「うば捨て山」政策を急げ!

 姥捨て山の話はよく知られているであろう(たぶん!)。年老いた親を背負って山に捨てに行く話で、いくつかのパターンがあるようだ。ここでは、その民話に習って教訓を垂れようというのでは無い。逆に、老人にはつらい話かもしれない。

 何を言いたいのかと言えば、お金持ちの老人への税金投入をやめようという話である。「21世紀の資本」で有名になったフランス人経済学者、トマ・ピケテイの「日本の格差是正のためには富裕層や高齢者に課税するべきだ」発言と重なるものでもある。それがなぜうば捨て山なのかって?

 これまで(戦後)の日本では、老齢者は弱者でありすべて保護されねばならないという考え方で各種政策も作られてきた。だがそれはすでに破綻している、より正確には破綻することが確実である。従って、老人をうば捨て山に捨てたように、一見非情と思えるような政策もとらなくてはならないのだ。誤解は無いと思うのだが、すべての老人を見捨てろとか、困らせろなどというのではない。分相応の負担を高齢者や富裕層にしてもらうということである。

 いまの自民党政権の支持基盤が高齢者だから、高齢者負担になる政策を実施出来ないのだという話はよく聞かれる。だがそれだけではなく、日本人にある異常な公平性、平等性を求める気質、それ故に柔軟な対応が出来ない官僚的法律・行政こそ大きな問題なのであろう。「高齢者も負担を」というだけで、若者もどこか後ろめたさを感じてしまう。日本人の優しさ、美徳ではあるが、知性を欠いた感情的政策は結局社会の存続を危うくしてしまう。老人を見捨てるかのようなうば捨て山政策を実施しようと、大きな声を上げられる成熟した社会が求められている。

 高齢者の皆さん。私自身すでに老人(?無職だし!)であり、毎月支払う医療費の3割負担は結構つらいものがある。でも、ぐっとこらえて、この程度は我慢だと、サムライのやせ我慢をしている。食べていけるなら、それで良いでは無いか。ただ蓄えも底をついたので、今後年金だけの生活になるので、なおさら年金の破綻は困るし、これ以上若者の将来を暗くしたくはない。



 あとは、付け足しに過ぎないのだが、ではなぜ、そのようなうば捨山政策が必要なほど日本は追い詰められているのか、具体的には何をどうすればよいのか、述べていこう。

 簡単に言えば、中途半端な科学技術の進歩と自己中心的な人間たちが招いた災害のただ中、それがいまの日本の現状なのだ。

 医療技術の進歩は、人間の寿命を格段に延ばした。だが、それはまさにただ生かしておくだけの技術であり、決して死ぬ前の日まで健康に働ける生活を保障したものでは無い。生かしてはおくが、働けない、動けない、健康でない、そんな老人たちを大量に生み出してしまったのだ。老化や病気をある程度食い止められないのであれば、延命すべきでは無かったのだろう。
 少子高齢化の何が本質的な問題なのかと言えば、少子化はむろん問題である。それでも、昔のように働けなくなった頃にみんな死んでいくのであれば、少子化さえ止めればそれで済む。だが、いまの高齢化はそれだけで済まないところに大きな問題がある。死なないで生きてだけいる高齢者が飛躍的に増加している社会。そこでは、医療費が爆発的に増加し、年金の負担も長く大きくなっていく。そのくせ、その医療によって、さらに生かされるだけの人間が増えて、必要な財政負担も増加していく。まさに負の循環(スパイラル)に落ちているのである。その意味で、平均寿命が世界一とか、また伸びたなどというのは、決してめでたいことでも、祝うべき事でも無いのである。

 

 人口動態の推移をみれば、そのことは一目瞭然である。働く世代を仮に20歳から65歳までとしても、45年間。それに対して、働かないで食べさせてもらうのは、0歳から20歳までと、65歳から男81歳、女87歳である。合わせれば、約39年間。ここの人口が爆発的に増えているのである。このままでは、今後も増え続けていく。はたして45年間働いた蓄えで、39年間食べていける日本人がどれほどいるだろうか?国全体としてみても同じ事である。つまり、あり得ないのだ。

 



 上図では、高齢者比率がいかに多くなっているか、下図では80歳以上つまり働けなくなってから死ぬ人がどれだけ増えているかがよくわかる。もっとわかりやすく図にすればこうなるだろう。

 


 しかもさらに悪い状況にある。今後2~30年間はこのような状態が続くであろうに、働く人口は少子化でさらに減り、いまは金持ちの老人もやがて死んでいくと富裕の老齢者層まで無くなるのである。仮にその残した財産を使いたくても、すでに1000兆円を越える借金の穴埋めに使ってしまえば(そうすべきでもある)、前向きの投資もばらまきも出来ず、ただ貧しい人々だけから成る日本社会が出現することになる。

 だから移民の大量受け入れなどと言う目先だけの政策は、何ら解決策になっていないことは、説明すらいらないであろう。移民もやがて老齢化し働けなくなる。子供をたくさん産むからと言って、いくら少子化だけ止めても、この死なない老人問題は何ら解決しないのである。

 

 さらに自己中心的な国民の要求と票のためだけに政策を決める政治家によって、「失われた20年」と呼ばれるほど、長期間にわたる経済的な停滞、劣化を招いてきた。また若年無業者数は、15~34歳で56~64万人も存在しているし、晩婚化の進行など、悪条件ばかりが目につく。なにかひとつの政策だけでこの問題は決して解決することは出来ないだろう。短期長期を組み合わせ、複合的な政策が必要になる。うば捨て山政策とは、そのうちのひとつで支出の増加を止めることである。


 結局、分相応の生活ならぬ分相応の負担を、そして国に助けてもらわなくても自ら生きていけることを誇りに思う社会を実現するしか無いのである。
 具体的には、いまの既得権者や欧米の圧力に屈したばかげた医療費政策をやめること。同時に、老人にも医療費を負担してもらい、過剰な薬の投与などをやめさせること。年金については、企業年金などで十分な収入のある人には、公的年金の額を減額する。そしてなにより、資産をもつ富裕老齢者には、年金の支給をしない。資産家すべてではなく、老齢の富裕層をまずは対象としたい。なぜなら、若い富裕層にはお金を消費するという役割があるからだ。
 むろん、いまの一部の人間だけが潤う年金制度も統合して根本的な改革を図るべきなのは、言うまでも無い。他にも少子化を止めるための政策と経済活性化は、当然の事であるが。
 ちなみに土地と家で資産があっても、売らなければ生活が出来ないと言う擁護論をよく聞く。これも柔軟な政策がないから起きることなのだろう。国や自治体がその資産を購入して現金をわたす。代わりにその老人が死ぬまではその家に居住(賃貸)することを保証する。こういうところには、それこそ日銀の国債購入を当てても良いだろう。都市の土地の再構成などメリットは、他にも色々とでてくる。ようは画一的な政策をやめられるかどうかである。

 これだけの政策をやれば、その政権は必ずつぶされるであろう。だが、それでも誰かがやらなければ、日本がつぶれるだけなのだ。


 いまこそ、うば捨て山政策を認められる国民の冷静さと高い意識が求められている。社会や国家の改革は、結局その国民の意識によって実現されるものなのだ。


参考資料
厚生労働省ホームページ 人口動態調査 平成27年我が国の人口動態

平成27年9月14日(月)


2015年09月14日|烈風飛檄のカテゴリー:idea