核廃絶は感情論でなく世界に
世界で唯一の被爆国、日本。だが、敗戦国なるがゆえに課された制限もあり、その悲惨さを世界中に伝え切れているとは言えないのが現状である。
誤解を恐れずに、いくつかのことを述べてみたい。
■日本人は感情だけでなく、理性的な現実直視を
とかく感情的になり易いとされる日本人。自虐的感情論は、国内はいざ知らず、世界の人々に原爆の惨状を必ずしも正しく、あるいは有効的に伝えられているといえない。
世界政治の冷徹な現状、各国の優先は決して世界平和ではなく、自国の国益なのだという現実を認識しなくてはならない。イスラエル(公式には認めていない)、インド、パキスタンには核兵器保有を許して、お咎めもなし。一方、他の国には経済封鎖を行ってでも、阻止する。いかにテロ防止などの理屈などを挙げてみたところで、しょせん、各国の自国利益から選択が行われているにすぎない。この現実を日本人は、果たして正確に理解できているのだろうか?
国連改革すらしない国々が、大量破壊兵器の拡散防止の名の下、核保有国だけが、その権利を独占し続けようとしている。それが、世界である。
もし、日本が核兵器を持つといえば、真っ先にアメリカを中心とした核保有国が、あらゆる制裁を日本に課してくるであろう。だが、一方、核保有国は、非核保有国の言うことなど聞かない。絶対的優位と信じているからである。そのなかで、いかに、核兵器廃絶を進めていくのか。きれいごとではすまないのだ。
そして、日本の核保有どうように、世界の核兵器廃絶にしても、日本が本気でその運動をおこなうには、相当な覚悟が必要である。都合の悪い国や組織から、あらゆる妨害や圧力があることを、日本人は覚悟できているのであろうか。
■冷徹な世界に向かって生理的嫌悪を
日本人が、本気で核兵器廃絶に進む覚悟があるのなら、こんなところから第一歩が踏み出せるのではないだろうか。
『日本は核兵器を保持はしない。しかし、全世界から核兵器が廃絶されない限り、同等の防衛方法に関してはいかなる可能性も放棄することはない』そのように世界に宣言するのだ。いまの、平和ボケで内側にしか通用しない言葉ではなく、世界の人々に通用する言葉での発信を行うことが重要なのだ。
まずは核兵器保有国となってから、今度は逆に、一緒に核兵器廃絶を進めるという方法論が、かなわないのだとしたら、核保有国が絶対的に有利だという状況認識を改めさせなくてはならない。この宣言は、そのことを意味する。ここで、これまでどおりの国内の反対論が出れば、それだけ、世界からこの言葉の重みが失われる。これは、日本人の覚悟を示すものなのだ。
そのうえで、小さいかもしれないが、原爆のビデオを作って世界に流そう。上記で示した感情で動くなということとは、まさに反対のことをやる。これまでも、いくつものビデオはつくられたり、被爆者による講演なども世界に向かって行われてきた。だが、人類全体には届いてはいまい。一部のインテリ階級や、特定の人々にしか広まっていないように思える。だから、今度は逆に、感情にのみ訴えるビデオにするのだ。
広島、長崎での実際の被害にもとずくビデオを作製する。15分程度の短いものでよいから、実写を中心にする。なにか、説教じみたことを言うのではなく、ひたすら人間の生理的嫌悪、感情に訴えて、核兵器への生理的嫌悪を植えつけるものにする。アメリカへの非難ではなく、政治的なメッセージでもなく、核兵器の悲惨な被害を人間の感情に訴えるものにする。
国内からも人の死を冒涜するものだとの批判はでよう。それでも、その批判は黙って受けよう。
爆発直後の悲惨な状況、やけただれた、肉が削げ落ちた黒こげの人々がさまよう姿。
子供をかかえ、背におぶり、わが子をかばう間もなく、一瞬でなくなった母子。
黒こげで見分けもつかない肉親を頭に食い込んだ櫛で見分ける子ども。
やけどのひどさ。閃光で身体が二つに裂かれた姿。
骨も残らず黒い影だけがしみついた壁...等々。
そして、一言でよいから添えよう。意識を拡散させないために、感情を邪魔しないためにも、一言でよい。
人類の虐殺の歴史の中でもこれほどの残酷な虐殺があったのかと、問いかけよう。
この惨状は、後遺症として今でもまだ続いている現実を。
これらの写真は、広島や長崎で実際にその眼で見れるのだと。
たった一発の原爆で20万人もの一般市民が死んだことを。
この恐ろしい出来事が、数日後にまたも繰り返されたのだということを。
このビデオは、世界200カ国の現地語で作成する。やはり自分たちの言葉で直接聞かないと、効果は半減する。核兵器開発をしたがる多くの国の言葉でも、当然作成すべきであろう。
つくられたビデオは、インターネットはもちろん、各国の関係機関等に配布する。相当な反発、とりわけアメリカのナショナリズムを刺激して、反日的な雰囲気も生まれるかもしれない。それを覚悟してでも、大きく世界中にばらまけるのか。覚悟がいるだろう。それでも、私は、このような手段こそが、大きなうねりを作り出すきっかけになるのではないかと思えるのだ。
むろん、感情的ビデオとともに、冷静な知性に訴えるビデオも同時に作るのが望ましいであろう。そして、ここでも、特定の国を非難するのではなく、人類全体の問題なんだという、共通認識を持たせることに主眼を置くべきである。そして、こちらでは、一切の感情論を排するべきである。
こんな考えは、あまり実効性がないと考えますか?それとも、ここまでの覚悟はいらないと思いますか?
平成24年8月