コロナ後の世界:たまに発生する事象への対応①
中国発新型コロナウイルス(COVID-19)の大流行によって、世界は大混乱となりました。特に経済は深刻な打撃を受け、世界恐慌以来の深刻な状況に陥りました。その影響の大きさから、まだ感染が終息したわけでも無いのに、早くも様々な「コロナ後」が語られるようになりました。
コロナ後の世界がどのように変わるのか、実際の所は誰にもわかりませんが、これまでと同じではないと多くの人が考えている、いや感じているのは確かでしょう。世界の今後の方向性や在り方など大きな話から、身近な生活の変化まで、実に様々な事が語られています。
ここでは、日本社会が抱える大きな問題点について考えて見ます。具体的には、今回のような未知の疫病流行に対する備えということですが、戦後日本社会が失ってしまった柔軟性の問題がそこにはあります。
戦後の欧米崇拝とりわけアメリカのやり方を取り入れた経済効率重視の仕組みが、様々な弊害を引き起こしています。劣化の平成時代には、それに経済的、人的劣化が加わって、目も当てられない状況になってしまいました。
つまり日々起きている事への対応を最優先とし、しかも出来るだけ効率的に無駄なく低コストで済ませるというやり方です。その結果、たまにしか起きないことやまれな事に対しては、ほとんど無視することになりました。今回のコロナ騒動では、日本の対応における様々な問題点が指摘されましたが、そのかなりの部分は、たまにしか起きないことを軽視していたことに起因しています。緊急事態への法律の不備、感染対策が施された医療施設が無い、医療器具が不足、防護服やマスクなどほとんどが輸入品、そもそも感染症対策の医療従事者すら少ないという有様でした。
このたまにしか発生しない事象への対応が、社会としてほとんど考慮されていない課題は、今回初めて表に出てきたわけではありません。
例えば、2018年(H30)に発生した巨大タンカーの航行不能事故では、なんとこのタンカーを曳航できる曳航船が、たった1隻しか無かったのです。他にも近年当たり前になりつつある異常気象による災害でも、備えの不備が色々と問題になっています。関西空港では、橋が一本しか無いのにそこに船がぶつかって、空港が孤立してしまいました。
たまにしか起きない事への備えが不十分な理由には、バブル以降の経済的余裕のなさもありますが、それと共に、たまにしか起きないことに素早く対応できる柔軟性を、日本の社会全体が失っている事があります。
一方で、それなりに機能した例があります。それが1995年(H7)に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件でのことです。6000人を越える多数の死傷者が出た無差別テロ事件ですが、この負傷者の多くを、外来を止めてまでして引き受けたのが聖路加病院でした。
病院長だった日野原重明は、病院を建てるときに、不測の事態に備えて、大勢の患者を収容出来る病室の代わりになる広い礼拝堂を設けました。その壁の配管には人工呼吸器が付けられるようになっていたのです。周囲の反対を押し切ってまで、緊急事態に備える建物を建てていたからこそ対応可能だったのです。
また、原因がサリンという神経性毒物であると気づいたのは、自衛隊中央病院から来ていた青木医師でした。外部の医師の言うことをすぐに取り入れた日野原院長もすごいのですが、そもそも自衛隊がサリンなど毒物兵器を日頃研究していなければ、わからなかったはずです。死者が13名程度でおさえられたのも、この二つの事が大きかったのです。
本来ならば、このようなテロを未然に防げなかった日本社会は、大きな問題を抱えていると言えますが、その事はとりあえず脇において話を続けます。
この事例から、コロナ後に我々がやらなくてはならない事もはっきりと見えています。ひとつは化学兵器や毒物への研究を忌避してはならないという事です。新型コロナウイルスもその発生場所として、武漢の研究所が疑われたりもしていますが、感染症などを研究する事自体は、非常に重要なことです。日本では、いやなことには触ることも許さない気質がありますが、それでは本当の安全、国民の生命や健康は守れないのです。世界の国々と共同して、人類にとって有益な研究はもっと積極的に行うべきなのです。これも、ある意味では柔軟性を欠いていると言えるのでしょう。
もうひとつ、個々の施設や、人材、システムの柔軟性は、大きな問題ですが、これを大きく阻んでいるのが、縦割り行政に象徴される閉鎖的なくくりの問題です。
新型コロナウイルスは、過去のウイルスよりもその感染力が非常に強いとされています。そこで病院などの医療施設では、感染症対策が充分に出来ていないと院内感染などが引き起こされやすくなります。実際、多くの病院で起きてしまいました。では、病院を建てるとき、すべての病院が感染症に対応した設備や人材を完璧にそろえなければならないのでしょうか。それは費用対効果などから見ても、実現不可能です。ですが、感染症対策の病室を普通の病室として使う事はさして問題が無いはずです。ならば、病室の何割かは感染症対策済み病室にしておけば良いはずです。
つまりたまにしか起きないことに全て備えるのではなく、部分的に備えたものを考えるのです。こういう発想をすべての事柄に適応しておくべきです。
例えば、軽症や無症状の患者を隔離するホテルなどの確保が問題になりました。これなども、自然災害時の避難場所がはじめから個室対応になっていれば、かなり柔軟に対応できたはずです。自然災害の非難でも、子供連れや妊婦さん、障害のある人など個室が必要な例がたくさんありました。感染症隔離のための新しい施設をわざわざつくるのではなく、他の目的と合わせた形をはじめから考えるべきなのです。少子化で学校の閉鎖が相次いでいますが、なぜこれらの設備が、避難所などとしてもっと有効に活用できないのでしょうか。学校以外の目的で使わせないのは、あまりにも無駄なことです。そこには、役所などの縄張り意識、縦割り行政に加えて、施設などでも単独の目的ばかりを考える国民の意識にも問題があるのです。
少子化や経済的余裕などの理由からも、これからのあらゆる設備は、複合目的化されなくては成りません。最近では、大規模な建物を一時的な避難場所とする契約が結ばれるようになりました。これをもう一歩進めて、はじめから幾つかの目的に利用できるように考えてつくる発想が必要でしょう。
ここでは、柔軟性を確保するひとつの方法として、多目的設備と設備の一部を別設備にしておく発想を述べてみました。まだ他にも多くの方法や考え方があると思います。何よりも、行政の縦割りをやめさせたうえで、柔軟な考え方を持つ訓練が日本人全体に必要なのでしょう。それが、柔軟な社会をつくる唯一の方法なのです。
令和2年(2020)5月21日