い。なぜなら、すでに教育委員会が形骸化し、およそ教育に関係ない人間が勤めることで様々な問題が起きているからである。一方、委員を公募すれば、特定の政治信条に組する人間しか、応募してこないという現実もある。構造問題は、部分的に手をつけただけでは解決できないだろう。
さらに、今の複雑で混乱した教員免許の問題がある。学校の種類、教科、正規・非正規、およそこの国の硬直した官僚や政治機構の縮図ともいえる。そこに既得権者や群がる利権者が加わる。教育(少なくとも義務教育までは)をビジネスだと考えるような間違った考え方は、もう正さなくてはならない時期に来ている。
きりがないので、ではどのような改革案があるのか、その中からひとつだけ述べてみたい。
そもそも、教育という重要な仕事につく人のレベルが、全国的に一定の水準以上の学力と技量をもつという保障もなくて良いのであろうか。
その意味では、教師としての最低限のスキルと知識を身につけることを、各大学任せにするのではなくて、国がきちんとした体制を整えるべきであろう。これは、教育への政治や官僚の介入ではなく、最低限度の教師の質を国が保障することである。
まず第一に、教育大学を作ろう。かつてはこのような名前の大学もあったが、今では名前が変わり、同時に、教えることの重要性も忘れられたように思える。
この教育大学は、いわゆる大学での教職のカリキュラムのような、一般的な知識ではなく、むしろ教師としてふさわしいかどうかを見極める場となる。1年程度で、ここを卒業しない限り、基本的な教員免状(現行では普通免除とか言うらしいが)が取得できない。
当然、全国になくてはならないが、それを個々にまかしていたのでは今と変わらない。ここは、批判されようとも中央集権的に行く。各県に1校程度として、それらはネット化されたひとつの大学とみなす。また、それによって自由な通学が可能ともなる。全国同じカリキュラムならば、引越ししようが、仕事をしながらであろうが、水準に差は出ない。
位置づけを、今で言う大学卒にするのか、大学4年生相当にするのか悩ましいところではあるが、入学資格は13学区卒業(大学1年)相当でよいのではないだろうか。つまり教える教科の専門知識が、13学区程度にあればよいということになる。とするなら、第6学区(小学生)程度までを教えるのであれば、12学区卒程度でも良いことになる。
要するに、この大学は、その教える生徒の程度ではなく、すべての教師に最低限教えなくてはならないことを、教える大学なのである。それを間違えてはいけないのだ。これによって、たとえ知識レベルが、博士レベルであろうとも、教える側の人間としての能力や意識に欠ける人間が、排除できることになる。
なお、4,5学区(保育園、幼稚園)は、当然別の形になるであろうが、教育大学的な考え方は同じはずである。物理的には同じ教育大学でも良い。しつけや家族との連携により重点が置かれたカリキュラム内容になるのだろう。
(注)○学区:「教育改革:制度」などで説明しましたが、6:3:3制を改めて、
1年ごとに期間を分けて、各学区(1年分)ごとに終了とする制度です。
教師を目指す学生は、ここで教育者としてのスキル、とりわけ「教える技術」を学ぶ。教える内容は、知識(学力)もあるが、低学年では人としてのあるべき道、生き方も当然含まれてくる。したがって、古くて新しい[いじめ」問題などにしても、どうとらえ、どうなくし、どう解決していくのか、具体的なカリキュラムの中で身に着けていくことになる。欧米では、いじめのカリキュラムが必須となっている。日本でも取り入れるべきであろう。
現在、教師には様々な講演、講習の受講が義務づけられているが、そのような現役教師の再教育なども、ここで行えば良い。
この全国統一での教員免状(免許)は、教育改革の様々な基になる。この資格を持つものは、教師派遣会社に勤めて、派遣教師になることができるようにする。この改革内容については、別途に述べよう。
最後に教師の適性ということに触れておきたい。
人は、様々な能力によって様々な職業につく。ならば、教師も例外ではない、例外であってはならないのだ。教師としての能力や適性がない人間を、教師にしてはいけないのだ。
個人的な話はあまり好まないのだが、私は学生時代に、かなり多くの教科を取得していたので、その気になれば簡単に教職を取ることができる立場だった。実際、周囲の人間は、数多く教師になった。そのとき、私は、教師という職業がいやだから取らなかったのではない。教師になるのが怖かったのだ。なぜなら、自分が、他人(子供)のその後を、一生を左右してしまうかもしれないのである。相手は大人ならばまだよい。それに、子供相手でも、人間としての相性もあろう。気がつかずに、相手を傷つけるかもしれない。それが怖かったのだ。
いま、そのような恐れをもって教師になる覚悟をした人間が、どれほどいるのだろうか?教育大学では、この「恐れ」を自覚させる教育をぜひやってほしい。
神・自然への畏敬を忘れた現代の日本人が、自己中心的で傲慢になった。子供を教育することの恐れを忘れた教師は、自己保身だけの労働者と化す。
平成24年4月