自律・自尊の社会を目指して

 この烈風飛檄では、行き詰まりを見せる日本社会を変えるべく、さまざまな改革について述べている。では、その目指す社会とは、いったいどのようなものなのであろうか。

 短い言葉で表すならば、こう表現してみたい。 『自律・自尊の社会』と。

 自律とは、経済的に自立している意味での自立を含み、その上で自らを律する(制御する)事のできる人を意味する。 傍若無人で自己中心的な人間が、あまりにも多くなりすぎた今の日本で求められるのは、この自律の精神であろう。他人の思惑や誘惑に引きずられたり、経済的利益の追求のみにおぼれている人は、けっして真に自由な人間とは言えまい。欲望の鎖にがんじがらめになっていて、精神の自由はありえないのだから。

 経済的な自立においても、何かと言えば、「国が、国が」と要求するばかりでは、真の自立とは言えないだろう。 経済的・社会的にも自立した生活基盤のうえに、高い見識と強い意志とを持って、自らの行動を律することのできる人々が生きる社会、それが自律した社会である。


 自らを律するためには、当然、自らの内に基となる規範がなくてはならない。他人と比べたり、迎合や追随するような、自らの外に規範を求めるのは自律ではない。では内なる規律は、どこから生まれてくるのであろうか。日本人ならば、それはその感性のうちにすでに宿っている。「おてんとうさまに恥じない」感覚こそ、まさにそれである。


   もうひとつの自尊とは、心理学的にいえば、自分自身を価値あるものとする感覚のことである。自分自身の存在や生を価値あるものとして評価し信頼できることで、精神の安定が得られ、自己のみならず他者に対しても受容的になる。つまり、自分自身を認めて、初めて他人もまた認めることができるということになる。
 このようにして、単なるうぬぼれや自己満足ではなく、他人を尊敬しその人格を重んじる、独立自尊の精神が生まれる。自尊があることで、独断的な自己や、孤独な自立である孤立からも解放されることになる。


 人間として最低限の物質的な豊かさを基盤に持ちながら、気高い自尊の精神によって、自律した生活を送る人々が暮らす社会。それが求める社会である。ひたすら欲望を肥大化させ、物質的なものを求め続けるだけで、心の充足も得ることができない社会を離れて、人間としての豊かな精神性を持つ高い次元の社会を目指すのだ。



[補足]

人間の内なる規律とは

 その根本は、神や自然に対する畏敬の念であろう。それが、知性によって、倫理観や道徳として立ち現れてくる。それは日本人が、長い歴史の中で獲得してきたものでもある。
 感性というと、感情と捉えられがちであるが、感情は、感性の表現された一部分に過ぎない。感情も、知性もすべてを含めて、人間の本質を形作っているのが、感性である。そしてそれは経験や体験によって、さらに研磨されていく。

 人類学的には、このようないわゆる『良心』を人類が獲得したのは、それがより良い生存に寄与するからだとの説もあるが、人類が文化を獲得してから5万年、いまだに良心が残っているのは、あながちそのためだけではないのではないだろうか。「良心」に関しては、様々な学問分野でとりあげられているので、ネット検索をすれば、いくらでも諸説を拾い読むことができるので、これ以上は取り上げない。

 ここで、人間の内なる規律として、『良心』を持ち出しては見たが、私自身は、それが同じものだとは考えていない。わかり易くするための例示的なものである。すでに述べたように、感性そのものともいえる内なる規律は、良心というような社会的、表層的(といって悪ければ知性的)なレベルのものではなく、より根源的なものだと考えている。

自律は弱者切捨てとは無縁のもの

 自律しなくてはならない。こういう話をすると、障害者をはじめとする弱者を無視するのかという、反対のための反対を論じる人が必ず出てくるので、あえて加えておきたい。
 本来、人間はその存在においてすでに自律し、自尊を持つ存在なのである。それが忘れ去られ、あまりにも自己中心的、経済合理性最優先(金儲け)、行き過ぎた効率重視が蔓延する社会になってしまった。ゆえに、原点を示したに過ぎない。どのような弱者であれ、人である限り、その存在においては平等である。その自律と自尊ももまた同じであろう。


参考資料
『日本人の気質』

2012.05 改

2020年12月14日|烈風飛檄のカテゴリー:basic