柔軟性のある社会

 自律・自尊の社会においては、その社会の基礎となるいくつかの考え方がある。これまでの日本の社会は、資本主義経済の名の下に効率優先、欲望の肥大化による需要の喚起、科学万能、物質的豊かさの追求など様々な言葉が飛び交った。しかし、自律・自尊の社会においては、これまでの常識とは違う価値観をもって物事を捉えなおす必要がある。

 そのひとつが、柔軟な社会である。柔軟性のある社会というのは、一見抽象的にも思えるし、あるいは逆に割合簡単な事柄のように思えるのだが、この柔軟性を社会のシステムのあらゆるところに浸透させるのは、非常に困難なことでもある。あらゆる分野において、ある程度の柔軟性を持たせるということは、ゆとりをもたせることでもあり、それはシステムのコストにも直接関係してくる。

 わかりやすくいくつかの例で考えてみよう。
 まず、われわれの社会のインフラについてである。原発事故により、我々は電気というインフラが非常にもろいものであることを認識させられた。最近ではちょっとした災害によって、停電が引き起こされる例も多くなってきている。そんななか、9の電力会社間での電力融通さえ、ほとんど行われていない、いや行えない体制になっていることに驚かされる。この電力に関して柔軟な社会とはどのようなものなのであろうか?
 言うまでもない、何か事故や災害が生じたときでも、簡単に停電しないしなやかでゆとりのある電力システムということになる。言うのは簡単であるが、実現するためには実に多くのことを考えなくてはならないし、また、根本的な考え方、価値観ともいえるものを転換しなくては実現することはできない。

 電力だけではない。2012年5月に利根川水系の浄水場で有害化学物質が検出されて、30万以上に及ぶ家庭での断水が起きてしまった。電気、いやそれ以上に重要な水が、ちょっと河がよごされただけで、広範な断水を引き起こしてしまうようでは困るのだが。このようにこれまで効率一辺倒できてしまった日本社会は、非常にもろい構造になってしまっている。自治体をまたがっての水源の融通とか、浄水場の相互接続とか、比較的低コストの対策も十分考えられるのであるが、そこには、様々な規制や、行政の縄張りなど、くだらない問題が多く邪魔をしている。柔軟な社会をつくるとは、とりもなおさず、価値観をはじめとする社会のあり方そのものを変革することである。


 正規雇用と非正規雇用間の格差が大きな社会問題となっている。その裏には、460兆円にも及ぶといわれる内部留保(お金のたくわえ)があるにもかかわらず、非正規という安価な労働力を生み出し、適正な分配を行わない企業の問題もあるのは事実であろう。が、同時に、正規か非正規のいづれか、十分な報酬額か生活保護費よりも少ない給与といった、極端な選択しか出来ない硬直した社会の労働環境、企業環境そのものが問題なのである。だれでも、好きなときに好きな時間だけ働くことができる柔軟な社会こそ、新しい時代の労働環境である。

 教育においても、まったく同じような硬直性の問題がある。レールにのって、大学までの学歴を獲得できればよいが、そうでないと、社会のレールから外れてしまい、なかなか戻れないのが今の日本社会である。学歴ではなく、真の実力が正しく評価され、多様なルーがも社会に存在し、それを自由に選べる柔軟な社会こそ、新しい時代の社会である。


 柔軟な社会、その具体的なことがらについては、個々の項目に譲るとして、ここでは柔軟性を持った社会を構築することは、とりもなおさず、これまでの様々な価値観を捨て去ることだということを協調しておきたい。



調和の取れた社会

 柔軟性を保つ上で、重要なのが、調和である。簡単な例で言えば、柔軟性を獲得するためにかかる費用を考えたとき、どこで両者を調和させるかが、重要な問題となってくる。しかも、厄介なのは、この調和というものは、必ずしも客観的な尺度や決まりごとがあるわけではない。極端に言えば、主観的とさえ言えてしまう。

 個々の利害が衝突する中で、社会にとって望ましい柔軟さとはどのようなものなのか。調和の取れた社会を作ることも、また非常に難しい課題であることは間違いがない。


 柔軟性そして、それを決める調和の取れた判断、そういうものがうまく働いてこそ、新しい時代の社会、自律・自尊の社会を築くことができる。


参考資料
『日本人の気質』

2012.05 改

2020年12月14日|烈風飛檄のカテゴリー:basic