教える技術、才能

 以下の様々な出来事の話を読んで、何か気がつかれるであろうか?

・2012年12月千葉県の河で,いくつかの高校のボート部の合同合宿が行われた。朝から風が強い中、練習が開始され、突風のため参加した半数以上の18艇のカヌーが転覆し18人が冷たい河に投げ出された。幸い死者はなく、6名が低体温で入院した。この事故に関して、千葉県野担当者と合宿を委託された千葉ボート協会の担当者が会見を行った。「練習開始時はいつもと同じ風で問題はなかった。突然突風が吹いて、1隻が転覆したので、生徒に避難指示をしたが間に合わず、次々と転覆してしまった。判断に間違いは無かった。」

 だが、当日は前日から風が強く朝には白波も立っていた。他県のボート協会の担当者は、「白波が立っていたら、陸上練習に切り替えるのが普通。ただ、具体的に風速がいくらならどうする、というような決まりは出来ていない。」事故のあった漁協の人減は、証言する。「こんな風が強い日は、漁師でも漁には出ない。朝から出漁などしていない。」

・兵庫県の高校で、野球部員10名が、バスで乗り合わせた障害者を歩く先の床にカバンをおくなど、いたぶるような卑劣な行為を行ったばかりか、それをビデオに撮影してネットにあげていた。同乗していた乗客の通報で学校が自体を知り、10名に5日の自宅謹慎処分を行った。全国の野球部での暴行、非行などが数多く発生している。単にクラブ活動の中で、野球部の数が多いからだけなのであろうか?

・大津をはじめとする、数多くのいじめによる事件や自殺などが後を絶たない。しかも、そのほとんどにおいて、校長など学校側と教育委員会は、隠蔽とごまかしを繰り返す。自殺を病死にしてくれという学校からの要望はおもてにでないだけで、かなりの数に上るという。

・オリンピック金メダリストが、教え子に対する準強姦容疑で裁判にかけられている。性行為は他の女子とも行っており、この女生徒とも合意の上であったと主張している。

・フィギュアスケートは、男女とも日本のお家芸とも言える程の強さを発揮するようになっている。だが、先週の多くは、外国人コーチの元で指導を受けている。その為に海外に赴く選手も多い。スケートだけでなく、数多くのスポーツにおいて、多くの選手が、コーチや指導を求めて海外に出かけている。

・全日本柔道連盟が、暴力を用いた指導を行ったとして、全日本の15名の選手が、JOCに訴え出た。暴力だけでなく、人格否定の罵詈雑言など、全柔連の体質そのものが問題となった。さらに、架空指導者への補助金受領など、次々と問題が出ているが、会長以下理事はまったく変わらないし、変えようともしない。


 上記に掲げたいくつかの例を見てみよう。

☆指導者が、指導するにたる知識や技量を持っているとは思えない。プロの漁師が漁に出ないような天候であるうえに、長さが8mも有りながら、横幅が人間ひとり分しかない、細い不安定なカヌーである。その指導者なら、漁師と同じ天候をみれるプロでなくてはならないはずである。部活の顧問を臨時でやっている教師ではない。いくつもの高校から来ている、50人近い合宿を指導するボート協会の指導員達である。それが素人のような話をしていることが信じられないのだ。

☆学校の部活動の顧問も、専門性のない教師が便宜的に行っているのがほとんである。その為に柔道などの事故も後を絶たない。教員免許をもっていることだけで、素人が専門性を要求されるもの、とりわけ危険を伴う武道系スポーツなどを指導して良いのであろうか?

 一見、これらの話には何も共通項は無いように思えるかもしれない。だが私には、これら全てに共通した今の日本社会が抱える問題点が見える。それは、教える側の問題である。優秀な選手が必ずしも優秀な指導者ではないと言うことは、プロ野球などでも時に言われてきた。だが、社会全体が、教えることの重要性を正しく理解できていないのではないかと思えるのだ。教える事にも、その為の技術、さらには能力もあるのだという事を。教える力も才能のひとつなのだ。

 これまでにも、何度も能力と人格を混同するのは、日本人の悪しき習性だと言ってきた。金メダルを取っても犯罪を犯す物はいるし、世界チャンピオンで刑務所に行く物もいる。なにか、一つの能力に長けていることが、必ずしも人に尊敬されるような人格者だとは限らないのである。同様に、優秀な選手が良い指導者でないことも、野球監督などの例からも充分わかっているはずである。

 だが、相撲でも、野球でも、柔道でも、およそ優秀だとされた選手が、そのままその団体の組織の理事などになっている事が多い。その延長として、選手上がりの指導者ばかりで、教える技術を持たない指導者が後を絶たない。これでは、勝てる選手など育つはずがない。

 日本では、師弟関係という特殊な関係が存在しており、そこでは業(わざ)は教える物では無く、盗んで受け継ぐ物だという考え方が、蔓延している。その全てを否定はしないが、真の武道や工芸はいざ知らず、およそスポーツは、そのような世界とは異なるもので有る。人間的なつながりとしての師弟関係は望ましいもので有るが、それと教える技術とを混同するのは、結局、情を優先している、あるいは知性がないとしか、言いようがない。

 スポーツの世界だけでなく、日本の教育における大きな障害のひとつが、この「教える技術の軽視」であろう。だれでも、単位を取れば教師になれるという今の日本の教育制度が、ゆがんだ教育現場をつくる原因のひとつになっている。


 教育改革案のひとつとして、生徒がその日のうちにわからなかった授業の補習を受けることが出来るような学校を提案している。たとえば、数学の授業が今ひとつ理解できなかったと生徒が考えるならば、その日の数学の補習を申し込む。(カードをかざすだけよい簡単な仕組みも重要)補習で、個人教授に近い形で理解を進めていく。この結果、義務教育最大の目標である、その年度における最低限の知識を、全ての生徒が習得できるようになるばかりでなく、補習を希望する生徒が多い教師とは、教え方が悪い教師だと言うことも分かってくる。このような形で、教師の質、とりわけ、教える力をきちんと判定し、向いていない教師には辞めてもらうか、別の仕事に移ってもらう。

 教育改革のひとつとして、教師の質がよく問題になるが、「教える技術」そのものを課題に挙げる事が少ないようである。

平成24年4月

 

2012年04月05日|烈風飛檄のカテゴリー:edu