海外での戦没者慰霊案
もう10年にもなる。会社の仲間とタイへ観光に行った。タイにはそれまでに何回も行っており、アユタヤ観光も経験済みであったのだが、初めての、そう、人生で初めてであろう奇妙な体験をした。正確には、奇妙な体験をしたという錯覚を、経験しただけなのかもしれないが。
アユタヤを流れるチャオプラヤー川をながめていたとき、ふと思った。山田長政だけではなく、多くの日本人の中には、お姫様もいたのかもしれないな、と。その晩、タイの最後の夜をホテルで寝ようとしたとき、人の気配を感じたのだった。明らかにかなり昔の、それも少し身分のある武士の娘のような感じを受けた。
私は、いわゆる霊感とか霊能力とはまったく縁のない、どちらかといえば鈍い人間である。したがって、姿がおぼろげでも見えるわけでもなく、声が聞こえたわけでもない。だが、確かに気配を感じるのだった。その彼女が、「日本に帰りたい」と、私に訴えかけてきているように感じられたのだ。そこで、私は心で語りかけた。「よければ、明日一緒に日本に帰ろう」と。
帰路の飛行機の中でも、彼女の気配は感じられ、しかも無性に涙が出てとまらなかった。周囲の人に気づかれないようにしなくてはという醒めた気持ちと、とまらない涙とが、私の中で同居していた。無事帰国して空港の中を歩いているとき、彼女が会釈をしてどこかに立ち去った気がした。何百年ぶりかで、帰れてよかったね。そんな気持ちで、私の心はいっぱいだった。
戦後67年も経ったいまでも、海外で戦没したままの多くの日本人がいる。戦没者の遺骨収集は、根気よく行われているのだが、ボランティアや遺族によるものも多い。以前、国の収集の遅さに批判が高まったとき、厚生労働省はそれを金で解決しようとした。民間に依頼して遺骨収集を積極的にすすめたまでは良いが、例によって役人の形式主義があだをなした。骨を持ってくと金をくれるということで、現地で関係のない骨はもちろん、墓を暴いて骨を盗むという騒動にまで発展したところも出た。収集数は飛躍的に増大したのだが、日本人ではない多くの遺骨がまじり、収拾のつかない事態になってしまった。
こんな心無い遺骨収集で、本当に日本人の戦没者の魂が安らぐのだろうか。誤解を恐れずに言えば、骨は骨である。それが遺族にとって大切な遺骨となるのは、そこに死んだ人の魂が共にあるからであろう。大切なのは、心(思い)なのだと思う。
永代供養というのがある。永久に供養をしてくれるというものだが、原則50年までで、それ以降は遺骨がのこっていれば、処置されることになる。(寺や、宗派で違うのかもしれないが)
ならば、一度きちんと戦没者の魂をすべてよびもどす、懐かしい日本に帰してあげる、それを国が集中的に行うべきなのではないだろうか。そのための、勝手な私案を述べてみたい。
私は素人である。(しつこいか!)家に仏壇と神棚はあるが、その道の勉強も修行もしたことなどなく、知識もない。でも、人は心で動かされると信じて、自分勝手な方法を述べてみたい。基本は、アユタヤの経験と同じことである。日本に帰れず、現地にとどまってしまった魂を、日本のふるさとに戻してあげることだ。
島でも、地域でもよい。戦火のあったところに、坊さんと神職に集団で出かけてもらう。人数は、その地域の事情にもよろう。地域でおのおの別れて、戦没者の眠りそうなところに行ってもらう。そこで、小さな白木の位牌(と呼ぶのかも知らない)に、その地域にとどまったまま帰国できないでいる魂を集めて封じる。それから、1箇所に集まって、そこで持ち寄った白木位牌の魂を、少し大きな白木位牌に移す業をなす。そのとき、可能であれば、その地に小さな碑でも建てても良いであろう。
一本の白木位牌に収まった魂は、みんなで守護しながら日本に持ち帰る。千鳥が淵の戦没者墓苑でも、靖国神社の境内でも、皇居前広場でも良いから、その白木位牌の魂を解放してあげる慰霊を行う。燃やすのがもっとも良いだろう。
こうして、現地にとどまり続けた無念の魂は、故郷や肉親のところへと帰って、安らかになれるだろう。これを、日本人が戦死した広大な地域で、一通り行うことである。反日地域では無理だろうが。
この案、例によって政教分離がどうとか、非科学的だとか、ありきたりの反対がでてくるだろう。反論も面倒なので、ここでは無視しておこう。それでも、この実現には、全宗教界の協力が必要となる。
仏教系と神道系だけにしたのには、他意はない。上記のような考え方「遺骨もなく、その地にとどまる魂だけをこのような方法でつれて帰る」に賛同する宗教、宗派を他に知らないからである。また、無宗教と言おうが何と言おうが、日本においては、これらが国民習俗・慣習に合致しているからである。
各宗派間での対立などせずに、すべての仏教宗派が集まって、坊さんを派遣してほしいものである。けんかにならないよう、1宗派の坊さんだけで固めないことも必要であろう。神道もまたしかり。このような業はやらないというのなら、参加しなくてもやむを得ないが。
誤解のないように言いたいのだが、遺骨収集をやめろとか、意味がないとか言っているのではない。それは、今後もできる限る続けるべきであろう。アメリカですら(おこられる言い方だが)いまだに行っている。
しかし、遺骨がないと日本に戻れないというのでは、あまりにもあわれである。もう、まとめて魂を祖国に帰してあげる時ではないだろうか。
なお、現地の人々との関係も忘れてはならない。むやみやたらと大きい、これ見よがしな慰霊碑の建立は、個人的には好まない。もし現地の人が、建立を許可してくれるのならば、ほんのわずかな土地を買うか借りるかして、そこに道祖神か地蔵さん程度の、小さな、小さな碑を建てさせてもらおう。むろん、その碑は、日本人だけでなく、犠牲になった現地の人も含めての鎮魂の碑でなくてはならない。そして、その碑が、長い時の流れの中で、自然と埋没していくことこそ、日本人本来の感性にあうものだと信じて疑わない。
あらゆる、思想、政治的信条、思惑などをすべて離れて、故郷に帰りたいと願いながら今なお果せない多くの魂を帰らせてあげたい、その気持ちだけでいる。また涙が出てきそうである。
平成24年(2012)8月