新しい社会の考え方:性悪・厳罰・大岡裁き
東京都が青少年の健全育成を目指す条例の改定をしてから1年が経過したが、この間に販売が禁止された出版物はなかった。こんな目立たない小さなニュースが報じられた。
この条例の改正案が提出されたときには、表現の自由の侵害、適用があいまいなどという理由で、漫画家、出版業界、マスコミなどが、そろって反対のキャンペーンを張っていた記憶がある。あの騒ぎはどこに言ったのだろうかと思うと、日本人のその場限りにも困ったものだと思うのだが、今は別の話である。
ここまで社会が乱れ、悪いことを悪いといい、いけないことをやるなという、人間としての規範が社会全体から薄れてしまった現状では、法と運用についても考え直さざるを得ない。
そのときに、人間を性善説で見るか性悪説で見るかは、法と運用における基本的な考え方にも関係してくる。残念ながら、もはや性善説が通用する社会でないことは、認めざるを得ないであろう。となれば、勢い刑法などの処罰は、厳罰主義に傾くことになる。
厳罰主義が、犯罪抑止にはならないという論は、その実効性の可否論は別として、少なくとも性悪説の立場とは相容れないものとなる。
回りくどい言い方をやめて、簡単に言ってしまえば、こういうことである。
自主規制や常識がうまく機能しない社会では、厳しい罰則を伴う法律による規制が必要である。それは、いわば最後の砦、歯止めである。となれば、問題は、その運用ということになる。大岡越前でもない限り、常に運用が正しく行われるとは限らない。運用の監視体制の充実とその歯止めが必要になる。
東京都の条例でも、あれほど反対していたのに、結局、行き過ぎた性描写が自主規制されて、表現の自由が束縛されるような出版禁止はひとつもでなかった。それなりに機能したということであろう。もちろん、今後もこのまま推移していくのかどうかは、まだわからないが。
いま、問題となっているビデオなどのダウンロードの取り締まりも、同じ課題をはらんでいる。禁止条項や罰則ではなく、ようは運用がどうなるのかであろう。
大きな社会問題化している「脱法ハーブ」の取締りでも同じことがいえる。薬物個別指定ではなく、化学式が同じ集合体全体を取り締まる法律を早期に導入すべきなのは言うまでもない。だが、それを躊躇させている理由のひとつが、薬物としてではなく本当にハーブなどお香としての使用を制限することへの抵抗であろう。むろん、関係業界からの、反対もあろう。訴訟も起こされるかもしれない。だが、それは、まさに運用でカバーすべき問題でる。本当にハーブとしてしか使用せず、健康にも害がないのであれば(個人的にはもっと研究すべきと考えるが)、見逃せばよいだけであろう。
もはや古い考え方から離れ、発想を変えて、法律を含めた社会の仕組みを再構築する時である。大岡裁きをどう具体的な仕組みとして構築していくか、その知恵が試されている。
様々な意味でも、柔軟な対応ができない社会はいずれ滅びる。
2012.07